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【漫画】身近な人の死は自分の生き方を見つめ直す機会。「どんな人でも仏に成れる」/ヤンキーと住職

  • 2022年12月20日
  • Walkerplus

仏教やお経と聞くと、なんとなく堅苦しいイメージを抱く人も多いのでは?現役の僧侶(浄土真宗本願寺派)である近藤丸さん(@rinri_y)が描く漫画「ヤンキーと住職」は、仏教が大好きなヤンキーと少々頭でっかちな住職とのやりとりから、仏教の教えを伝える漫画。読者からは「興味深い」「ためになった」「書籍化してほしい」との声が多く寄せられている。

ウォーカープラスではそんな「ヤンキーと住職」の中から特に印象的なエピソードを厳選し、近藤丸さんのインタビューと共にご紹介。今回は、「寺の手伝い募集」の貼り紙を見てヤンキーが名乗りをあげる。

強面のヤンキーは理想のお手伝いさんとあまりにも違うため、どう断ろうか考えていた住職。だが、ヤンキーの「仏教のこともっと聞きてぇんだわ」との言葉にハッとさせられる。

■お寺は、仏教を聞きたい人のために存在している
「お寺を何とかするために仏教を伝えないと」と躍起になっていたが、本来は「仏教を聞きたい人のためにお寺があるんだ」と気づく住職。だが、なんとなくお寺は、観光目的か法事で行くイメージがあり、ちょっと特別な場所に思える。そこで近藤丸さんに、普段からお寺に気軽に行ってもいいのか聞いてみた。

「お寺の本来の意味としては、仏教のお話を聞いたり、修行をする道場という意味合いがあります。ですから、『仏教の話を聞いてみたい』と思ったときに訪ねて行かれることに、何の問題もありません。

ただ、本山のような大きなお寺でない限り、いつでも対応できる僧侶がいるとは限りません。また、住居を併設している場合が多く、お寺は寺院関係者の生活の場にもなっています。僧侶やお寺に関わる人たちにも生活があるので、現実的にはいつでも対応というのは難しいのです。

また、現代では多くの寺院が専業で運営することが難しく、住職や関係者も仕事で留守にしている場合も多いです。そういう意味では、いつでも気軽に行っていい場所であるというのは一つのタテマエにはなっています。

これらのことから、仏教の話を聞きたい、教えてほしいことがあるなどの場合は、ぜひ事前に『お参りしていいか』と連絡をしてから訪れることをおすすめします」

開かれた場所ではあるが、生活の場になっているケースも多いお寺。事前に連絡をして訪れるの確実に話を聞けるうえ、マナーの観点からも良さそうだ。しかし、お寺になじみのない私たちが仏教に興味がを持っても、いきなり1対1で住職と話をするのはハードルが高い。そこで近藤丸さんは、さらに以下のことをおすすめしてくれた。

「多くのお寺で法話会やイベントが定期的に開催されていますので、まずはこうした場に訪れてみるのがいいと思います。そしてそこから、住職と仲良くなってみてはいかがでしょう。あと、仏教の伝統宗派本山では、お寺が開いている時間なら職員にいろいろと質問することもできます。本山のイベントや法話会から行ってみるのは、かなりおすすめですね」

■そもそも仏とは?「誰もが仏に成ることができる」
漫画でも描かれているが、私たちが最初に仏教の教えに触れる場といえば「お葬式」や「法事」など、悲しみの中が多いのではないだろうか。漫画の中で住職はヤンキーに、「私たちが手を合わせるのは誰かが縁を繋いでくれたからだろう」「諸仏・諸菩薩と考えることもできると思うんだ」と語る。この「諸仏・諸菩薩」について、詳しく聞いてみた。

「仏・菩薩の受け止め、解釈もさまざまです。私は浄土真宗本願寺派という宗門の寺院の衆徒ですので、浄土真宗の教えを聞く中で学んだことを中心にお話したいと思います。

浄土真宗では、『亡くなられた方は仏さま(諸仏)に成って私たちを見守ってくださいます』などと説かれることがあります。『諸仏』とは『無量・無数の仏たち』という意味ですね。

では、そもそも『仏』とは何なのでしょう。『仏』は目覚めた人、つまり、ブッダ(仏陀)のことです。人間はどうして苦しむのか、なぜ傷つけ合うのかに目覚め、同時に、どうすれば傷つけ合うことを超えられるのか、に目覚めた人ですね。最初『仏』はお釈迦様のことを指していたのですが、お釈迦様は真理(=法)に目覚めた人なのだと徐々に明確になり、お釈迦様という一人の人間を超えて『仏』が使われるようになりました。つまり、真理に目覚めた人が『仏』なのです。そうすると『仏』は時代や場所を超えて誕生するため、『諸仏』と呼ぶようになりました。

仏教で『諸仏』が説かれる元には、『どんな人も仏に成ることができる』という、仏教の真理性がある。『事実に目覚める』『苦しみの原因に本当の意味で目覚める』ことができた人が仏で、誰もがなる可能性を持っているのです。諸仏という言葉には、『すべての人々に迷いの事実を教えて正しく歩ませたい』という、大きな願いが込められているのですね」

「どんな人でも仏に成れる」と言うが、普段から自分の生き方について考えることはなかなかないだろう。だが、「悲しみの場」こそが人生について見つめ直し、さらに仏教の教えに触れる場所であり、これは亡き人が導いてくれているとの考え方も。

「私たちは普段、自分がどういう存在であるか知ったつもりで、自己中心的に生きています。私自身そうです。しかし時に僧侶として、重い病にかかった人の相談に乗ることや、誰かの死に出会うことがあります。そして目の前で苦しむ人の言葉、厳粛な命の事実に耳を傾け、絶句するしかできない場面も。そうした時に浮かれている私の生き様に対して、『それでいいのか?』と問われます。

自分の生き方について今一度問い直す機会が、『身近な人の死』ではないでしょうか。またそれを『ご縁』に、仏の教えや言葉を聞く・尋ねるということも起こります。だから、亡き人を通して自分自身の事実に気づく時、そこに『諸仏』が存在するのです。

仏教では、前に存在した仏に導かれて仏に成った人を『諸仏』と捉えます。中国の曇鸞(どんらん)という高僧が書いた『略論安楽浄土義』という書物の中に、『前仏によりて、後の仏まします』という言葉があります。意訳すると、『それぞれの諸仏は、前に存在した仏に導かれて仏になった人である』ということです。自分一人で仏に成ったのはお釈迦様だけ。だけど仏教の歴史の中で、大切なことに目覚めていった人たちがいる。その人たちは皆、他者の言葉や、導き・生き様に触れて、仏になったのです。

また浄土真宗を開いた親鸞という方は、『教行信証』という書物の中で次のように言っています。『前に生まれた者は後を導き、後に生まれたひとは前を訪ねなさい』。仏教の歴史は諸仏の歴史。そして私たちは、仏となる尊い命を頂いているのだと説かれているのです。

浄土真宗では浄土という仏の世界に往生し、仏となった者が菩薩の姿を取って私たちを教化してくれているとの考え方があります。この観点から、亡き人を諸仏・諸菩薩と捉えることもできますね。なにも幽霊のように行ったり来たりするのではなく、教えの中で私たちを教え導く亡き人と出会い直すということではないでしょうか。

なお、あくまでこれは私なりの教えの頂きです。基本線は押さえているつもりですが、間違って自分勝手に捉えている部分もあると思いますし、常に頂き直していかなければならないと考えています。私としての一番の願いは、『ヤンキーと住職』をきっかけに読者が自分自身でお釈迦様の書いたものや、仏教の伝統の中に生きた僧侶の言葉に直接触れて、深く考えてもらうことです。仏教の言葉は、自分の人生や悩みのうえで聞いていくべきだと思うんです。そういうことが本当に大切だと思っています。

ただ、学びをさらに深めていっていただければと思うのですが、中には注意しなければいけない団体や情報もたくさん紛れ込んでいますので、注意する必要があります。その団体や、情報を発信している人が信頼できるのか、正体を隠して布教していたり、問題性が指摘している団体ではないかなどよく調べてみることが大切です。

もし、何から学んでいいのか分からない、今接している情報やグループが健全なものなのか判断がつかない時は、信頼できる寺院の僧侶・宗教者や伝統宗派本山などの職員に尋ねるということも選択肢の一つとして持っていてほしいです」

生きることについて考えを深めてくれる仏教。しかし、いきなり書物を手にするのはなかなか難しいので、まずは漫画で考えを深めてみては。

なお2023年2月2日(木)発売の書籍「ヤンキーと住職」には他にもさまざまなエピソードが収録されているので、興味がある人はぜひ手にとってみてほしい。より良く生きるためのヒントが、見つかるかもしれない。

取材・文=石川知京

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