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コーヒーで旅する日本/九州編|今できることを一歩一歩、想いを持って諦めなければきっとなにかに繋がる。「江崎珈琲店」

  • 2022年3月14日
  • Walkerplus

全国的に盛り上がりを見せるコーヒーシーン。飲食店という枠を超え、さまざまなライフスタイルやカルチャーと溶け合っている。なかでも九州はトップクラスのロースターやバリスタが存在し、コーヒーカルチャーの進化が顕著だ。そんな九州で注目のショップを紹介する当連載。店主や店長たちが気になる店へと数珠つなぎで回を重ねていく。

九州編の第16回は、佐賀県・三瀬村を拠点とする「江崎珈琲店」。三瀬村で人気のやさい直売所 マッちゃんの店前の看板に、筆書きで「珈琲」「自家焙煎」「ネルドリップ」とだけ書かれた質素なたたずまい。店を営むのは江崎正憲さん。福岡の名店である珈琲美美からコーヒーの道を歩き始めたネルドリップの名手だ。固定店舗を持たず、三瀬村で営みを続ける理由、そして、江崎さんが考え、追い求めるコーヒーの本質。今回、同店をレコメンドしてくれた「豆香洞コーヒー」の後藤さんも「尊敬に値する」と口にする、探求者としての江崎さんの素顔に迫りたい。

Profile|江崎正憲
1976(昭和51)年、筑後市生まれ。大学卒業後、関西で機械関係の会社に就職し、約10年間勤める。関西在住時からさまざまな喫茶店を巡り、コーヒーに魅了される。なかでも強く感銘を受けたのが福岡にある珈琲美美。福岡に帰省する度に通い、故・森光宗男氏が生み出す凛とした空気感、同氏が淹れたコーヒーに親しむ。2009年から珈琲美美で修業。3年強勤めた後、退職。三瀬村で「江崎珈琲店」を開き、今に至る。

■直売所の一杯が、コーヒーに親しむ一つの機会に
登山やキャンプなどアウトドアが趣味で、外でコーヒーを豆から挽いて淹れた経験がある人ならわかると思うが、屋外という環境下で狙った味わいを引き出すのはとても難しい。コーヒーの味わいの良し悪しは淹れる環境、とくに気温や湿度に左右されるからだ。

「江崎珈琲店」が店を構えているのは、まさにその影響をもろに受ける場所。珈琲美美で修業を積み、確かな技術と経験を有する江崎さんなら、実店舗を持つ選択肢もあるだろうと昔から疑問だった。そこでまずはその質問をぶつけてみた。
「なぜ、この場所を選んだのか?」

江崎さんは「珈琲美美を卒業し、固定店舗を持つことも考えて、いろいろな場所を見て回りました。その時、マッちゃんの活気のある雰囲気に惹かれたんです。今は建物が建て替えられ、きれいになっていますが、いろいろな店が並び、アジアの市場のような空気感で。ここでコーヒーを淹れて、お客さまにご提供できたらおもしろいだろうな、というのが最初の入口です」と説明。

マッちゃんが建て替わる前は半分屋外のような環境ではあったものの、風雨の影響はほとんど受けなかったそうだが、今は冬になれば寒風が吹き、夏は猛暑との戦い。そんな場所でコーヒーを淹れ続けるのは大変な苦労があるだろうと容易に想像できる。

「もちろん、屋内に比べたら大変なことはありますが、それも慣れですから。逆にこういう環境下でコーヒーを淹れ続けることで、見えてくることもたくさんあります」と淡々と話す江崎さん。さらに江崎さんが何年にもわたり、マッちゃんを拠点にしているのは、別に大きな理由がある。それは、焙煎したて、挽きたての豆をネルドリップで淹れるコーヒーをより多くの人に親しんでほしいからだ。

「マッちゃんに来られるお客さまは、野菜をはじめ地場産品を求めて来られる方がほとんどです。それこそ年齢層も幅広いですし、なかにはネルドリップを初めて見たという方もいらっしゃいます。そういった方々に、少しでもコーヒーに親しんでいただけたらという思いがあります」と江崎さん。

「ここで店をやっていて感じるのは、喫茶店、カフェなどの個人店を普段使いしている人は、自分が思っていた以上に少ないということ。逆に言えば、人口減少で市場規模縮小が危惧されていますが、やりようによっては市場拡大の余地は十分にあると思います。私はコーヒーの力・ポテンシャルを信じていて、コーヒーが人々の暮らしを少しでも豊かにする助けになると考えています。コーヒーにそこまで興味を持たれていなかった人が、当店をきっかけにコーヒーに興味を持ち、福岡や佐賀に帰り、その生活圏内のコーヒー屋に通うようになる。そんな風にコーヒー好きを増やしていけたらうれしいです」。

コーヒー目当てではない人に向けて、自身が培ってきた焙煎、抽出技術をもってアプローチするという難しさはあるだろうが、それも江崎さんにとって大切なテーマというわけだ。

■師の背中を見て学び
江崎さんは珈琲美美のマスターである故・森光さんを師と仰ぎ、卒業から10年が経った今も、「学ばせてもらっている」と語る。

「マスターは手取り足取り教える人ではなく、見て学ぶというのが基本でした。だから、当時は理解できないことも少なからずあったのですが、珈琲美美を卒業して、今のような場所でコーヒーを淹れ続けていると、ふと『あの時の所作の意味は、こうだったんだ』って腑に落ちることがあるんです。その気付きを今も与えてくれていると考えると、珈琲美美の“教えない教え”は今も私の中で生き続けていると思っています」と江崎さん。

江崎さんは33歳の時に珈琲美美で修業を始め、36歳で卒業。次のステップとして「江崎珈琲店」を開いた。それも珈琲美美の故・森光さんが背中を押してくれたことがきっかけだったという。

石の上にも三年ということわざがあるし、どんな業界でも言えることだが、右も左もわからないところから仕事を始め、慣れてきて本格的に戦力になるのに、3年はかかるもの。これからいよいよ会社や店のために活躍してくれるような人材を、次のステップに向けて旅立たせる。これは、なかなかできることではない。

「マスターはもう他界しているので、真偽はわかりませんが」と前置きした上で、「マスターは自分のことだけではなく、もっと広い視野を持たれていたような気がします。コーヒー業界全体のこと、後進育成のこと、産地のこと。コーヒー以外でも地域のこと、文化のこと。実際、私が珈琲美美をやめる時も、マスターの体調があまり良くなくて、私はこんな時だからこそお手伝いをしたいと考えていたんですが、それでも独立へと背中を押していただいた。利己的ではなく、利他的というのでしょうか。とにかくスケールの大きな人でしたね」と江崎さんは振り返る。

そんなエピソードを聞いて、今の「江崎珈琲店」のことを考えてみる。自身にとって好条件よりも、どれだけ多くの人にネルドリップで淹れたコーヒーに親しんでもらえるかという点に重きを置く「江崎珈琲店」。江崎さんにも故・森光さんの思考が脈々と受け継がれているように感じた。

■抽出の奥深さを感じる味わいの違い
現在、「江崎珈琲店」は土日祝のみマッちゃんの店頭で営業している。豆は自家焙煎、抽出はネルドリップと、珈琲美美のスタイルを踏襲。マッちゃん店頭の仮設店舗のため、ネルドリッパーを洗って、また使用してというルーティンがとれず、現在はおよそ100本のドリッパーを準備して営業に臨んでいるそうだ。ドリッパーはすべて手作りしているというから、そのあたりの苦労もうかがえる。

焙煎を行うのは三瀬村にある自宅の納屋のような場所で、独立した時から手廻し焙煎機を愛用している。現在、豆売りは行っていないが、豆を買いたいという客からの要望は多く、近い将来、豆売りを行うことも視野に入れているという。

メニューは珈琲(350円)、アイス珈琲(400円)、濃い珈琲(450円)の3種のみ。過去にはブラジルやインドネシアのマンデリンも扱ってきたが、2022年3月現在、生豆はエチオピア・ハラールのみを使っている。珈琲美美でもおなじみの品種で、江崎さんにとっても思い入れの深い豆だ。「ハラールはマスターにエチオピア産地視察に連れて行ってもらった時に訪れた思い出の地でもあります。また、在来種に近い豆で、昔から親しまれてきたもの。自分にとっては、本来コーヒーが持っている味わいを表現するのに適している豆の一つではないかと考えています」と江崎さん。

スタンダードの珈琲は中煎りよりもやや深め、濃い珈琲は深煎りと焙煎度合いは分けており、なにより抽出時間が倍以上違う。スタンダードの珈琲は湯を注ぐスピードは比較的速いが、濃い珈琲は一滴一滴コーヒー粉に染み渡らせるように湯を注いでいく。ドリップする様子は膨らんでいくコーヒー粉に魂を込めているようで、多くの客がその様子に見入るほどだ。

スタンダードの珈琲と濃い珈琲は、焙煎度合いが違うとはいえ、原料が同じとは思えないほど味わいに明確な違いがある。スタンダードの珈琲はあえてすっきりとしたテイストに仕上げ、だれでも飲みやすい印象。一方、濃い珈琲は上品な苦味の中に妖艶な甘味を感じ、まるで長期にわたり熟成させた洋酒のよう。淹れ方一つでここまで味わいが変わることを体感する意味でも、飲み比べてみるのもいいだろう。

■今、自分にできることを、ひたすら
関西で会社勤めをしながら、さまざまな自家焙煎店を巡る中でコーヒーに魅了された江崎さん。「実は珈琲美美で修業する以前、関西で行われるコーヒー関連のセミナーなどにも機会を見つけては参加していました。3年ぐらい会社に勤めながら開業資金などもしっかり貯めて、自身でコーヒー屋を始める計画を立てていたんです。ただ、マスターとの偶然の会話から珈琲美美で働かせていただくチャンスをいただきました。当初の計画とは違ったけれど、この機会を逃したら、私はコーヒーの世界にはいけないな、と思い、当初の予定を大幅に早めて、前職を辞めました」

そんな経験もあって、江崎さんは“今”を大切にしている。
「人生って自分が思った通りにはなかなかいかない。けれど、目の前のことに全力で向き合い、想いを持って諦めなければ、なにかに繋がっていくような気がします。だから、今は数年先の具体的な目標は考えていません。今の私にできることは、一人でも多くのお客さまにおいしいと思っていただけるようなコーヒーを淹れること」

「まだまだ自分が作るコーヒーに納得いっていない」と江崎さんは話し、今までメディアの取材は極力断ってきたそうだ。今回、豆香洞コーヒーの後藤さんがもたらしてくれた縁もあって叶った取材。後藤さんの言葉を借りれば、江崎さんは「探究心の塊」のような人だ。珈琲美美で得た学びに、自身の経験を積み重ね、堅実にコーヒーと向き合い続ける江崎さん。そんな江崎さんの人柄にコーヒーを通して触れてみてほしい。

■江崎さんレコメンドのコーヒーショップは「珈琲蘭館」
次回、紹介するのは福岡県太宰府市にある「珈琲蘭館」。
「『珈琲蘭館』のマスター、田原さんはジャパンカップテイスターズチャンピオンシップの優勝者で、世界大会でも3位という経歴を持たれています。それってすごいことなのに、ずっと変わらず謙虚で、なにより人柄が素晴らしい。一歩一歩、常に進化しようと努力されている姿勢も尊敬しています。同じネルドリップに取り組む人間から見ても素晴らしい抽出技術を持たれていますし、焙煎技術、幅広い知識、すべてが高いレベルにあると思います」(江崎さん)

【江崎珈琲店のコーヒーデータ】
●焙煎機/FUJI手廻しロースター
●抽出/ネルドリップ
●焙煎度合い/中深煎り、深煎り
●テイクアウト/あり(350円〜)
●豆の販売/なし

取材・文=諫山力(Knot)
撮影=大野博之(FAKE.)




※新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大防止にご配慮のうえおでかけください。マスク着用、3密(密閉、密集、密接)回避、ソーシャルディスタンスの確保、咳エチケットの遵守を心がけましょう。

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