「悪魔とお散歩 Take a walk with the devil.」戸田真琴(文筆家・映画監督)

  • 2025年5月16日
  • CREA WEB

編集部注目の書き手による単発エッセイ連載「DIARIES」。今回は文筆家・映画監督の戸田真琴さん。毎月のように、不安感、焦燥感、憂鬱感、倦怠感、閉塞感、劣等感、絶望感、嫌悪感、恐怖感……に翻弄され、支配される「私」。ままならない「私」を抱えながら、それでも生きていくために、「私とは何か?」と問い続けます。

 月に一度、私は悪魔と散歩する。

 というのは私の思い浮かべているイメージの話で、実際に悪魔に変化しているのはこの私だし、この日、悪魔と散歩させられていたのはKという私の親しい友人だった。

 私は理由のわからない拒絶感に苛まれていて、道の途中で立ち止まり、頭に思い浮かんだとおりに「無理」と言った。彼は心配そうに「今日は解散にする?」と聞くが、私は重ねて「なんか、無理」とだけ発し、あてずっぽうな方向へ歩き出した。

 4月のパリは気温も上がり、もうスカーフも要らなくなった。悪魔は滞在する18区の移民街を恨みのこもった足取りで歩き続ける。道には明らかにマルボロではないものを売るマルボロ売りや、何かを大きな声で空中に向かって喋っている人などが、それぞれのあり方で立ったり座ったり歩いたりしている。本来スリに警戒して歩くべき地域で、街に慣れたKはわたしを心配そうに振り返るが、今日の私は悪魔なので、視界に自分を案じる人がいるという事自体がなぜだか癪に障る。私は周囲に対して覚えのない憎しみでいっぱいの目を向けているのに、私を心配することのできるKは、その振る舞い自体で私と同じ苦しみの中には居ないということを明らかにしている。彼がとても上等で、自分が野蛮な生き物に思え、劣等感がこみ上げる。理不尽な恨みを向けないために視界からKを締め出そうと歩幅を狭めているうちに、そのことに気づかない彼がだんだんと遠くなり、人混みの向こうへ消えていく。

 悪魔の中にはひとつの考えが浮かぶ。このまま隙を見てビル陰に隠れて、どこかへいなくなってしまおうか。これ以上人を傷つけて恥を増やすことになるのなら、今すぐ消えてしまいたい。

 想像してみて、結局行動には移さない。どうせ、どうなっても数時間以内には発見され、迷子センターに親が迎えに来たときの子どもみたいにバツの悪さを味わうだけで、もうなんにも良くならない。

 こんな感じで、呪いを振りまくだけだから早く成仏したいけどできなくてしんどい、みたいな霊とかもいるんだろうな。とかろくでもないことを考える。普段の私は霊の存在を特に信じていないのに、悪魔に乗っ取られているときの私は、そうであることを忘れている。悪魔とか霊とか適当な単語に置き換えているけれど、これは月経前症候群、その中でも気分障害にあたるPMDDにまつわるエピソードである。

 月経自体は特段重い方ではない(たまに強烈な痛みで半日動けなくなる月もあるけれど、それはかなり稀で、普段は痛み止めでしのげば日常生活に難はない程度だ)。しかし、月経前症候群による体調と精神状態の変化には毎月ひどく悩まされている。低用量ピルの服用で症状を軽くしていた頃もあったが、副作用のむくみがひどく、毎朝自分の顔を鏡で見るたびに落ち込み、これはこれで精神によくないなと思い、断薬をして久しい。

 私の場合は、何度かに分けてホルモンバランスの乱れが大きな波として訪れる。それは不安感、焦燥感、憂鬱感、倦怠感、閉塞感、劣等感、絶望感、嫌悪感、恐怖感などあらゆるネガティブな感情として現れ、私の精神をぼろぼろになるまで侵す。月経の10日前くらいに一回目の大波が来て、1、2日で落ち着きを取り戻し、また3日前くらいにもっと大きな波がもう一回やってくる。そしてひどい鬱が明けてきた頃、ようやく出血がある。出血と激しい腹痛の中で、私はようやくホッとする。これで今月も終わりだ、今回もなんとかひとを殺さなかった。飛び降りもしなかった。ここから良くなる、わたしはわたしを取り戻せる、と。

 まだ慣れないパリのメトロに乗りながら、今日中に済ませなければならない用事をなんとか遂行しようと身体を動かすけれど、PMDDの及ぼす精神の悪状態が一向によくならない。

 Kはそれに付き添ってくれていて、乗り換えのタイミングや出るべき出口をそっと教えてくれようとするが、それをありがたく思う私と、そのくらいわかってるよ! と逆毛を立てる悪魔が、身体のなかでせめぎ合っている。私はなんとか悪魔に口を開かせないようにGoogleマップを凝視し、これ以上迷惑をかけないようにと自分に言い聞かせながら目的地の位置を覚える。もしも彼が道順を教えてくれずに私が間違えて遠回りをしたとして、私の苛立ちはきっと増すばかりだろう。しかし、教えてくれている今も、悪魔はとにかく自分が正当にイライラするための理由をこじつける。“こうして道順を教えてもらったせいで私は自分で調べて失敗をする、という学びの機会を失わされたのだ。それは屈辱的なことだ”と悪魔が理不尽に怒っている。悪魔と化した私と歩いているKも、悪魔を飼いながら歩いている私も、揃って全問不正解のゲームをやらされている。選択肢が浮かび上がるがどっちを選んでも必ず不正解になる最低のゲームを。今はすべてが駄目になるからどうか放っておいて欲しい、だけれど実際に放って置かれたらきっとあなたを憎んでしまう、だからどうか針でぶすぶすと身体を刺されながら痛みに耐えて離れずに居てください、きっとそれしかないんです。そう冷静に自分の希望を整理してみると、あまりの傲慢さに乾いた笑いが出る。

なぜ私は、月に一度狂った女に変化しなければならないのだろうか

 なぜ私は狼男のように、月に一度狂った女に変化しなければならないのだろうか。これは何かの罰なのだろうか、と毎月真剣に思う。普段の、まともでいられる時間に築き上げてきた好印象や信頼のすべてが、数日間のホルモンバランスの乱れによって跡形もなく崩れ去る。ふるいたくない暴力をふるい、家を焼き、街を追われてゆくしかない身体。安寧の場所を失い続ける身体、なにかを積み重ねて高みにたどり着く、ということを成し得ない、その日暮らしの身体。月に一度身体に新しい生命を迎え入れる場所を準備し、そのおとずれを待ち、それが果たされないと察するたびに内臓の内壁をみずから剥がして排出し、すべてを流してしまう身体。

 このシステムに怒りをおぼえるのは、私が私自身に対し、なにか“確固たる私”のようなものがあると信じているからなのだろう。毎日調べて点検して調整して自らの意志で作り上げた愛着のある「私」というものが存在していて、その人がこの身体の操縦権を握っているはずなのに、毎月どこからかやってきた悪魔に無理矢理に操縦権を奪われている、といったような、被害者意識が私にはある。

 だけれどそもそも、月経や月経前症候群に限定されず、私たちは怪我や病気や老いなどによって「私」を自分の意志以外の他のなにかに明け渡さなければならなくなるときが必ずやってくる。そのときに私は、「私」を悪魔に奪われた、という意識のままでいて本当に良いのだろうか?

 このことを精神的に乗り越えることができないのなら、生きていくこと自体を恐れなければならなくなってしまう。ただ、これから悪くなっていくだけのような……そういう意識で生きていくことが、そうあるべき生命の姿だとはやっぱり思えないのだ。悪魔がどんなに強引で、傲慢で、憎らしい存在でも、この悪魔がいない私というのはそもそも、ないのだ。悪魔は外からやってきたのではない。薬で眠らせることができたとしても、いないことにはならない。

 私は無意識に、「私が愛せる私」のことを、「本来の私」なのだと信じようとしていなかっただろうか? と、自問する。

 している、私は絶対している、ほんとうに私ったらそういう狡いところがある。認める認めない以前に既に居るものを、自分が気に食わないとか、プライドが傷つくとか、そういう理由で「私」から除外して、“私は違うんです、あいつが勝手にやったんです”と、“どうして私がこんな目に”と、被害者として泣いてきたのだ。

 もちろん、そうして切り離すことで心を守るやりかたもあることは承知の上である。これはそういう手法を取っている人たちを糾弾するための文章ではない。私だって、PMDDで精神がめちゃくちゃになっているときを指さして、「本来お前はこういうやつだ!」と言われたら、身体のメカニズムから説明して厳重に抗議するだろう。だけれど、そもそも私がなにか一貫したわたし然としたものであらねばならない理由も、快いコミュニケーションを紡げるわたしでなければならない理由も、わたしの外にあるように思う。そもそも社会の形成より前に今のかたちにほとんど完成していた種である人間が、あとからできた社会、しかも常に常識が変わり続けていて今最新の状態がたまたまこうであるこの社会の方に合わせなければならないとされ、適応が困難である場合に劣等者の烙印を押される、などということは、根本的に間違ったことなのではないかと、よく考えたら当たり前のことを改めて思う。

 そもそもわたしがわたしのわたしだと信じているわたしは、本当に私の司る私だろうか? 私が愛でている私でさえ、この身体が世界から摂取したものでつくられ、ホルモンバランスやその日の気候や体調によって世界の見え方が変わり、私はつねに固定されず、わたしという空洞の中をわたしでないものが駆け抜けていくこと自体をわたしと呼ぶ、本来「私」というのは、そういう仕組み自体のことだったのではないだろうか。

 駆け抜けていくもののなかに、それ自体は良いものとも悪しきものとも分類しようがないあらゆるものがある。ホルモンバランスからくる大きな波も、空腹や満腹も、いい匂いを吸い込んで脳がゆるむようなことも、文字を読んで影響されること、忘れながら思い出しながら知りながらまた忘れてゆくことも。

 悪魔と呼ぶのはやめるにしても、獣じみたなにかだとして、自分以外のすべての生命を警戒して逆毛を立てる野蛮な猫みたいなコレを、愛せるとか愛せないとかそういう基準ではないところで、「ある」ものとして生きてゆくことはできるだろうか。誰にも申し訳なく思ってはいけない。獣に振り回されたことのある者同士は少なからず理解をし合うことができるはずだし、この獣を知らないひとにとっては、コレがこの世にいるのだということを知ること、まるで自分のなかにいる獣に手を焼くようにこの現象にコミットすることが、ただ経験となるはずだ。苦痛を感じ取る人自身が損をしているのではない、どちらかというと損をしているのはそれを感じ取る機会を得られなかった人であって、苦痛の詳細をそうでない人に伝えることは、なんと全体にとってよいことなのだろう……。

巨大な波に、飲み込まれながら生きること

 ……と、そこまで考える頃、ようやくホルモンバランスはいくらか落ち着きを取り戻し、私の目には太陽の光が久しぶりに快いものとして差し込んできた。

 4月のパリの陽は長く、19時前でもまだ昼下がりのような明るさだ。カフェのテラス席は賑い、心地よい風が吹き抜ける。

 眼の前には少しでも体調をましにしようと注文したデトックスジュースが運ばれてきている。人参とリンゴと柑橘と生姜の入った鮮やかなオレンジ色のジュース。吸い込んでみると、思いのほか美味しい。Kは向かいの席でノートパソコンを開き、フランス語に疎いわたしの代わりに通販の問い合わせメールを代筆している。火鍋を食べに行こうか、と提案し、少し移動して大きな火鍋専門店に入る。きのこのふくよかさや、漢方の滋味を繊細に追っていると、さっきまでの狭窄した思考がほどけてきて、フラットな感覚が戻ってくる。

 この地上でどれほどの、ただそうあるだけのことが、まるで罪であるかのように定義されてきたのだろう。少なくともここに人間がこんなにもいて、火鍋の香辛料を調合した人も、それをあたためるコンロを発明した人も、眼の前で汗を流しながら私が食べ切れない肉や野菜をかきこんでくれる人も、そもそも存在の由来自体が、月経の苦痛と無関係ではないのだ。これがただの罪や罰であるはずがなく、きっと本当にただ波のようなものなのだ。それに誤った名付けをして自己憐憫に浸るのはもうやめにしよう、と何度目かの誓いを立てる、きっと来月の同じ頃にはまた見失われている誓いを。生命の原初まで通じる巨大な波に、飲み込まれながら生きることを自分にゆるしながら、私はこの視座を失いたくないと思った。

戸田真琴(とだ・まこと)

「いちばんさみしい人の味方をする」を理念に、文筆活動・映像制作等で活動中。『あなたの孤独は美しい』(竹書房)、『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』(角川書店)、『そっちにいかないで』(太田出版)などの著書がある。短編小説の執筆や詩の提供など、形式を問わず積極的に文筆活動を行う。
X @toda_makoto
Instagram @toda_makoto

文=戸田真琴

あわせて読みたい

キーワードからさがす

gooIDで新規登録・ログイン

ログインして問題を解くと自然保護ポイントが
たまって環境に貢献できます。

掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。
Copyright (c) Bungeishunju ltd. All Rights Reserved.