みなさん、こんにちは。いよいよ15周年記念ツアーの後半戦がスタートしたゴスペラーズの北山陽一です。前回に続いて、日々の暮らしのなかの幸せについていま考えていることをもう少し書いてみたいと思います。
ある時、友達の一人が「最近、食が細くなった」と言い出しました。年のせいかな?とも思ったんだけれど、よく考えてみると、最近テレビをあまり見なくなった、と。おかげで欲求を喚起されなくなって、その結果、食が細くなっているということなんだろうというわけです。逆に言えば、テレビなどで人為的に欲求をかき立てられることがなければ、“必要な量だけ摂っていれば十分”と人間は感じるということですが、その友達がテレビを見なくなったせいで食が細くなったとすれば、それは欲しいと思ったものがいつでも手に入るということの歪みが目に見える形で表れたひとつの例なんじゃないかと思います。
本当はそんなことはないわけですよね。その場合の「本当は」というのはむずかしいですけど(笑)。自然な形のなかでは、欲しいと思ったものがいつでも用意されているということはなくて、しばしば待ちぼうけをくわされるということがあるはずです。でも、現代社会においては、欲しいものが見当たらなければ誰もが「すみません。待ってるんですけど!」とちょっと不満に感じさえします。僕はどうも、そういう状況が嫌みたいなんです。なぜなら、“待ちぼうけをくらう社会では、いろいろなことにありがたみを感じられるようになるのに…”と思っているからです。
僕の話をしましょう。先日、いつもならカフェインレスのコーヒーに豆乳を入れてもらって飲むところが、ふと思い立ってそこにさらにヘイゼルナッツのシロップを入れてもらったんです。ヘイゼルナッツのシロップはメイプルシロップと同じように吸収がある程度穏やかなので、砂糖ほど体に悪くないんです。で、飲んでみたら、これがおいしかったんですよ(笑)。しかも、僕は何かを飲みたいなと思っても、1日くらい飲めないでいると、その“飲みたいな”という気持ちはおさまってしまってしまうようなタイプだったんですが、この「ヘイゼルナッツのシロップ入りカフェインレスコーヒー・ウィズ豆乳」はよほどおいしいと思ったみたいで、それを飲みたいと3日くらい思い続けていました。それで、飲むとやっぱりおいしいんです。こういうのは初めての出来事なので(笑)、“食欲が増したのかな?”とか、いろいろ自分のなかで検証している最中なんですが、いずれにしても“どれだけ真剣に求めるか”とか“どれだけ欲求と向き合うか”ということ次第で、それを得られたときの喜びは全然違ってくるということだけははっきり言えると思います。そして、そういうふうにしっかり自覚的に選びとった好みを組み立てていった結果が自分のライフ・スタイルというものになるんだろうと思います。
ところで、僕は幸せを感じる閾値が低いというか、例えば料理を作ってくれたということ自体が“おいしい”出来事だから、食べてみて味がどうかということはどうでもよかったりして、そういう意味では僕はすごく幸せな人間だと思うんです。周りの人と比べても、いろんなことに幸せを感じられるし、幸せを感じやすいと思うから。特に最近その自覚が強くなってきていて、もしかすると最近さらに幸せを感じやすくなったのかもしれないですね。そのあたりはまだよくわからないですけど。ただ、今言われているエコのいちばん本質的な意味というのは実はそういうことなんじゃないかなとも思ったりするんです。自分が、何をどう捉えるかということを考えるということがエコなんじゃないかなって。もちろん、他にもいろんな要素があるんだろうけれど、そういう意味のエコというのも絶対に存在するんだろうなと感じている今日この頃です。