第8回「舐められたくない」/燃え殻「もの語りをはじめよう」連載

  • 2025年4月17日
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第8回「舐められたくない」

 

 母はよく「神様が見ているわよ」「バチが当たるわよ」と子供の頃の僕に言い聞かせ、社会のルールを教え、秩序を重んじるように諭していた。

 

 だが、正直そんなことを重んじまくっていると、世の中のほとんどのレースは、既存の成功者、支配者が最終的に勝ち上がるシステムになっていることが多く、善戦して敗退がいいところだ。

 

 実績もコネクションもない者は、最初はルールギリギリを突っ走るしかない。「秩序? それ食えるのか?」みたいな輩しか基本は成功できないように思う。

 

 ちょっと言い過ぎかもしれないが、大雑把にはそんな気がして仕方がない。

 

 それにしても母は人を優先して、自分の欲しいものや、やりたいことを我慢する人だった。「私は大丈夫だから」「それで大丈夫」を連発する人だった。周りのことを常に考え、自分のことは常に後回しだった。そんな慈悲深い人は、この社会のシステムの中だと、ほぼ損をする仕組みになっている。

 

 僕も、母からの自分を滅する英才教育をずっと受けてきたので、基本的には人を立てがちで、「大丈夫です」「それでいいです」を言いがちだ。「きっとそういう人には、最終的に良いことがあるよ」と自分で自分を励ましたくもなるが、どーにも「良いこと」のリターンが少な過ぎて、詐欺過ぎると思っている。

 

 打ち合わせ場所ひとつ取ってもそうだ。では十三時打ち合わせにしましょう、と一旦メールで決まったとする。「場所はどちらにしましょうか? そちらにお伺いしてもいいんですが、たとえば汐留は厳しいですか?」などと先方が訊いてくる。

 

 ちなみに汐留は向こうの最寄駅だ。こっちだって心の中では「できればこちらの近くにしてほしい」と思っているが、手が勝手に「汐留で大丈夫です」と打ち込んでしまう。そして、「ありがとうございます、では汐留に十三時でお願いします。お店はまた改めてメール致します」となる。

 

 汐留のところが相手によって、四谷になったり池袋になったり、新宿になる。そして、そのたびに手が勝手に動きつづけ、四谷、池袋、新宿で大丈夫ですと打ち込んでしまう。

 

 そして二回目以降になると、「そちらにお伺いしてもいいんですが」部分がカットされたメールが届くようになる。「では十三時に汐留のこの間のお店でお願いします」となる。

 

 こうやって、上下が実体化し、両者が目で確かめ合うことにより、関係が完成していく。だんだんと先方がこちらを舐めてくるのがわかる。

 

 言葉の端々に「こいつ、言うこと聞くヤツだしな」という態度が現れてくる。舐められた側は、舐められ歴が長いので、微細なことで「舐められた!」と気づくは気づく。

 

 ただ自分も「舐められ」の原因を与えてしまっている以上、強くは言えない。この関係もまた「舐められ」になってしまったか……、くらいで片付けていくしかない。

 

 

 最近もしっかり舐められた。バリ島に行った某偉い制作会社の人が、会議中にバリ土産を配り始めた(どんな会議だ!)。

 

 チョコレートなどのお菓子、香水、甘い匂いのハンドクリームなどなど。その中に一つだけ、ギャグで買ってきたであろう、手作り人形というのがあった。

 

 どんな感じといえば伝わるだろう。素材はフェルトかなにかでできていて、手触りは良い。衣服はパンツっぽいものだけを履いている。それを交通量の多い道路で一日放置して車にかせまくった感じ。

 

 伝わらなかった気がするが、そんな感じだ。それをこれみよがしに「ジャーン!」と偉い人が袋から出すと、会議室には軽い失笑が起きる。

 

「じゃあ、これ欲しい人! 挙手!」と偉い人がニヤニヤ。「やだー」「もー」の大合唱。「では、こちらもらってくださーい!」と僕に渡してきた。

 

 会議室は今度は大爆笑。そして「えっ、でも似合います!」「部屋に兄弟がもう置いてありそう!」などと盛り上がる。僕も「いや〜、これ探してたんですよ〜」と場の空気を下げぬように、話に薪をべてしまう。大団円。よかった、よかった。そして、「ではでは、仕事、仕事」と元の空気に戻った。

 

 社会を「大丈夫です」「それで良いです」で渡ってきてしまった。

 

 舐められ、を僅かなお金に換えてきたのかもしれない。母の教えは、大成功はしないが、僕のような小心者にはフィットした教えだった気もしないでもない。良いことは少なめだが、結果的に悪いことも最小限に抑えてこれた気もする。トイレに飾ったバリ島土産の手作り人形を眺めるたび、そんなことを考えながら用を足している。

 

【燃え殻「もの語りをはじめよう」】アーカイブ

 

イラスト/嘉江(X:@mugoisiuchi) デザイン/熊谷菜生

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