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住人の茅野に誘われて銭湯へ。そこで部屋に籠る6人目の住人がいることを知る…。/小説「猫目荘のまかないごはん」第4回【全5回】

  • 2024年1月30日
  • Walkerplus

「猫目荘のまかないごはん」(伽古屋圭市/KADOKAWA) 第4回【全5回】

昭和の香り漂う古びた木造の下宿屋「猫目荘」。引越し先を探していた降矢伊緒は友人に猫目荘を紹介してもらい、1日2食のまかない付きにひかれて、内見もせず入居を決めてしまう。入居当日、まかないを食べに食堂に集まった住人たちは個性的な人ばかり。建物のボロさと、これからの彼らとの共同生活を思いため息が出ていた。しかし、ふたりの男性大家が作るクリームシチューや豚キムチなどにひと手間加えたまかない料理は伊緒を心から幸せにしてくれて…。「猫目荘のまかないごはん」は伊緒と住人たちが織りなす、美味しくて心が温まるお話。
※2023年10月10日掲載、ダ・ヴィンチWebの転載記事です
「うしゃしゃしゃしゃしゃ。ボタンはかあいいねー」

あごの下を指先でわしゃわしゃすると、ボタンは気持ちよさそうに目を閉じ、顔を突き出してくる。

ボタンとは引っ越し初日にも会った茶白の猫だ。やはりここ猫目荘で飼っているらしい。庭先に出ることもあるようだが、基本的には建物内をうろうろしている。

澄香との飲み会を終えて帰ってきたとき玄関の上がり框にボタンを見つけ、むしゃぶりつくように撫でてしまった。

「わしゃしゃしゃしゃしゃ。かあいいですねー。気持ちいいで――」

人の気配を感じ、わたしの声と動きは止まる。

見られたか、聞かれたか、とおそるおそる顔を上げると、やはり廊下に人影があった。茅野ちせ、である。アシンメトリーのおしゃれな髪型の、わたしとさほど歳が変わらないであろう女性だ。

表情をやや引き攣らせつつ、首だけで軽く会釈をする。彼女は笑顔で近づいてくると、しゃがみ込み、わたしと同じようにボタンのあごの下を撫でた。

「いつもぶすっとした顔してるけど、そこがかあ、いいよねー。わしゃしゃしゃしゃしゃ」

確実に聞かれてたな。

「そうですね。かわ、いいですよね」

初日の挨拶以来、初めての会話だ。彼女だけでなく、大家以外の住人との。

「いまから銭湯行くんだけど、よかったらいっしょに行く?」

突然わたしのほうを向いて、茅野はそう言った。

タオル地の、ぎりぎりコンビニなら行けそうなラフな恰好で、首には手拭いをかけている。手にはビニール製の小振りのバッグ。

彼女はスタイルもよく、髪型を含めていかにも洒落者感が滲み出ている人物だ。そんな彼女だとどんな恰好もさまになるし、逆に最新かと思わされるが、わたしがやったらただの近所のおばはんだろう。

「あ、えと、銭湯、ですか」無駄にキョドる。

「そう、銭湯。行ったことある?」

「あ、いや、銭湯は、ないですね。旅館とかの、大浴場とかはあれですけど」

「だったらいちど経験しておいたほうがいいんじゃない。経験者と」

「あ、なるほど。たしかに」

納得する。猫目荘の風呂場に不満はあったけれど、勝手がわからないのでこれまで銭湯に行くことは躊躇していた。選択肢としてはやっぱりあったほうがいい。

「じゃあ、お願いします。えと、なにを持っていけばいいですか」

「着替えとタオル、石鹼とシャンプーくらいかな。ここの風呂場に持っていくのと同じでいいよ」
 
猫目荘の風呂場は共有だが、石鹼とシャンプーは個人で持ち込むかたちになる。

「洗面器はいらないんですか」

「いらないよ。向こうにあるんだから」

言われてみればそうだ。でも銭湯に行くというと、なんか洗面器を持っているイメージがある。なんでだろう。

生まれて初めての銭湯は、まあ、こんなもんか、という印象だった。

番台で入浴料を払う以外は、ホテルや旅館の大浴場と大きく変わるわけではない。日帰り温泉だと、さらに近い。

一般的なホテルや旅館の浴場よりいろいろ設備は古くて、なんとなく色褪せてて、こぢんまりとしていて、備え付けのシャンプーや石鹼はない、というくらいだろうか。謎のマナーやしきたりもなさそうだ。

頭と体を洗ったあと、茅野とふたり並んで湯船に浸かる。

旅行はもう何年も行ってなくて、前のアパートはユニットバスだったから、湯船に浸かること自体がずいぶん久しぶりだった。猫目荘の風呂にも湯船はあったものの、なんとなく抵抗があってシャワーだけで済ませていた。

まだ夜は肌寒い時期だけに、温かいお湯が肌からじんわり染み込んでくるようで思わず吐息が漏れる。

あぁ……気持ちいぃ……。

やっぱり、大きな湯船は、いい。体がお湯に溶けていく感覚を味わう。

なんでこんな簡単なことすら、わたしは自分にしてこなかったんだろう。

「どう、初めての銭湯は?」

茅野の問いかけに笑顔で答える。

「最高ですね。毎日は無理ですけど、たまに来たいです」

自分の声なのに、自分の声じゃないような不思議な反響。

「わたしもたまにだよ。ちょっと疲れたときとか、リフレッシュしたい日とか。ところで、猫目荘には慣れた?」

「ええと……ぼちぼち、ですかね」

「まあ、最初は戸惑うよね」

くくっ、と彼女は笑う。返答はごまかしたつもりだったが、見抜かれていたようだ。

「そうですね。やっぱりいろいろ、まだ馴染めてないかもです」

「いつも縮こまって食事してるもんね。ところでさ、じつはわたし占いができるんだけど、見てみてもいい?」

「あ、ぜひぜひ。占い、好きですし。なに占いですか」

「水占い」

「水、占い、ですか」まるで聞いたことがなかった。

「両手で、こう、水を掬ってみて」

茅野は両手を器のようにして湯船の水を掬ってみせた。同じように真似る。

わたしの手のなかで揺れる水面に彼女は両手を翳し、真剣な眼差しを向けた。低い声で呪文のように告げる。

「水は古来、鏡として使われてきた。鏡は古来、祭祀の道具として用いられてきた。過去を見せ、未来を見せる神器」

茅野はもとより神秘的な雰囲気があったが、その佇まいや声音はまさに本職のそれだった。

「見えてきた。降矢さんは、わりと裕福な家で育ったみたいだね」

わっ、すごい、と感動する。

「はい。富豪にはほど遠いですけど、まあ、それなりに、金銭的には恵まれた家だったと思います」

「2年、いや、3、4年前かな。ひとり暮らしは猫目荘が初めてってわけじゃなさそう」

完璧ではなかったけれど、またしても当たっている。

「はい。ひとり暮らしをはじめたのは五年前で、前のアパートが取り壊しになったんで引っ越してきたんです」

「昔から、若いころから、身なりには気を遣うタイプ。結婚の経験はなし。かつては会社に勤めていたが、いまはアルバイト生活」

すべて当たっていて言葉を失う。緊張で手が震えてくる。こぼれないように固く手を閉じているつもりだけれど、少しずつ水は漏れ、最初の半分ほどに減っていた。

わたしの手のひらを見つめる茅野の目が、さらにすっと細められる。

「両親とは、うまくいってないのかな」

胸の奥がぞくりと冷えた。

どうして、わかったのか。彼女は本当に神通力が使えるのか。頭が混乱する。

「当たってる?」

茅野が尋ねてきて、わたしはぼんやりとうなずいた。とたんに彼女は神秘的な雰囲気を吹き飛ばす笑い声を上げた。「ごめんごめん――」と笑いを引きずりながら言う。

「予想以上にうまくいったね。信じちゃったとしたらほんとごめん。ただのコールド・リーディングだよ。ま、占いなんてだいたいそんなもんだけどね」

「コールド・リーディング……」

惚けた顔でわたしは言った。聞いたことがあるようなないような。

「まずさ、降矢さんはメイクがすごく上手。昔からしっかり勉強して実践してきたのがわかる。着てる服もファストファッションじゃなくて、ちゃんとお金をかけてる。それは一週間も見てればわかるよ」

彼女の言うとおりだ。あるきっかけで、高校生のときから自分の見た目をとても気にするようになった。若いころはとくに、メイクやファッションなどの勉強を欠かさなかったものだ。

そしてそれは見る人が見れば気づくことだろう。食事の席だけとはいえ、朝夕と顔を見合わすのだから。

「それからお箸の使い方とか、食事のマナーっていうのかな、それがすごくしっかりしてる。だからきちんとした家に生まれ育ったのかなと推測できる。降矢さんは『富豪というほどでもない』と言ったし、服にたっぷりお金をかけられたとすれば会社員として働いていた可能性が高い。

ただ、微妙に古いものが多い印象があってさ。デザインもそうだし、最近買ったばかりと思える服は見かけない。やっぱりさ、引っ越してきた当初はだいたいみんな必要以上に気を張るんだよね。初めての人と会うときは一軍の服を着ていくのといっしょで。そのうち気にしなくなって、雑な恰好でも平気になるんだけど。

とすれば、降矢さんは服にお金をかけるタイプだったけれど、この2、3年はあまりそれができてない。心境の変化か、財政的な理由が考えられる」

茅野の観察眼に舌を巻いた。

会社員だったころ、そして東京に出てきた当時は服飾品に躊躇なくお金を使っていたが、それもせいぜい2、3年。金銭的な理由もあったし、目的を見失い、気持ちに張りがなくなったのも大きかった。アルバイト先と自宅を往復するばかりの生活では、服にお金をかける意味は見出せない。

ある理由から一年ほど前に再び見た目を磨く時期もあったが、それでも新たに買った服は最小限だったし、いまも過去の資産でやりくりしている感は否めなかった。

「そして降矢さんはどうも会社員じゃなさそうだと思ってた。べつに監視してたわけじゃないから気持ち悪く思わないでね。まかないのときに見てるだけでも、なんとなくわかるんだよね。朝食のあと仕事に出かける雰囲気じゃないし、夕食のときは仕事から帰ってきた雰囲気じゃなかったし。一般的な会社員ではなさそう。かといってフリーランスとか、失礼かもしれないけど『ひとりで生きてきました』って強さを降矢さんからは感じられない。5年前からひとり暮らしだと言ってたから、貯金を切り崩して生活するには長すぎる。となると、フリーターかなって推測が立つ。

それと猫目荘の売りはやっぱりまかないだし、そこに惹かれたとなると、料理をするタイプじゃない。入居時のリクエストがカレーだったこともそれを裏づける。未婚で、5年前までずっと実家暮らしだったと考えるのが妥当だよね。

降矢さんは標準語で話してるけど、ときどき関西のアクセントが交じってるのは気づいてた。となると5年前に会社を辞めて、実家を出て、ひとりで東京に来た可能性が高い。上京の理由はもちろんいろいろ考えられるんだけど、夢を追って出てきた感じでもないし、男を追いかけてきたわけでもなさそう。どちらかというと消極的な理由、逃げてきたような雰囲気を感じてさ。たとえば家族となにかがあって実家を飛び出した、とかさ」

朝夕のまかないのときに会うくらいなのに、そこまで読むことができるのだと驚かされた。まずは当たりそうな事柄から告げていって、わたしからさらに情報を引き出し、それをさらなる推理に繫げているのもすごい。本職の占い師なのかなと思うが、もしそうならネタばらしはしない気もした。

彼女の技に感嘆すると同時に、いまのわたしを見透かされていることに自嘲の笑みがこぼれる。

積極的な理由で東京に来たはずなのに、茅野からは「消極的な理由」と見られている。そしてそれに納得せざるを得ないのが、いまのわたしの現実だ。

湯船のなかで両手を組み、じっと見つめる。

「家族とうまくいってないのは、まったくそのとおりです。いろいろあって、5年前に実家を飛び出しました。不遜な言い方かもしれませんが、親を、わたしは見限ったんです。そして東京に来たときはたしかな目標があったんですけど、最近はそれも見失ってる状態で。ほんと、自分が情けないです」

いいんじゃない、と茅野は軽く言い放つ。

「人生いろいろだよ。どうして家族と衝突したのか、なんのために東京に来たのかは聞かないけどさ、そんなに肩肘張る必要はないんじゃない。とりあえずさ、猫目荘はいいところだから。まかないのおいしさはもう実感してるでしょ。おいしい料理が食べられたら、それだけで人生は幸せなんだから。

不思議な距離感だから最初は戸惑うだろうけど、しがらみはないしね。家族のようにどうしたって切れない関係はときに息苦しいけど、ここはそうじゃない。コミュニケーションを取りたいときは取って、取りたくなけりゃ取らなきゃいい。猫といっしょだよ。つかず離れず、適度な距離感で、無理はせず、少し自分勝手くらいなのがうまくいく。いざとなれば逃げ出せばいい」

でもまあ――、茅野は派手な水音を立てて両手を頭上に伸ばした。豊かな乳房の北半球が露わになり、ハートを象ったタトゥーの存在に初めて気づく。

「せっかくなんだし、多少でもコミュニケーションを取ったほうが楽しいし、楽だと思うよ。みんな少し変わってるけど、いい人ばっかりだし。もちろん人それぞれだから強制するつもりはないけど、こうやっていっしょに銭湯に来たくらいだし、断固拒否ってわけでもないんでしょ」

にこっと笑いかけてくる。ぎこちないながらわたしも笑みを返した。ふっ、と肩の力が抜けた気がした。

いまさらながら、どうしてわたしは自分の殻に閉じ籠もろうとしていたんだろうと思う。べつにひとりが好きなわけでもないのに。人との関わりが嫌いなわけでもないのに。

その後も湯船で、脱衣所で、茅野とは雑談をつづけた。

彼女は37歳――思いのほか年上だった――で、やはり占い師ではなく小さな珈琲店を経営しているらしい。くれぐれも「喫茶店」や「カフェ」や「コーヒー店」ではなく「珈琲店」だと念押しされた。

こだわり系の小さな店で「けっこうお高いし、知り合いだからといって負けるのは好きじゃないからしないけど、それでもよければ大歓迎」だそうで、せっかくだし今度行ってみることにした。

隣室の陽気な男性、二ノ宮愉生は、やはりユーチューバーのようだ。ただし、なに系の配信をやってるかは「本人に聞いたほうがいいんじゃない」とはぐらかされた。

銭湯を出て、茅野とふたり帰路につく。湯上がりの火照った体に夜風が気持ちいい。

雑談の気楽さそのままに、茅野が問いかけてくる。

「ところでさ、うちの住人は何人だと思う?」

「えっと、わたし入れて5人ですよね」

入居して一週間、気は進まずともお金がもったいないので、まかないは欠かさず食べている。誰かが欠けることはままあっても、初日に挨拶した4人以外に会ったことはなかった。一週間、いちどもまかないを食べない住人がいるとは思えない。

「それがじつは、6人なんだよ」

「そうなんですか?食堂で会ったことないですけど、入院されてる、とか?」

「そうじゃなくて――」茅野は意味ありげな表情で夜空を見上げた。今夜の空に月は見当たらない。「その住人は中村さんっていうんだけど」

「中村さん……」

「中村さんはずっと部屋に籠もってるんだ。いろんな事情から部屋からは出てこないらしい。わたしも詳しくは知らないけど」

「本当ですか?」

少しばかり信じがたい話だ。

「わかんない。だってわたしも見たことないしね」

「茅野さんって猫目荘に住みはじめてどれくらいですか」

「3年弱かな」

「そのあいだいちども?」

「うん、いちども」

「そんなまさか……。食事とか、仕事とか、どうしてるんですか」

「いまの時代、仕事はなんとでもなるでしょ。すごい資産家で、働く必要がないのかもしれない」

すごい資産家が猫目荘に住むとは思えないが、ともかくネットにさえ繫がれば部屋から一歩も出なくてもなんとかはなりそうだ。

「食事は――」と茅野はつづける。「大家さんが運んでるみたいよ。特別にね。そのためにうちに住んでるのかも。朝夕二食あれば飢え死にはしないだろうし」

ということは、大家に聞けば中村さんのことがわかるわけだ。

「あ、ひとつ忠告しとくけど、大家さんに中村さんのことを確かめようとか考えちゃダメだからね」

「え?どうしてですか」

ちょうど猫目荘の前に戻ってきたところで突然茅野は立ち止まり、感情の見えない能面のような顔でわたしを見つめた。遠くから犬の遠吠えが聞こえる。

「禁忌タブー、だからだよ」

ぞくり、とする。

歩みを再開させて茅野はつづけた。

「中村さんが口封じをしてるのかもしれないけど、詳しくはわからない。以前、中村さんの正体を突き止めようとした住人がいたんだけど――あ、ボタンただいまー」

月明かりに浮かぶ猫目荘の小さな前庭で、ボタンが「なぁ」と答えた。わたしも「ただいま」と小さな先輩に挨拶する。


周りの建物と比べ、やたら黒く沈んでいる猫目荘はたしかに不気味ではあったけれど、自然と「帰ってきた」と思えた。ボタンといっしょに玄関に入る。

茅野は靴を脱ぐと、じゃ、と軽く手を上げて足早に自分の部屋へと去っていった。

で、中村さんの正体を突き止めようとした住人はどうなったんですか!?





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