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縄文人は「究極のサステナブルライフ」をおくっていた?縄文人の暮らしに学ぶSDGs

  • 2022年12月9日
  • Walkerplus

日本列島において、集団が共に働き、共に生活し、共に育っていったと言われている縄文時代。言うに及ばず、紀元前1万4000年代の旧石器時代の後期からはじまり、紀元前10世紀頃まで続いた時代のことを指すが、その暮らしを見つめてみると、今日叫ばれている「サステナブル」「SDGs」に通ずるものも多くありそうだ。

本記事では、縄文時代の遺跡を多く収蔵し、縄文人たちの暮らしに詳しい新潟・十日町市博物館の学芸員・阿部敬さんに解説してもらいながらご紹介する。

■縄文人は自然のあるものを口にし、栽培化、家畜化したものはほとんどなかった
そもそも縄文時代を過ごした縄文人たちは、どのような食べ物をとり、生活していたのだろうか。

「縄文人は狩猟、採集、漁労、農耕を日常的に行い、季節に合わせて食料資源を変えるなどしながら、非常に多くの品目をまんべんなく摂りながら生活をしていました。
縄文人が食べていた食品は、ほとんどが自然にあるもので現代の食卓にはないものが多いのですが、逆に言うと、現代人がいかに栽培化・家畜化された食品種に依存して暮らしているかということもわかります。もっと言えば、現代では栽培化・家畜化できないものは切り捨ててきたという見方もできます」(阿部さん)

■縄文人たちも気候変動に翻弄されていた?
ただし、縄文時代にもその長い歴史の中で何度か大きな変動があり、それに従って生活様式も変化していると阿部さんは言う。縄文時代の草創期と呼ばれる期間は氷河期でもあり、縄文人は移動生活を強いられていたため、固定した文化はあまり発達しなかったようだが、その後、迎えた早期から地球が温暖化し、このことで食料が増え、ある地域に定住して暮らすことが多くなり、気候が安定する中期頃には人口が爆発的に増加したと言われている。

しかし、再度寒冷化した後期には人口が激減し、この頃から宗教や社会組織が複雑化したという。

「マクロに見てみると、そもそも縄文時代は食糧生産が限定的なために、気候変動や環境変動が、直接人口減少(自然減)に結び付きがちで、こうした事態への観念的対処方法として宗教、葬送儀礼、親族組織の複雑化が起きていたのかもしれません。
現代では、科学技術を発達させながら、ゴミや有害物質の排出抑制を優先的に取り組みますが、縄文人は人間の生命のあり方まで対処方法の中に含まれていますから、環境の変化はかなりナイーブな問[B]題だったことでしょう。
自然に負荷をかけずに人間社会の中でなんとかするのですから、ある見方をすれば『究極のサステナブル』ともいえますが、現代人が真似しようと思ってもできるものではありませんね」(阿部さん)[/B]

■縄文時代に争いごとはなかった?自然の営みの中に芽生える「和」の精神とは
こうして自然に依存し、自然に身を任せるよう暮らしを送っていた縄文人だが、いまだに謎とされているのが、縄文時代には大規模な争いごとの痕跡がみられないことである。
後の弥生時代では人々の争いによって矢が突き刺さったり首が切り落とされた人骨が多く見つかっているのに対し、縄文人にはその痕跡がみられない。
阿部さんによると、この理由として考えられる一つが、自然と共に生きる縄文人の根底にある「和」の心ではないかという。

「農耕を早くから始めた中国大陸と比べると、約5000年も長く自然に依存して生活をしていた縄文人です。
縄文時代よりも後に『和を以て貴しとなす』という孔子の教えが日本にも入ってきますが、それよりも前から争うことに走らない『和』を基本とする社会の重要さが認識されていたのではないでしょうか。
縄文時代の社会はまさに自然の一部。そうした中で暮らした縄文人には『和』の心が奥底に根付いていたと考えられます」(阿部さん)

■縄文人の社会は自然と対置されるものではなく、「人間も自然の一部」だった
また、こうした縄文人の「和」を大切にする心は、私たち現代の日本人にも受け継がれているのではないかという意見がある。
新潟県の人々は、おとなしく忍耐強い県民性が特徴として挙げられているが、こうした協調性を重んじ、全体のためにどうすべきかを敏感に感じ取る県民性は、縄文時代から続く心性をいまだに強く受け継いでいるのではないかと言われている。
そして、この「和」の心は人と人の間を指すだけのものではなく、「社会と自然」の間にも当てはまるものだと阿部さんは言う。

「縄文人にとっての社会とは、自然と対置されるものではなく、自然の一部でした。人間は自然のなかで現れ、死して、再び自然のなかに見えなくなり、そしてまた現れる……というような『自然の中で循環する存在』と捉えられていました。
だから社会を『和』で保つということは、すなわち自分たちを含む自然全体を『和』で保つことと全くの同義と言っても良いかと思います」(阿部さん)

■「『自然の痛み』をそのまま自分ごと」に思うことが縄文的な「和とサステナブル」
阿部さんが言う通り、縄文人の暮らしをそのまま現代人が真似することは到底難しいが、近年叫ばれる「サステナブル」「SDGs」といった目線からその生活を見つめると、新しい発見や学びが多くあるように思える。私たち現代人が縄文人に最も学ぶべきことは何かを、最後に阿部さんに訊いた。

「現代人の私たちは、どうしても社会と自然を対置で捉え、資源の利用可能性に基づいた利害関係から、相互の関係を良好に保とうとしています。
でも、縄文人から見ればこの関係は、ときに利害が衝突し、敵対する可能性のある危ういバランスにみえるのではないかと思います。
むしろ自然そのものを『自分ごと』として捉える目線こそが大切で、たとえば自然の痛みを縄文人のように自分のことのように痛みとして感じられる共感があっても良いのではないでしょうか。
現代人のひとりひとりがそうした気持ちを持つことで、自然に慈しみをもって接することができるような気がします。これが縄文的な『和』のあり方だと思います。
私たち日本人は食事の前に『いただきます』と言います。この言葉は近年、命をいただくという意味があり、命に感謝を捧げる言葉と言われることが多くなったそうです。
きっと縄文以来続く、日本人の心性のあらわれでしょう。
このような共感や感謝の気持ちで広く自然に接することができれば、環境問題もまた自分ごととして捉えるきっかけになり、これからなすべきことを真剣に考えていけるような気がします」(阿部さん)

文:松田義人

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