【没後23年】“史上最強のテレビウォッチャー”ナンシー関とは何者だったのか? 「テレビ批評」と「似顔絵消しゴム版画」が遺したもの

  • 2025年4月1日
  • CREA WEB

 コラムニストであり消しゴム版画家であり「史上最強のテレビウォッチャー」であったナンシー関さん(2002年没)。生前は、独特の観察眼による鋭いテレビ批評と著名人の似顔絵をユーモアたっぷりに彫った消しゴム版画で『週刊文春』や『CREA』など数多くの雑誌で才筆をふるいました。


ナンシー関(なんしー・せき)。1962年、青森県生まれ。85年、雑誌『ホットドッグ・プレス』で消しゴム版画家&ライターとしてデビュー。以降、テレビを題材とした社会時評的コラムと版画で人気を集めた。2002年死去。享年39。

 亡くなって23年が経つ今年5月、「ナンシー関」の名づけ親であるクリエイターで作家のいとうせいこうさんプロデュースで、ナンシーさんが眠る青森県青森市の浅虫温泉にてトークと音楽の祭典「あさ虫温泉フェス」が開催されることに。昨秋、浅虫温泉の旅館「椿館」を訪れたいとうさんが、旅館のすぐそばにナンシーさんの菩提寺があると知り、ナンシーさんに捧げる「フェス」を発案したそう。

 そんなわけで。いとうさんと、ナンシーさんの盟友でもある放送作家の町山広美さんが、ナンシーさんが暮らした部屋を訪れ、ナンシーさんの約5000点以上にも及ぶ消しゴム版画作品を管理する実妹・米田真里さんとともに、「ナンシー関とは?」を改めて振り返りました。(全3回)


ナンシー関さんが暮らしたマンションにて。左から放送作家の町山広美さん、実妹・米田真里さん、クリエイターのいとうせいこうさん。町山さんの後ろにあるのはナンシーさん特製“小野ヤスシ冷蔵庫”。

テレビと距離を保ち続けたナンシー

いとう そもそもナンシーにどういう存在意義があったのかと考えると。少なくともテレビについてあんな風に語った人はいなかったんですよ、ナンシーがメディアに登場する1980年代半ば以前は。そのことを知らないと思うんだ、いまの人は。SNSの時代になり、全員が「ものを言う」ようになったから。

 昔は、テレビに出ている芸能人・著名人に対して、あるいは、役者に対して、脚本家に対して、言わなかった、同業者しか。それをズバズバッと言ったのがナンシー。とにかくそれが新しい視点だったから、テレビの人たちはみんなオロオロしたと思うんだ。「え、俺たちそんなふうなの?」って(笑)。


ナンシーさんが彫ったダウンタウン松本人志。似顔絵には必ずその人を表す“ひと言”が。

町山 ナンシーさんは雑誌『ホットドッグ・プレス』で「ナンシー関」としてデビューしたわけですけど、いとうさんの「業界くん物語」(注:同誌の編集者だったいとうせいこうが担当していた連載。テレビやラジオ、広告、出版、音楽、ファッション業界などに携わる人々を紹介。ナンシー関もライターとして参加。86年に書籍化)という、業界ど真ん中の人たちの生態や仕組みを、業界周縁部の若者たちが徹底的に観察してイジってみせる企画が連載された場所なわけで。


ヤンキーの代名詞だった三原じゅん子。政治家になったことをナンシーさんは知らない。

 ナンシーさんは、民放が2局しかない青森の出身で(注:現在は3局)、お昼の番組『笑っていいとも!』も夕方4時からの放送だった。なのにテレビは「1億2000万人、お昼です」なんて当たり前に大声で言ってて、ナンシーさんは「自分は埒外にいる」と。真ん中で何かやってるのを遠くから見ていたナンシーさんと、いとうさんの「業界くん」が、あの頃、雑誌というメディアで結びついたのは、本当に絶妙なタイミングだったと思っているんです。

 いとう なるほど。その距離感だったからこそ、あの客観性を持ったのだ、と。

有名になってからも「テレビには絶対に出ない」って

町山 ナンシーさんのテレビとの距離感って、いとうさんもそうだけど、東京出身の我々とは全然違うんです。

 私は東京の真ん中で生まれ育ち、中学は麹町だったんですが、『紅白歌のベストテン』の夏のプール大会の収録は学校の隣の赤坂プリンスだったので、ヒデキ(西城秀樹)の歌声が漏れ聞こえてくるという、その話をするとナンシーさんは「イヤな話」って言うわけですけど(笑)、私とヒデキの距離感と、夕方に『笑っていいとも!』を観る距離感には途方もない差があって。


ナンシーさん、町山さんが約3年間対談連載していたCREA誌面(タイトルは途中で変更)。左から1999年10月号、1996年8月号

 しかもあの時代は、「業界」全体がうまくいっていたから、テレビの人たちは自分たちのコミュニティの中だけでやっていたし、外のことなんて誰も考えてなかった。そんなときに、声を上げたのがナンシーさんだった。

いとう コミュニティの外の外から言ったんだよね。「それ、ちょっとヘンじゃないの」と。

町山 そうなんです。「中」の人たちに「いやいや、私、お昼に観れてないし」って。

いとう その距離感こそがナンシーのキモだった。だから、ナンシーは有名になってからも「テレビには絶対に出ない」って言ってたのをよく覚えてるんだ。

――ナンシーさん、テレビに出たことってなかったでしたっけ?

真里 いえ、何回かはあるんですが、本当にもう、数える程度だったので。

町山 『タモリ倶楽部』とかNHK『婦人百科』の「消しゴム版画の年賀状の回」とか、ほんのちょっとだけ。


クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリー。『ミュージック・マガジン』のえのきどいちろうさんのコラム連載の挿絵を担当しミュージシャンを彫ることも増えた。

いとう 「出ると中に入っちゃうから書けなくなる」ってよく言ってたもの。

町山 やっぱり「中と外」の意識がナンシーさんにはあったし、あの頃のテレビにははっきりと境界線があった。だから、「外」のナンシーさんから「なにやってんだよ」って言われて初めて、「中」の人たちは「え?」って(笑)。

テレビの後ろ姿に目を向けた“視点の人”

いとう でも、そんな調子のいい時代ではあったけど、その距離感を踏まえ意識的に新しいテレビを作ろうとしていた人たちは少なからずいたわけで、「この部分に着目して書いてくれてうれしい」とナンシーを指針として番組を作ろうとしていたテレビマンも結構いたんですよ。

 だから、ナンシーが知らないうちに、そんなつもりはまったくなかったのに、いつの間にかテレビに大きな影響力を与えていた、ということもあってさ。いま現在のテレビにおいて、そういう存在の人っているんだろうか? 的確な批評ができる人っているんだろうか?


いとうせいこう。1985年、講談社の社員編集者時代にナンシーさんと出会い「ナンシー関」の名づけ親に。作家、クリエイターとしてあらゆるジャンルで幅広く活躍。

町山 いまは、「中と外」がなくなり、境界線もなくなってしまったので、じゃあどの視点で書くのかというと、すごく難しい。若い人の多くは、どのチャンネルで何時にやってる番組か、番組タイトルさえも知らない。そもそもテレビは「流れてくる動画の1つ」でしかなく、昼の番組であろうが夜の番組であろうが関係ない。

 しかも切り取りができちゃうから、それだけを受容してSNSで発言する人もいる。テレビが30分なり1時間なりの枠で放送しているという概念自体が崩れているから、なかなか話ができないのではないかと思うんですよね。


町山広美(まちやま・ひろみ)。ナンシーさんと出会ったのは「1980年代の終わり頃。ナンシーさんの仕事仲間の彼女として会ったので、出会い方は最悪(笑)」。放送作家、コラムニストとして活躍。

いとう そういう意味では、ナンシーはいい時代にいた、ということだ。テレビにとってもいい時代をナンシーに観てもらっていたし、ナンシーの視点で切り取ってもらうことで、2倍以上面白くしてもらったんだもの。

 例えば、小野ヤスシさんの番組も、ナンシーの小野ヤスシ論を読んでから観ると途端に面白くなるわけじゃない(笑)。俺は小野ヤスシさんのいい加減な感じが好きだったし、芸能界の面白さを言えた人だったと思うけどね。

町山 さっき、真里さんが整理したナンシーさんのはんこをいとうさんと一緒に見させてもらい、ナンシーさんの自画像はんこもいくつか見ましたけれど、いとうさんが好きだというナンシーさんの自画像は、ナンシーさんがいちばん多く使っていたもので、斜め後ろの角度から見た自画像。自分からは見えない角度の絵なんです。


いとうさんが好きなナンシーさんの自画像は斜め後ろからのアングルのもの。「これぞナンシーって感じがするんだよね」といとうさん。

 やっぱりナンシーさんは視点の人。それを自身も自覚していたからこその自画像だと思う。テレビの人たちは自分の後ろ姿を観られてるなんて思わずに放送してたわけだから、そこに目線を向けたというのはすごく大きかったと。

いとう 昔はさ、ドラマもみんな本気で観てたから、それが役者の芝居だとは思わなかったじゃない。その人が実は普段はごく普通の人で、お風呂も入るしトイレも行く、ということを考えなかった。後ろ姿がどういう人なのかを。でもナンシーはそれを見抜いていたということだ。

町山 やっぱり人って、何かを演じていたとしても、こぼれ出てしまうものだから、ナンシーさんはそれを見逃さなかったってことだと思うんです。

いとう 漏れ出ちゃってたんだ(笑)。

ナンシーの原稿には改行がひとつもなかった

町山 「見せたい私」が映っていると思い込んでる芸能人たちがいて、こぼれ出てるものを見逃さないナンシーさんがいる。よく「ナンシーさんが悪口を書いてた」って雑なことを言う人がいますけど、全然違う。

 譬えがまた小野ヤスシさんになっちゃうけど(笑)、小野ヤスシさんは「見せたい小野ヤスシ」をテレビで出してるわけで、それを受けてナンシーさんは書くわけです。「こんなふうに見せたいんだろうけど、私にはこう見える」と。「小野ヤスシという人間がこうだ」と言ってるわけじゃない。


ナンシーさんがテレビを観るときに愛用していた革張りのソファ。さっきまで座っていたような佇まい。

いとう 「もしもし、あなたが思うようには見えてませんよ」って、後ろから肩を叩くみたいな感じだよね(笑)。それをめちゃめちゃ熟考し、何回も何回も、それこそ消しゴムをかけて推敲していたわけだから、ナンシーは。最初は鉛筆で原稿用紙に書いていたからね。

 ナンシーが書いたいちばん最初の原稿を取ったのは俺だったわけだけど、「ぱっくんぷれす」っていう『ホットドッグ・プレス』のコラムページでライターとして書いてもらったんですよ。

 読者から送られてきたハガキを選び、面白いやつを引用して、「これは面白かった」というコラムを書いてもらったんだけど、原稿用紙にビッシリ、改行もなく、最後の「。」がいちばん最後のマスに入ってるの。ほんとビッシリ、何度書き直しをしたんだろうって思うほど。


ナンシーさんの作業机には生前の仕事道具がそのまま置いてある。消しゴムを彫るときに愛用していたのは「NTカッター」。

 それもすごくよかったんだけど、さすがに読みにくいから、「ナンシー、改行ってあんじゃん」って(笑)。「改行って、読む人がそこでちょっとひと息入れるためにあったりするから、もう一回書き直してくれない?」って言ったのをよく覚えてる。そのぐらいビッシリ書きたいことがある人だった。頭が熱くなるぐらい考えに考えて考え抜く人だったからね。

文=辛島いづみ
撮影=平松市聖

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