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Vol.156 「アイス・バケツ・チャレンジ」に対して賛否両論があるのはかまわないと思うんだけれど…。

  • 2014年10月2日

 みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。

 さて、今回はソーシャル・メディアなどを通じて発信される社会的な取り組みやメッセージの受け取り方というか付き合い方について書こうと思うのですが、話が抽象的になり過ぎないように、今回もまずは「アイス・バケツ・チャレンジ」を題材にしたいと思います。前回も書いた通り、この運動については否定的な評価をしていた人も少なくないわけですが、個人的にはそう言う人は“チャレンジ”という言葉に引っかかりを感じたんじゃないのかなあと思ってます。つまり、あの言い方だと、「バケツに入った氷水をかぶることに挑戦します」という意味に受け取られていると思うんです。でも、僕の解釈では、あれは自分が指名した3人に挑戦する、という意味なんじゃないかなと思うんです。“オマエできるのか”っていう、挑発というか。だから、トヨタの社長が日産の社長を指名したり、facebookのマーク・ザッカーバーグがマイクロソフトのビル・ゲイツを指名したりといったやりとりには、ライバル同士のならではの遊びというところがあると思うんです。で、そういう遊びとしての挑発を突きつけられた場合にどう対処するか、という前提がアメリカと日本とでは全然違う感じがするんですよね。アメリカなら、あっさり「オレはやらないよ」と言ってしまう人もいそうですけど、日本ではみんな真面目だから「やんなきゃいけないのかなあ」と考えてしまってますよね、結局。前回、「何事を発信するにもギャップが大事」と書きましたが、それは受け取る側になったときにも重要で、この連載ならではの言い方で言えば、「もうちょっとぼんやり受け取っていいんじゃないのかな」ということなんです。ちょっとわかりにくいと思うので説明しますね。

ソーシャルネットワーク 「アイス・バケツ・チャレンジ」のような取り組みが大ヒットしてしまうと、元々の主旨とは違う角度からその上昇気流に乗る人が加わってくることもありますよね。つまり、言いたいことをより多くの人に伝えようとした発信者側が用意した、ギャップのためのPOPな仕掛けが功を奏して大流行が起きた時に、本来伝えたかった主旨と関係なく、仕掛けだけに反応して流行に乗る人がいる、ということです。そういう状況になったときに、そういう「流行ってるからやる」という人を許容するか。僕が「ぼんやりいこうぜ」って言っているのはここのところです。

 「流行ってるからやる」人はいていいし、逆に「流行ってるからやらない」という人もいていいですよね。さらに言えば、素朴に「やりたくないからやらない」というのはもちろんOKですよね。いろんな人がいて当たり前だし、自分だってその「いろんな人たち」の一部でしかない。自分がどうしたいかは許容されるんです。どうすべきか、ということといつも一体でなくていい。なんか、アタリマエのことしか言ってないですね、僕。でも、「アイス・バケツ・チャレンジ」のように、人間の良心に訴えかける運動や社会的な意義が明確な取り組みについての発信を受け取ると、その時点でその運動に賛同し、さらには参加しないといけないんじゃないかという同調圧力を感じる人(もしくはそういう人が多いんじゃないかという想像がストレスになる人)は少なくないようです。特に、例えばfacebookのような知り合い同士のネットワークの中で、そういう発信への共感が盛り上がっていると、いよいよそこに参加しないことの居心地の悪さみたいなものを感じることになるのかもしれません。それでも気が進まないのに参加すればもっと嫌な思いをすることになるでしょう。だから、あらためて“やりたいことしかやらない”という単純明快で本質的なスタンスを確認すればいいんじゃないかなあと思うんです。常識や社会と自分との違いを認めて許せば済む話なんですが、とはいえ言うは易し、ですねえ。

 何かの運動が上昇気流に乗って盛り上がってきていろんな人がさらに加わっていくという状況になったときに、“主旨を理解しない後乗り組”や“主旨と関係ない目的をもった便乗組”が加わることによって上昇気流がさらに強まるということが確かにあるように思います。なんにせよ運動が強化されれば、メッセージを受け取った人が主旨を理解する確率が極端に下がらないという仮定のもとでは、主旨が伝わる相手の数は増えていきます。「なんでこんなことしてるんだろう」というギャップが機能しているから流行が起きたわけで、だとすると、その同じ仕掛けが主旨の理解に対する重力のようなものになってその確率を支えてくれるのだと思います。主旨を理解してやっている人にも、なんだかよく分からないでやっている人にも、それぞれ意味はある、と僕は感じている、ということです。

 そんなわけで。「オレはこの運動の主旨を理解したけど、そうじゃなくただバカ騒ぎしてるヤツらがいっぱいいるから、そういうことに力を貸すのは嫌だな」というような人がけっこう多いと僕は感じていて、そういう捉え方がいかに貧しいかということを僕は強く指摘したいんです。もちろん、貧しくたっていいですけども。誰かが楽しんでいるのを、理解していないように見えることを理由に一般論で批判することの無意味さ。念のために言っておきますが、「力を貸さないという人は良くない」と言ってるんじゃないですよ。その理由の問題です。個人的には、そういう態度をとる人に共通の傾向があるように感じているんですが、そのあたりはまた次回に。

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