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復興の担い手が語る、震災の経験を未来につなぐために大事なこと

  • 2024年3月11日
  • コロカル

これまでにもさまざまな震災を経験してきた日本。そのたびに、乗り越えようと力を合わせてきた。しかし、日常を取り戻すとともに、その記憶は薄れていってしまう。

もしも、自分の住んでいる地域を大きな災害が襲ったら――

過去の震災で復興に携わった8人に、その経験を経た今だからこそ、能登半島地震の被災者や復興支援をしたい・している人へ伝えたいこと、そしていつ自分が被災者になるかわからない私たちみんなが考えるべき日常からの心構えを教えてもらった。

今回聞いたこと

(1)「能登半島地震」が発生したことを受け、率直な気持ちをお聞かせください。(2)過去の震災が発生した当時、どのような活動をしましたか?(3)その経験は、能登半島地震の復興、今後起こりうる災害へどう生かせますか?(4)現地で復興に携わる方々へのアドバイス、メッセージをお願いします。(5)読者のみなさんに向けて、災害への心構えをお願いします。

「こうするべきだ」はただの押し付け 課題を明確にすることが先決

わかめの収穫をする一般社団法人フィッシャーマン・ジャパンの阿部勝太さん

1 一般社団法人フィッシャーマン・ジャパン 阿部勝太さん

(1)能登半島地震が発生して地震が発生した当時は家にいて、地震や津波の状況をリアルタイムで見ていました。一度同じような経験をしている僕らなら、あれだけ揺れれば逃げたでしょうが、能登のみなさんの場合は初めて経験した方もいらっしゃいますよね。きっとどういう被害が出るのか、想定できていなかったはずです。わからないから想定できない。想定できないから逃げない。直接的な知り合いはいませんでしたが、「なんとか逃げて!」とドキドキしながら見守っていました。

被害状況が少しずつ見えてくるなかで、ライフラインが閉ざされたときの大変さ、避難所での生活、車中泊も全部やってきたことなので、すごく気持ちがわかるというか。だからこそ何ができるのか、考えていました。

(2)過去の震災での活動東日本大震災のあとにフィッシャーマン・ジャパンを立ち上げましたが、一番の理由は個人の頑張りでは解決できない問題が出てきたからです。たとえば原発事故による風評被害ですね。そのほか人口流出による現場でのマンパワーの低下、大きな借金を抱えてより稼がないといけない現状など、もちろん個人でも頑張りますが、それだけでは進んでいけないレベルの出来事でした。

そうなったときに、チーム一丸となって頑張る組織も必要だと感じました。民間の漁師や水産加工業者、魚屋さんも含めて、手を取り合って困難に立ち向かうことができればいいな、というのが始まりです。

とはいえ、もともと衰退産業ではあったので、震災に関係なくやらなきゃいけないことだったのかもしれません。やらなきゃいけないことに、震災がきっかけで気づいたという感じでしょうか。

(3)今後への生かし方経験上、チーム一丸となって立ち向かうことができたほうが力になるということは言えますが、防災のところでいうと、僕らにできることはほとんどありません。今できることは、食べ物や物資、義援金を送ることです。一般的な災害支援は、プロがいますから。

漁業に対しても、まずは被災地での課題が明確になり、方向性が定まっていないと、「こうするべきだ」「こうあるべきだ」は押し付けにしかなりません。

三陸はまだ若手がいましたが、輪島では漁師の高齢化が課題だと聞きました。その人たちのケツをたたいて、また借金させてまで再スタートを応援するのが正義なのか、僕らにはわかりません。課題が明確になり、どういう立場で協力できるかが見えてきたときに、今度は僕らが話し合って、最大限やれることをやって応援したいと思っています。

(5)災害への心構え東日本大震災のときは、過去の震災とはケースが違ったので、防災やハザードマップなど、対策は難しかったと思います。しかし能登半島地震は、東日本大震災のケースに似ています。まったく一緒ではないけれど、海が近くにあって、条件は似ている。今までの経験で、被害の状況や起こりうることはある程度わかったはずです。

しばらく地震を経験していない地域、大きな被害が出ていない地域でも、学校教育や自治体の避難訓練、広報物、メディアも含め、呼びかける必要があるとあらためて感じました。小さい頃の避難訓練なんて、机の下に隠れるだけですからね。

実際は家屋が倒壊して、火事が起きて、逃げる場所がありませんでした。それで亡くなる方が多く出ているのに、そんな避難訓練のままでいいのか。地域ごとにしっかり作っていく必要があります。どうしても避けて通れないからこそ、国も自治体も民間企業も全部含めて考えていかないといけません。

profile

阿部 勝太

あべ・しょうた。1986年生まれ。石巻の漁師の家系の3代目。東日本震災から4年後の2014年5月に一般社団法人フィッシャーマン・ジャパンを設立。個人の力だけで震災からの復興や、今後の漁業に起きうるさまざまな問題の解決に取り組んでいる。

津波でダメになった農地を再生 綿花の栽培でつながる「人の輪」

東北コットンプロジェクトの支援で行われた綿花栽培の収穫の様子

2 赤坂農園 赤坂芳則さん

(1)能登半島地震が発生して大自然の驚異と、人間の無力さを痛感しています。国や県の総力を尽くして、一刻も早い復興を願っています。

(2)過去の震災での活動阪神・淡路大震災、新潟県中越地震のときは、簡単に食べられるものとして、薄切りの餅などの食料品を2000個ほど送りました。東日本大震災では自宅が津波で壊滅し、親族を数人失いました。津波で甚大な被害を受けましたが、〈東北コットンプロジェクト〉の支援を得て、2011年6月から仙台市若林区荒浜で作物がつくれなくなった農地に綿花の栽培を始め、現在も続けています。

(3)今後への生かし方地震が発生したときは、一刻も早く安全な場所へ避難すること。津波警報が発令されたら、より高い場所へ逃げること。日頃から避難に必要な物を準備しておき、いざというときにすぐに持ち出せるようにしてください。

(4)復興に携わるみなさんへ復興作業は体力と精神力、そして根気が必要です。また、危険が伴うことも多いと予想されます。安全に対する意識と、自らの健康管理に配慮してほしいです。

(5)災害への心構え日本列島は地震帯そのもので、いつどこで襲い掛かるかわかりません。他人事と思わず、常日頃の備えを万全にすること。いざというときは助け合いが重要なので、地域の人々との人間関係も良好にしておくことが大切です。

profile

赤坂 芳則

あかさか・よしのり。赤坂農園代表・東北コットンプロジェクト東松島農場長。

2011年仙台東部地域綿の花生産組合を設立、津波で作物が作れなくなった農地に綿花栽培を開始。同時期、東松島市大塩にある牧場の山土を復興の為にすべて提供、その跡地に綿花栽培を移し現在に至る。

「自分のまち」を思い出し、かたちにする 昔の風景が未来のヒントに

石巻市牡鹿半島での住宅高台移転地のための住民ヒアリングの様子

2011年7月 東日本大震災後、石巻市牡鹿半島での住宅高台移転地のための模型を使った住民ヒアリングの様子。

3 AL建築設計事務所 福屋粧子さん

(1)能登半島地震が発生して関西に帰省していて、お正月で久しぶりに家族とゆっくり過ごしていたところに、激しい揺れが来て驚きました。

滋賀県では震度4でした。震源が能登半島の海際と聞き、すぐ津波のことを考え、続く余震も心配になりました。半年前に『10年後の震災のために』という文章を書いたあとだったので、書くだけで準備をしていなかったことを悔やみました。

また以前調査した地域と同じく半島の地震だったので、被害を受けた際に救援が難しいことを想像し、でも何もできないので避難支援の寄付先を探しました。厳しい状況のなかで炊き出しなど応急支援活動に入っている方、仮設住宅支援に入っている方には本当に尊敬の念を抱いています。

(2)過去の震災での活動私は仙台市内の大学に勤めながら建築設計の仕事をしているのですが、2011年3月11日の東日本大震災の地震・津波・原子力災害の発災時には東京に帰省していました。

宮城県・岩手県・福島県の沿岸部から少しだけ距離があり、なおかつ仙台の知人も多い二拠点居住者だったのです。そこで、親族を亡くす、家をなくすなど最も大きな被害を受けた人々と、首都圏にいて何かを手伝いたい人の間をつなぐ役割が必要だと考えました。建築設計やまちづくりについて話し合っていた先輩や友人と一緒に、中間支援組織の任意団体〈東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク(=アーキエイド)〉の立上げに関わりました。

〈アーキエイド〉は300人を超える建築家・建築関係者が賛同した団体として、一般社団法人化して寄付を募り、プロジェクトや復興支援の知見を共有する活動を行いました。また主に、中長期のまちづくり復興支援のための賛同者内外からの復興支援プロジェクトと参加者の公募を通じて、住宅の移転計画などのまちづくり支援を受けたい地域と、プロボノ(職業上のスキルや経験を生かして取り組む社会貢献活動)や建築学生のボランティア活動のマッチングを意図して活動しました。

〈アーキエイド〉のプロジェクトはうまくいったものばかりではありません。地域や支援活動者に大きな負担をかけた面もあり、似たタイプの支援グループでより長く続いている団体もあります。良かった点は、地域の支援活動に関わった学生や若者の数が多かったので、未来の災害に向けての経験を積んだ人が増えたことです。当時は意識的ではありませんでしたが、13年後の今になって貴重な財産だと感じます。

〈アーキエイド〉は2016年までの5年間活動し、東日本大震災のための中間支援の役割を終えて、現地での地域再生活動と平時の建築家の活動に分岐して行きました。その後、家や学校の再建まではかなり長くかかり、宮城県のある市では12年後に完成、また福島県ではさらに長くかかっています。

(3)今後への生かし方災害は誰にとっても、「まさか自分が災害に遭うなんて」と思うときにやってくることを知りました。災害後は、渦中にいる人ほど大きな被害に遭ったやりきれない思いや悲しみ、苦しみのなかで、まずは普通のくらしを取り戻して日常を再建しなければならず、その日のことや身の回りのことで手一杯だと思います。

一方、まちが再建されても、よそよそしく自分のまちと感じられないのでは、住み続けることは難しくなります。建築家はいつも、一軒の家を考えているときにも、そのまちの未来やクライアントのこれからの生活を考え、ジオラマのようなまち全体の模型をつくったり、スケッチを描いたりしています。

能登や広く北陸の人に今伝えたいのは、災害が起きた場所で、その地域の未来を考えるためには、昔の集落や生活を手がかりにして、外部の知恵も入れながら一緒に考えていくことが大事だということです。ひとりでは考えつかないことも、何人かで話し合っているうちに思い出すこともあります。

ぜひ、自分たちのまちのことを話し合いながら思い出し、かたちにしてみてください。昔の写真を探したり、おじいさんの昔の生活を聞き取ったりすることでも良いと思います。回り道のようですが、そこに未来のヒントが隠れています。

復興には長い時間がかかりますが、初めの1、2年でほとんどの道筋がつきます。建築家やまちづくり専門家の支援が必要だと感じたら、なるべく近所の専門家と話してみてください。遠くの知恵が必要なときにも、そこからネットワークが広がっていくと思います。また、長期的な復興支援を行うネットワークを近隣から組み、維持することも必要です。

(4)復興に携わるみなさんへまずは復旧時や片付け時に、二次被害に気をつけてください。東日本大震災では、1か月後、1年後、2年後、4年後、11年後と、大きな余震が続きました。

そして約1年後、崩れた家屋や瓦礫を必死で片付けて、仮の道路が元の道とまったく違う場所を通るように仮に整備されると、家がなくなった更地にかこまれて、住宅を失っていない人にとっても強烈な喪失感がもう一度やってきます。(津波で家を失ったあとに、もう一度まちの思い出全部を失うような悲しさです)

そのときに未来のまちを考えはじめることができれば、更地も可能性の塊として見えてきます。だから、できれば更地が広がるときまでに、未来のまちの再建イメージや昔のくらしを思い出しながら語る「まちづくり協議会」を、仮設住宅の仲間だけでなく、リモート通信も使いながら準備していけると良いのではないでしょうか。

行政が主導する場合もありますが大体は遅くなります。だから先行して身近なところから声をあげ、仮設住宅にいる人、地区の家に残る人、男性、女性、若者など、みなが参加できる場を考えてください。

また参加を呼び掛けられたときには、どうせ希望は通らないと諦めずにぜひ何回か行ってみてください。腹が立つこともあるかと思いますが、意見がぶつかるときも、お互いそれだけ真剣にまちのことを考えているということだと思います。

今、地元の建築家などが、〈(仮)北陸建築人会議〉や、〈(仮)北陸まちづくり人会議〉を立ち上げ中だと思います。彼らも力になってくれると思います。

(5)災害への心構え「災害のことなんて、恐ろしいから考えたくない」と思うのは自然です。でも、もし友人が、またその家族が災害に遭っていたら、心配ですね。被災した人やその家族も、口には出さず、頑張っている人も多いです。知り合いのネットワークをず〜〜〜っと辿っていくと、必ず関係している人がいます。自分の身の回りに被害を受けている人がいたら、まずはその人に、心配していることを伝えて、寄付したり、訪問したり支援してください。

その時点でもうすでに、「人ごとの災害」ではなくなってきます。また、その人を心配しているだけではなくて、自分事として考えるきっかけにもなります。

もう一段階進むには、被害を受けた場所に立って考え、心の準備をすることです。私がよく訪れる場所は、石巻市旧大川小学校です。震災の日に多くの児童・教員・地域の人が亡くなった場所ですが、語り部の方の話を聞くと、いつもの日常のなかで、突然災害が起き、避難が遅れたために亡くなったことがわかります。

「もしもはいつものなかにある」と語り部の佐藤敏郎さんはわかりやすい言葉で伝えてくれます。ぜひ彼らの語りや、被災地での語りを聞いてみてください。ヒサイシャという抽象的な存在ではなく、目の前にいる人間が被災したことや考えていることを感じ取れると思います。またその語りから「自分の生活のなかのもしも」を考えることは、必ず、災害が頻発する地域である日本に生きる私たちみんなの助けになります。

profile

福屋 粧子

建築家。SANAAを経て、2012年AL建築設計事務所設立。2011年「東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク〈アーキエイド〉」初代事務局長。2022年より東北工業大学教授。「tomarigi」「八木山ゲートテラス」「震災遺構石巻市大川小学校」など、まちと人をつなげる空間デザインを行う。

お金も国も頼りすぎるのは危険 自立心をもって生きる覚悟を

小高パイオニアヴィレッジ

4 株式会社小高ワーカーズベース 和田智行さん

(1)能登半島地震が発生して社会課題の先端地での震災は本当に気の毒。それでも持続可能な地域として復興するために、東北の人たちができることが多々ありそうだし、自分も貢献しようと思いました。

(2)過去の震災での活動原発事故避難指示区域となった南相馬市小高区において、『地域の100の課題から100のビジネスを創出する』をミッションに掲げ、避難指示が解除される2年以上前から、コワーキングスペース、食堂、仮設スーパーなど、帰還住民の生活インフラとなる事業や女性の職場としてガラス工房などの事業を運営。現在は宿泊施設を併設したコワーキングスペースを運営しながら、創業支援にも取り組んでいます。

100の事業創出を通じて、1000人を雇用する大事業ではなく、10人を雇用する100の多様なスモールビジネスの創出を通じた自立的で持続可能な地域づくりを目指しています。

(3)今後への生かし方二次避難からの帰還が始まるフェーズで、帰還住民がおそらく激減するなかで生活インフラとなる商売の再開をあきらめる事業者も出てきます。それがまた住民の帰還を鈍らせるという悪循環に陥るので、課題を可能性に捉えなおすことのできる若い起業家を呼び込み、新しい事業を立ち上げる動きを起こす必要があります。その経験とノウハウが役に立てると考えています。

(4)復興に携わるみなさんへ日常に戻るプロセスにおいて、ボランティアの活動や物的支援が、再開事業者の民業圧迫になることがよくあります。ボランティアの方は、提供するモノやサービスが再開した現地事業者と競合しないようリサーチしたうえで活動していただきたいです。(特にマッサージや子ども向け事業など)

(5)災害への心構え大災害中は、お金を持っていても解決できないことがほとんどです。国や行政に頼り切りもよくありません。ゆえに、住民同士がお互いに助け合える関係性づくりや、家庭と職場・学校以外にも居場所を持つことを普段から意識すると良いと思います。また、会社員の方は、突然職場を失っても生きていけるよう、副業に取り組むなど、自立的に生きていく覚悟をもって普段から行動を起こしておくべきです。

profile

和田 智行

わだ・ともゆき。株式会社小高ワーカーズベース代表取締役。一般社団法人パイオニズム代表理事。福島県南相馬市在住。2011年3月の原発事故により家族とともに約6年間の避難生活を余儀なくされる。2014年、避難先から通いながら避難指示区域の南相馬市小高区にて創業。「地域の100の課題から100のビジネスを創出する」というミッションを掲げ、一度は住民ゼロとなった町に20以上の事業を創出する。

あの日の怒りと悲しみ 「桜」に込められた強い想い

未来のいわき市の姿を描いた、桜が満開になった山々の絵

いわき万本桜プロジェクト事務所の前に掲げられた、未来のいわき市の姿を描いた絵。詳細は「植樹された桜は4千本!野外ミュージアムの250年計画とは?」へ。

5 いわき万本桜プロジェクト 志賀忠重さん

(1)能登半島地震が発生して「地震は必ず来る」と再認識しました。過去のことを都合よく忘れても、日本ではまた地震が起きる。

(2)過去の震災での活動自分自身を含めて、地震や原発事故について忘れないようにしよう。震災があったときに直面した気持ちや腹立たしさを忘れないようにしよう。そういう想いで、〈いわき万本桜プロジェクト〉を始めました。

植樹なら長く続けていけるし、形にも残ります。桜を見るたびに「なんでこういう活動をしているのか」、いくらかでも伝わればいいと思っています。

(3)今後への生かし方一番気になるのは、東京直下地震です。2013年に「30年以内に70%の確率で起きる」と宣言されて、もう10年経ちました。あと20年のうちに70%の確率ですよ。宝くじだったら間違いなく買った方がいい。でも本気で考えている人はいないですよね。私は本気で来ると思っています。

もしそうなれば、いわきまで避難してくる人もいるでしょう。それに備えて、20人が1か月生活できる段取りをしています。水は井戸水があるし、発電機でポンプをまわせます。トイレもあえてくみ取り式にしています。誰かがが生きて避難できたとき、少しでも気持ちが楽になるような準備をできたらいいなと思っています。

(4)復興に携わるみなさんへ2か月、3か月経つと、何をしたらいいかわからなくなります。最初は生きるために必死で、時間もあっという間に過ぎますが、少し落ち着くとどういう生活をして、何をしたらいいかを見失うんです。希望や目的を失った人をフォローできる人材が必要になってきます。なんでもいいから、打ち込めることがあればいいですね。

(5)災害への心構えつらいことを正面から受け止めるのは難しい。でも本気で、自分事として捉えないと。実際に地震が来たら、事前にいくら準備したって足りません。自分自身の生き方や生活の基盤を含めて、「それで大丈夫なのか」一度立ち返って考えてみてください。

profile

志賀 忠重

しが・ただしげ。1950年生まれ。いわき万本桜プロジェクト代表。磐城高校を経て東北工業大学建築学科卒。ガソリンスタンド、ソーラーシステム販売会社などを経営した。<いわき万本桜プロジェクト>では9万9千本を目標に、植樹活動を続ける。 ※画像はこちらの記事から引用

体験の記録が「生きる杖」になる 自己責任と断じられない社会へ

〈阪神大震災を記録しつづける会〉の会合の様子

6 阪神大震災を記録しつづける会 高森順子さん

(1)能登半島地震が発生して阪神・淡路大震災を10歳で経験してから、いろんなご縁が重なって、災害という出来事を記録したり、表現したりすることをテーマに研究活動をしています。私がかかわる活動は「災害アーカイブ」や「災害伝承」といわれることが多く、それらの活動は、災害が起きてから最後尾、いわゆる「熱が冷めたころ」から伴走をはじめ、何十年にもわたって続けるものです。

ただ、今回の能登半島地震は、地理的環境や少子高齢化などの状況を踏まえても、復旧に向けた初動の動きが非常に遅く、最初の「熱」が沸点に達しないまま、能登の人々を置き去りにしたまま、世の中が平熱の日常に戻ろうとしているように感じます。そのことに、最後尾から活動をはじめる者として、不安と焦りを感じます。

(2)過去の震災での活動1995年に起きた阪神・淡路大震災を10歳で経験しました。その時は、大人たちの様子を見るばかりで、子どもながらになんとか日々の暮らしを立て直すことで精一杯でした。

震災から1か月半後に、私の伯父の高森一徳が〈阪神大震災を記録しつづける会〉という団体を立ち上げ、以後、10年にわたり、1年に1冊、震災体験の手記集を出版しました。

SNSなど、個人の言葉を発信できるメディアが少なかった時代に、市井の人々の声を手記として残したいというのが、活動の動機でした。10年の節目の直前の2004年末に伯父が亡くなり、その後5年のブランクを経て、2010年から私が同会を引き継ぎました。

私は編集者として、2015年に手記集を、2020年に手記とインタビューの記録集を出版しました。そして現在、〈デザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)〉とともに、2025年の震災30年に向けて、「30年目の手記」という手記募集プログラムを2024年1月から始めています。

(3)今後への生かし方能登半島地震は復旧もままならない状況ですが、この状況をつぶさに記録しておくことが、次なる災害に遭う人々の「生きる杖」になるときがやってきます。

また、体験の記録をとっておくことや、体験を表現することは、「衣食住」のような必要不可欠なことではない、余裕のある人が行うことのように思うかもしれません。ただ一方で、私がこれまで出会ってきた手記執筆者の方々にとっては、書くことはすなわち生きることでした。

記録すること、表現することは、いますぐはじめなくても構いません。私のように、震災から15年後からかかわりはじめても構わないのです。いつはじめても遅いことはない、関心が向いたときに自分ができることをはじめる。そのことを遠慮しないでほしい、ということを伝えたいです。

(4)復興に携わるみなさんへこれから、ひとりでは決して決めきれない、正解のない問題を、差し迫った期限があるなかで決定しなければならない事態が来ます。(もうすでに来ているところもあるかと思います)

自宅再建する/しない、修繕する/解体する、集団移転する/現地復旧する、防潮堤をつくる/つくらない、など、二者択一の問題が提示され、ともに支え合ってきた住民同士が対立する事態も起きてきます。

ただ、本当にこの選択肢しかないのか、本当にこの期限で決めなければならないことなのか、その課題設定そのものも吟味し、早急に判断することを最優先にしない、ということも大事だと私は考えます。

専門家の方々に問題を「翻訳」してもらいながら、焦ることなく最良の選択をしてほしいと思います。

(5)災害への心構え「自分の命は自分で守ってほしい」という言葉は、私は決して言いたくないと思っています。なぜなら、この言葉は、「自助」ができないことを「自己責任」と断じることを許してしまうからです。

大切なことは、被災者になったときではなく、被災者になる前の「いまここ」において、人を助けられるような気持ちの余裕をもてる社会になるような「空気」をつくることだと思っています。

誰もが「お互いさま」で支え合う、その「空気」は、ひとりでつくることはできません。ゆっくり、じっくり時間をかけなければいけませんが、どうすればそういう「空気」がつくれるのか、私も含めて、読者のみなさんとともに考えていきたいです。

profile

高森 順子

たかもり・じゅんこ。情報科学芸術大学院大学研究員、阪神大震災を記録しつづける会 事務局長。1984年兵庫県神戸市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。近著に『震災後のエスノグラフィ—「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)。2024年3月に『残らなかったものを想起するー「あの日」の災害アーカイブ論』(編著、堀之内出版、2024年)を出版予定。

常に「最悪」の想定を 熊本地震の教訓を能登半島地震に生かす

熊本地震で崩れてしまった熊本城の石垣

7 熊本城調査研究センター所長 網田龍生さん

(1)能登半島地震が発生して当時は、自宅でテレビを見ていました。これから熊本地震のときのような日々が始まるということで、熊本市役所からも派遣・応援が早期から始まること、自分がこの正月休みの間にやるべきことなどを考えました。また、熊本城の復旧事業が参考になるはずなので、その想定も始めました。

(2)過去の震災での活動2016年熊本地震発災当時、私は熊本城調査研究センターの副所長(所属長)だったので、まずは熊本城の文化財被害調査、応急措置、城域の安全確保に従事しました。その間、避難所運営などの業務もありました。その後、関係機関と調整を始め、復旧事業に向けての準備を進めました。

(3)今後への生かし方発災直後から石川県立金沢城調査研究所と連絡を取り、必要な支援に対応する旨を伝え、城郭の被災状況報告もいただいています。城郭の被災に関しては、すでに初動業務は終了しているため、その後の復旧計画の検討、各工事の準備等において助言することが可能と考えています。

(4)復興に携わるみなさんへ城郭の復旧に関しては、道路や民地への影響やとりあえずの安全確保が済んでいれば、あとは慌てる必要はないので、文化庁あるいは国土交通省などの関係機関と協議を進め、予算確保・人材確保・体制整備を含む計画立案を進めておけば良いと思います。

(5)災害への心構え災害はいつどこで発生するかわかりません。最悪の時節に、最悪の場所で、最悪の被害が出る。常にその可能性を想定しておくべきです。

profile

網田 龍生

あみた・たつお。1964年生まれ。1988年、文化財専門職員(日本考古学)として熊本市に入庁し、主に遺跡発掘調査・史跡整備など文化財保護業務に従事。2016年に熊本城調査研究センター副所長、2022年に熊本城調査研究センター所長に就任した。

災害は常に想定を超えてくる デジタルツールの活用も視野に

「テクノロジーでつながる平和活動」展

8 東京大学大学院教授 渡邉英徳さん

(1)能登半島地震が発生して能登半島地震で甚大な被害を受けたみなさまに、心よりお見舞い申し上げます。多くの家屋や建物が倒壊・損壊し、津波による浸水被害・地殻変動による長期的な漁業への影響も甚大です。元日に発生したことも併せて、想定外の災害でした。被災されたみなさまの一日も早い復興を願っております。

(2)過去の震災での活動・阪神・淡路大震災大学生でインターネットも現在ほど普及しておらず、特段の活動はできませんでした。高校時代の同級生は神戸大学に通っており、3日間生き埋めになったあと救助されたという話を後日聞きました。

・東日本大震災ちょうど2010年からデジタルアースを使った『ヒロシマ・アーカイブ』などのデジタルアーカイブの開発を進めていました。その技術を応用して、発災直後に『通行実績情報マップ』など、被災・復興状況を半リアルタイムに伝えるデジタルマップを公開し大きな反響がありました。その後、2016年には岩手日報社と『震災犠牲者の行動記録』を、2021年には『震災遺族10年の軌跡』を公開するなど、東日本大震災についての継続的な活動を続けています。

・熊本地震など2014年に公開した『台風・災害リアルタイム・ウォッチャー』を用いて、ボトムアップな災害情報をリアルタイムに伝えることに専念してきました。今回の能登半島地震における取り組みにもつながっています。

・トルコ・シリア地震被災地の衛星画像をWebブラウザで簡単に閲覧できる『ストーリーテリング・マップ』を発災直後に公開。特にトルコ現地から多数のアクセスがあり、広く利活用されました。詳細はこちらの記事をご覧ください。このノウハウは、能登半島地震への対応に生かされています。

その後、トルコ大統領府から招待を受け現地で講演を行いました。3月11日からは、東北大学のチームとともにトルコに出張し、現地の教員・学生とデジタルマップ作成のワークショップを開催します。

(3)今後への生かし方国土地理院が公開した空中写真をスタジオ・ダックビルがフォトグラメトリ化したデータをデジタルマップ化して1月3日に公開。1日で100万ページビューを超えるアクセスがあり、現地の方による安否確認、NHKとのコラボレーションによる被災状況の把握に活用されました。この成果は、多数のメディアで報道されています。

発災日の1月1日に、読売新聞社の記者有志が公開した『令和6年能登半島地震被災状況マップ』は、2023年から東京大学の学術指導の枠組みを生かして、私が教えてきたGISソフトウェアを活用したものでした。普段から実践的に学んでいた技術が、即日に活用された事例といえます。詳細はこちらのnote記事をご覧ください。

(4)復興に携わるみなさんへ被災状況・復興状況は日々変化していきます。災害時には即時的なデータをどうしても重視しがちですが、変化の状況を蓄積し、時間軸に沿った分析を行うことも重要です。ですので、体系的にデータをアーカイブしておく仕組みが必要です。デジタルマップを使ったデータのアーカイブ・可視化は有用な手法ですので、ぜひご活用ください。

(5)災害への心構え今回の地震は、私たちに多くの教訓を与えてくれました。まず、災害は常に想定を超えてくるということです。能登半島地震の被害しかり、東日本大震災や熊本地震、トルコ・シリア地震など、近年起きたすべての災害に共通しています。

そして画面の向こうで起きている災害がいつかは画面を飛び越え、自分の身の周りにやってくることをイメージすることが大切です。今回の地震は多くの人にとって、遠い場所で起きている出来事だったかもしれません。しかし、実際に被災した方にとっては他人事ではなく、自分たちの身に降りかかった現実です。私たちひとりひとりが、災害はいつどこで起こってもおかしくないということを常に意識し、備えておく必要があります。

さらにデジタルツールを活用することで、有用な情報収集・発信が可能になるということを忘れてはいけません。今回の地震では、SNSや災害情報アプリなどを通じて、多くの情報が発信されました。こうした情報は、被災状況の把握や避難行動などに役立ちました。普段から、こうしたデジタルツールに慣れ親しみ、災害発生時に活用できるようにしておくことが重要です。

災害は決して他人事ではありません。私たちは常に災害への意識を持ち、備えを怠らないようにしましょう。

profile

渡邉 英徳

わたなべ・ひでのり。1974年生まれ。東京大学大学院 情報学環 教授。情報デザインとデジタルアーカイブを研究。首都大学東京システムデザイン学部 准教授、ハーバード大学エドウィン・O・ライシャワー日本研究所 客員研究員、京都大学地域研究統合情報センター 客員准教授などを歴任。東京理科大学理工学部建築学科 卒業(卒業設計賞受賞)、筑波大学大学院システム情報工学研究科 博士後期課程 修了。博士(工学)。「ナガサキ・アーカイブ」「ヒロシマ・アーカイブ」「東日本大震災アーカイブ」「忘れない:震災犠牲者の行動記録」「ウクライナ衛星画像マップ」「能登半島地震フォトグラメトリ・マップ」などを制作。講談社現代新書「データを紡いで社会につなぐ」、光文社新書「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争」(共著)などを執筆。

writer profile

Haruki Nukui

明日陽樹

ぬくい・はるき●エディター/ライター。1990年生まれ、宮城県石巻市出身。大学卒業後、カフェやステーキ屋でのアルバイト生活を経てライターに転身し、2019年に独立。「TOMOLO」を設立した。ビジネスからグルメ、子育てまで、ジャンルを問わず幅広く寄稿する。

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