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彼はコーヒーカップを手にしている。妊娠を告げた翌日だった|うさぎの耳〈第七話〉谷村志穂

  • 2023年7月13日
  • 暮らしニスタ

◀初めから読む 母子の部屋は、一階にあるその角部屋である|うさぎの耳〈第一話〉

バッグから、隆也の写真を取り出してテーブルの中央に置いた。

生後すぐの理玖を膝に乗せた写真、二人の結婚式の写真、他はあと一枚しかない。隆也は、写真を撮られるのが嫌いだった。もしかしたらそれすらもが、失踪への助走だったのだろうか。

「これ、二人の自宅?綺麗な部屋だね」

ショートカットの耳元で光るピアスを揺らし、レラが、一葉を手に取る。

朝起きて、シャワーを浴びて、窓からの光の中で微笑んでいる貴重な写真だ。

彼はコーヒーカップを手にしている。妊娠を告げた翌日だった。こうした写真が、家族のアルバムに増えていくのだと疑ったこともなかったのだが。

レラに向かって、頷く。

「結婚してすぐに、一緒に住んでいた部屋だけど、今は高山の実家にいるの」

「そうか。お姑さんと一緒だったね」

と、由希奈。

「なあ、もちろんこれも、使わせてはもらうけど、こういう時は、デジタル画像でしょ、普通」

山喜田がそう言って、笑ってくれて助かった。

「アナログな夫婦だったから」

「マジか」

野本たちが呆れ顔で、テーブルに置いた写真を順に接写する。

「子どもや美夏ちゃんの顔は加工しないとな」

「本当にいいのね?美夏」

口々に向けられる言葉に、気づかないうちに、頬が震えていた。

隣の席の白坂が、ポケットからハンカチを取り出して手渡してくれた。柔軟剤の匂い。理玖が生まれてから使わなくなった匂いだ。

「もう、なりふり構っていられないって決めたから。皆さま、どうか、お願いします」

と、頭を下げる。

彼らがスマホをめいめいテーブルの上に出して、SNSのさまざまなアカウントの交換を始めた。

 

中央線沿線にある駅から歩いて七分ほどの、アパートの二階である、の表札のかかった莉子の部屋に到着すると、もう夜の十時近かった。

理玖はお風呂に入れてもらったようで、さっぱりした顔で、ご機嫌で「マーマ」と言って、私に手を伸ばしてきた。

「理玖、よかったね。たくさん遊んでもらったんだね。見るからに元気そう。ありがとう」

莉子に言う。

「遅いから、よかったら泊まっていきなよ」

風呂上がりなのは、莉子も同じようだ。片方の肩が落ちる薄手のトレーナーはグレー、それに薄手のゆるっとしたズボンだ。素顔の鼻先が、ぴかっと光っていた。

理玖を抱き上げると、膨らみ切った胸に痛みが走った。その胸を理玖が面白がって叩くから、

「痛い、痛いよ、理玖」

と、言うと、理玖は余計に面白がって叩くが、やがてぐずり始める。

莉子が、ワンピースの背中のファスナーをおろしてくれて、びしゃびしゃになった胸元を広げると、すぐに蒸れたような母乳の匂いが部屋の中に広がった。

 

母乳をやりながら見渡すと、莉子の部屋には、手編みのものがたくさん飾られていた。生成り色と淡いパープルの編み込み模様になったブランケットはソファに。飾り棚には、アースカラーの毛糸で編まれた愛らしい、ライオンやうさぎの編みぐるみ。

「染み出しちゃったんだ」

と、ワンピースの胸元を見せると、

「私も、見たことあるよ。友達が授乳中なのに、結婚式に胸の開いたドレスで参列したら、みるみるうちに胸が張り始めて、巨乳になっちゃって、それで爆発してた」

「笑えないよ。あー、だけど吸ってもらってこんなにほっとしたの、初めて」

「いいな。私があげられたのは、本当に短い時期だったから」

「そうだよね」

無神経なことを言ったのだとすぐに気づく。

「私が出るなら、理玖くんにあげたかったよ」

莉子は、そうとまで言ってくれる。そして思い出したように、指の先の人形を動かして見せてくれた。

「はい、今日、生まれた子」

頭にコーヒーカップを載せたパペットだ。

「すごい、それに大物だ。こんなのどうやって編むの?」

「うん、でもこれはちょっと難しいかな。無理やり感もあるし。だけど、時々無性に、極限まで大きいの、載せたくなる」

二人で少し笑っていると、理玖は乳房から口を放し、しばらく乳首を指でひねって遊んでいたと思ったら、寝息を立て始めた。

パペットのコーヒーは、まるでミルク混じりのよう。この日のことは、きっとまた思い出す気がした。写真などなくても。

「よほど満足した一日だったんだね、理玖。ありがとうございました」

「どういたしまして。そうだ、もう母乳終わったんなら、缶ビール、半分くらいずつでも飲もうか?」

ありがたく、頷く。

「それで、どうだったの?協力してもらえそう?」

話しながら自分でも、同窓会の様子を思い出していた。懐かしさを楽しむだけの場に、持ち込んでしまった冷たい氷のような告白だった。その冷たさを抱え切れなくて、ただ皆の前に放り投げてしまった。けれど、皆が少しずつその場で解かし始めてくれたようにも思えた。

「だんなの同期でもあるんだもんね」

「そうだね」

「いいね、そういうの。見つかりますように」

指先のパペットの頭の先で、コーヒーカップが動く。

「理玖くん、もう寝かせてあげよう」

莉子が、リビングから続く部屋の引き戸を開くと、その奥にベッドがあり、同じ部屋の床にお布団が敷いてあった。ずっしり重くなった理玖の体を置かせてもらい、伝える。

「お義母さんに、電話だけしてくる」

玄関の外に出て電話をかけると、相変わらず早口で小言を並べられた。かけるなら、もっと早くかけてくるべきだ、明日頼みたかった買い物はどうしてくれる気だ、何時に帰って来るのか?このまま帰って来なくなってもいいんだけど……。小言はヒートアップしていく。けれどいつもよりは、落ち着いて聞いていられた。棘立ってばかりの母は、いつしか茨の囲いの中にいる。

でも、今はその囲いに匿(かくま)ってもらうしかない、理玖と自分だった。

「明日。朝のうちには帰りますから」

そう言って、自分の方から先に通話を切った。もう一度向こうからかかってきたが、もう取らなかった。

「もういい。ほんと、どうでもいい、よな」と、ひとりごちていた。

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谷村志穂●作家。北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの作品がある。映像化された作品も多い。

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