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【九谷焼編②】能美市九谷焼美術館-五彩館-で九谷焼の絵付けの魅力に迫ります

  • 2021年6月30日
  • ことりっぷ


360年にもおよぶ九谷焼の歴史。能美市九谷焼美術館-五彩館-には、わずか50年で突然途絶えてしまった「古九谷」から、その約100年後に再興された「再興九谷」「近代九谷」とこれまでの流れがわかる作品が揃っています。九谷焼の歴史をたどりながら、名品の数々を間近で眺めてみましょう。
九谷焼が生まれたのは、今からおよそ360年前のこと。1655(明暦元)年に大聖寺藩の金山だった加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県加賀市)で陶石が発見され、色絵磁器が焼かれたことにさかのぼります。しかしこの窯はわずか50年ほどで突然途絶えてしまいました。このわずか50年の間に作られたのが「古九谷」です。このたった50年の間に「青手」や「五彩手」といった九谷焼を代表する色絵様式が生まれました。
突然途絶えた古九谷のあと、色絵磁器を焼く窯が復活したのはおよそ100年後。1807(文化8)年のことでした。加賀藩前田家は金沢の春日山に京焼の名工・青木木米を招聘し、色絵磁器を焼きはじめました。そこで九谷焼再興の大きな鍵となったのが、陶石の発見です。金沢には陶石の出土がなく、わざわざ九谷村から運んできていたのですが、山深い九谷村から陶石を運ぶのは大変な苦労でした。そんなときに木米門下の本多貞吉が花坂陶石を掘り当てます。花坂陶石山は石川県の小松市にあり、市街地に近い交通のいい場所にありました。この花坂陶石が発見されたことにより、再び色絵磁器を焼く窯元が各地で生まれたのです。これが「再興九谷」の時代です。
「九谷焼」という名前をはじめて名乗った窯元は吉田屋窯です。吉田屋は古九谷の地で開窯し、焼いたものを「九谷焼」と呼びました。吉田屋窯は九谷陶石を使い続け、古九谷の高い美意識を意識しつつも、次々と新しいうつわを生み出していきました。若杉窯が藩窯なのに対し、吉田屋窯のスポンサーは吉田屋伝衛門右衛門という豪商で文化人。鍋屋丈助という日本画出身の絵師が描く絵は秀逸で、絵の上手さと透明感のある色絵具の美しさには定評があります。
九谷焼を芸術品へと押し上げた吉田屋は、7年で廃れてしまいますが九谷焼の歴史に大きな爪痕を残しました。
加賀藩、大聖寺藩は廃藩置県で無くなり、明治時代になるとがらりと作風が変化します。明治新政府は九谷焼を海外の博覧会に出展し、海外での知名度が上がり「ジャパンクタニ」と呼ばれるようになりました。この頃の九谷焼を《朱赤の間》で見ることができます。
明治時代以降の九谷焼の特徴は赤絵細描・金襴手。海外輸出を意識した一対(欧米では工芸品をシンメトリーに飾ることが多かった)の作品が多く、作品は大型化してきました。いかにも西洋のお屋敷に似合いそうな絢爛豪華な赤絵が作られ、かつて素朴だった模様はどんどん細密化していきます。圧倒的な超絶技巧が見られるのがこの時代の特徴です。ジャパンクタニが並ぶ《朱赤の間》では、ここ能美市で開窯し、陶祖と崇められた斎田道開(さいだどうかい)の作品や、九谷焼中興の祖とうたわれた名工・九谷庄三(くたにしょうざ)が確立した彩色金襴手など、能美の産業九谷の祖となったキーパーソンの作品も見ることができます。
《紺青の間》と《朱赤の間》をめぐることで、九谷焼がいかに新しい表現を生み出してきた革新的なやきものか、ということを学びとることができます。時代ごとの名品を眺めながら、九谷焼がどんなやきものかを知ることができる展示内容に加え、2階にある《黄色の間》では九谷焼の制作工程を展示や映像でわかりやすく紹介されています。ぜひ1階の展示とあわせて見ることをおすすめします。

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