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1937年6月、アメリア・イアハートが愛機ロッキード・エレクトラ号のコクピットに乗り込んだとき、彼女が目指していたのは、まだ誰も成し遂げたことのない偉業だった。女性飛行士初の世界一周単独飛行だ。
機体の周囲には大勢の報道陣が押しかけ、青い瞳やショートヘアといった外見から、飛行機の燃料タンクの容量や巡航速度に至るまで、あらゆる情報を事細かに伝えた。「危険はないのか」と多くの記者が質問したが、アメリアはそれらの問いを軽く受け流し、「計画に沿った、安全かつ健全な飛行になるはずです」と言い切った。五大陸をめぐる旅程は、約4万3000キロメートルに及ぶものだった。
しかし、この壮大な挑戦が完遂されることはなかった。その後、アメリアと機体は消息を絶ち、彼女がどこで最期を迎えたのかは、現代に残された最大級の謎のひとつになっている。だが、人々の記憶に刻まれているのは、その謎めいた最期よりも、飛行のパイオニアとしての姿だ。
歴史上、最も名を知られた女性飛行士として、航空の歴史を変えたアメリア・イアハートの足跡をたどる。
1897年、アメリア・メアリー・イアハートは、父エドウィンと母エイミーのもと、2人姉妹の長女として、米カンザス州アチソンに生まれた。父親のエドウィンはごく普通の家庭に育ち、弁護士としてのキャリアを築いた。母親のエイミーは、教育と慈善活動に熱心な地元の名家の出身だった。
エイミー自身も、若い頃に米コロラド州の山に単独で登るなど、冒険心に富む女性だった。ただし、保守的な父親から大学進学を反対されたという記録が残っている。娘たちには同じ道を歩かせたくない、とエイミーは考えていた。「すべての女の子たちが、自立できるような何らかの技能を身に付けるべきだと思う」と、エイミーは1944年に記している。
そんなエイミーに育てられた娘たちは、当時の常識にとらわれることなく、外で遊ぶときには、スカートではなく、ブルマーをはいていた。アメリアはのちに、1932年に出版した自伝で、活発でカンザスの外の世界に関心を持っていた自分たち姉妹が「変わり者」と見なされていた過去を回想し、次のように綴っている。「残念ながら、私が育ったのは、女の子がまだ女の子だった時代でした」
姉妹が育った社会は、女性の社会進出に対して大きな葛藤を抱えていた。女性の権利は急速に拡大し、アメリアが20代の頃には、女性にも選挙権が認められた。しかし、「女性らしくない」とされる分野――かつて男性だけとされていた公共の場に女性が進出することには、多くの米国人が懐疑的だった。
そんな環境で、アメリアが求めたのは、結婚や子育てではなく、キャリアと自由だった。しかし、選択肢は限られており、奉仕的な仕事を選ぶことになった。第1次世界大戦中にはカナダの軍病院で看護助手として働き、その後、1925年にソーシャルワーカーになった。
当時、ソーシャルワーカーは女性の職業として世間の評価も高かった。その傍らで、アメリアには密かな情熱があった。社会的にはあまり歓迎されない、空を飛ぶことへの憧れだ。彼女が育ったのは、航空業界がまだ産声を上げたばかりの時代だった。1903年にライト兄弟が初飛行に成功して以降、航空分野は急速な発展を遂げていく。
次ページ:高まる名声、数々の記録を樹立
アメリアが初めて飛行機を目にしたのは、1907年、とある催しだった。当時10歳の少女の目には、それはサビついた、面白くもなんともない機械に映り、心を動かされることはなかった。
気持ちの変化が訪れたのは、1920年のことだ。大学生になったアメリアは、父親とともに米カリフォルニア州ロングビーチで開かれた「エア・ロデオ」を訪れる。当時、こうした催しは娯楽として一般的で、戦闘機の元パイロットたちが戦闘で磨いた技術を披露し競い合う場だった。
翌日、アメリアは曲芸飛行士のフランク・ホークスが操縦する飛行機に、10分間同乗することになる。高度600メートルほどの飛行だったが、アメリアはすっかり心を奪われた。「地面を離れた瞬間、自分で飛べるようにならなくてはと思った」と、後に彼女は回想している。
飛行訓練を受けさせてほしいと両親に懇願し、当時としては珍しい女性のテストパイロットであるネタ・スヌークの指導を受けることになった。そして1923年、スポーツ飛行を管理する「国際航空連盟」のライセンスを史上16人目の女性として手にした。
20代前半のアメリアは、経済面と健康面で問題を抱えていた。飛行訓練の費用を捻出し、自分の飛行機を手に入れるため、さまざまな雑多な仕事に就いた。また、全米航空協会の地元支部の活動にも加わった。「どれも世間的には意味のないことだったかもしれません。でも、私にとっては違います」と、1932年に出版された自伝に綴られている。「ただただ、楽しかったんです」
1928年、大西洋横断飛行に挑む初の女性飛行士にならないか、という誘いが彼女に舞い込む。この危険な飛行では、ウィルマー・スタルツが操縦士、ルイス・ゴードンが副操縦士を務め、2人には報酬が支払われる一方で、アメリアは無報酬の同乗者として参加するという話だった。
「アメリアは、解放された存在でありながら、なお女性らしさを備えた理想の米国人女性像――すなわち教養があって、社交的で気品もあり、最新の技術にも物怖じせずに接することのできる女性の代表として招かれたのです」と、歴史家のエイミー・スー・ビックスは記している。
横断飛行中、アメリアは操縦を望んだが、視界不良と操縦士の判断により、操縦の機会は与えられなかった。とはいえ、この飛行は歴史的な快挙となり、アメリア・イアハートの名は突如として、世に知られることとなった。
一躍有名になったアメリアは、その名声を航空界のために役立てた。著名人と広く交流し、支援やコネを得て飛行のための財源を獲得した。全米向けの出版物に自分の体験談を寄稿し、女性飛行士という存在を広めるのに一役買った。
ファッションの分野にも影響を及ぼした。例えば、彼女の革製の飛行ヘルメットに着想を得て作られたベルベット製のターバン風帽子の広告には、「鉄道でも自動車でも、さらには飛行機でも。旅のおしゃれに最適」といったキャッチコピーが添えられた。
アメリアは飛行経験を積み重ね、到達高度の最高記録も樹立。さらに、米大陸を単独で横断飛行した初の女性飛行士になった。
当時の航空界最大の有名人であるチャールズ・リンドバーグになぞらえて、「レディ・リンディ」の愛称で知られるようになったアメリアの活躍は、まだ序章に過ぎなかった。出版に携わるジョージ・パーマー・パットナムと結婚した後、彼女はリンドバーグの偉業をたどり始める。まず1932年、無着陸での大西洋横断単独飛行に成功した初の女性飛行士となった。
続く5年の間に、太平洋横断単独飛行など、数々の「史上初」を打ち立てていった。そうした成功を追い風に、アメリアは、これまで誰ひとり成し遂げたことのない、非常に大きな冒険に挑もうとしていた。女性初の、世界一周単独飛行だ。
次ページ:消息を絶ったアメリア
アメリアの愛機ロッキード・エレクトラ号は、世界中の注目を浴びながら、1937年6月1日、米カリフォルニア州オークランドから飛び立った。大勢のファンが、途中の給油地に着陸するアメリア・イアハートとナビゲーターのフレッド・ヌーナンを追い続けた。だが旅の終盤となる6月29日、ニューギニアのラエを離陸した後、2人の消息は途絶えた。アメリアもヌーナンも、そして機体も、二度と姿を見せることはなかった。
捜索は行われたが、機体も遺体も一切発見されなかった。しかし、アメリアの死亡が宣告された後も、彼女がどこで最期を迎えたのか、この悲劇の飛行に何が起きたのかをめぐる調査は、今なお続いている。
消えたアメリア・イアハートとナビゲーターに何が起きたのかについては、いくつもの説がある。「日本軍に捕らえられ、スパイ容疑で処刑された」「燃料切れで太平洋に墜落し、機体は海底に沈んでいる」「太平洋の孤島に漂着し、そこで最期を迎えた」などだ。
真相はいまだわかっていない。これまで何十年にもわたってさまざまなチームによる捜索が続けられており、近年ではソナーや自律型水中探査機といった最新技術を駆使した機体探しが行われている。
アメリアに何が起きたのか、真相が明らかになることはおそらくないだろう。だが、女性飛行士のパイオニアとしての功績が色あせることはない。
自身の名声を活かして航空関連法の整備を後押ししただけではなく、自立心と冒険心を備えた女性の姿を広く世に知らしめた。女性初の優れた飛行士というわけではなかったが、彼女の世界的名声は、女性の航空界や技術分野への進出を後押しするにとどまらず、あらゆる分野における女性の道を切り開いた。
航空業界における女性の進出は、まだ十分とは言えない。国際民間航空機関(ICAO)によれば、2023年時点で、操縦士、航空管制官、航空整備士に占める女性の割合はわずか 4.9%にとどまっている。
それでも、その数は年々増えている。その陰には、人々に飛ぶ勇気を与えた、ひとりの女性開拓者の存在があるのかもしれない。
「効率的な飛行を目指して、実にさまざまな人々が、その理論を懸命に探っています」と、1932年、アメリア・イアハートは書き記している。「そうした取り組みに、これまで以上に多くの女性が関わるようになる――それが私の願いであり、予言でもあります」