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前代未聞、250人を超える子どもの生贄、チムー王国の謎に挑む

  • 2024年5月16日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

前代未聞、250人を超える子どもの生贄、チムー王国の謎に挑む

 2023年、ペルーは蚊が媒介するデング熱の歴史的な大流行に見舞われ、17万人以上が感染し、225人以上が亡くなった。大流行の一因が、エルニーニョのせいで続いた高い湿度だった。

 多くの科学者は、周期的に発生するエルニーニョの影響が気候変動によってますます強まっていると考えている。ただし、考古学的な証拠により、エルニーニョは1000年以上前からこの地域の生活に大きな影響を与えていたことがわかっている。当時の人々は、実用的な技術や神々への祈祷によって、エルニーニョがもたらす影響と闘っていた。そのなかには、子どもを生贄にする儀式も含まれていたようだ。それもかつてない規模で。

 ペルーの考古学者で、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラー(探求者)でもあるガブリエル・プリエト氏は、2011年から、ペルー北部にあった泥レンガ造りの大都市、チャン・チャン周辺で発掘調査を行っている。チャン・チャンは、11世紀からインカに征服される1470年ごろまで、チムー王国の首都だった。

 この調査によって、1400年から1450年ごろに、250人以上の子どもたちが生贄となったことがわかっている。おそらく心臓を取り出すために、ほとんどの子どもは胸を切り裂かれ、リャマの子とともに簡素な布に包まれて埋葬されていた。

エルニーニョに悩まされたチムー王国

 チムーの生贄の子どもの大半は、ペルーの海岸近くの遺跡で発見された。そこには、エルニーニョが起きていたことを示す確かな証拠も残されていた。古代の乾いた泥の厚い層だ。

 泥の層の厚さから、大雨が降ったことがわかる。プリエト氏によると、乾燥した気候のペルー北部沿岸では、このような雨をもたらすのはエルニーニョ現象だけだという。そこに生贄が埋められていた。

 チャン・チャンは、綿密な灌漑システムと沿岸漁業によって人口を維持していた。しかし、エルニーニョが起き、海水温が上がって大雨が降ると、その仕組みがうまく機能しなくなる。つまり、大規模なエルニーニョ現象は、チムー王国の政治と経済の安定を揺るがした可能性があると考えられる。

 神官や指導者たちは、大雨と混乱を止めるため、最後の手段として、神々にたくさんの生贄を捧げるよう命じたのかもしれない。

「生贄は、超自然的な存在との慎重な交渉であり、コミュニケーションの形態です」と、米ジョージ・メイソン大学の人類学教授であるハーゲン・クラウス氏は話す。「つまり、チムー人たちにとっての宇宙との対話なのです」

「これほどの数の子どもと動物を捧げているのです。国にとって、非常に大きな投資だったにちがいありません」と、プリエト氏も述べる。

 子どもの歴史に詳しい米デポール大学の人類学教授ジェーン・エバ・バクスター氏は、チムー王国では、神々への捧げものとして、子どもたちは最も価値が高かった可能性があると話す。

「未来とすべての可能性を犠牲にするのです。子どもを失うことは、家族や社会を未来へつなぐために注いできたあらゆるエネルギーと努力を失うということなのです」

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残された足跡からわかること

 チムーの社会にとっては、神々をなだめてエルニーニョによる雨を止めることが、緊急の課題だったのかもしれない。ただし、たくさんの生贄を捧げるという行為自体は、周到に準備されたようだ。というのも、広大な王国のさまざまな地域から、健康な子どもたちが集められていたように見えるからだ。

 なぜ彼らが選ばれ、おそろしい運命を迎えなければならなかったのか。それを突きとめる研究は今も続いている。

 リャマの子も重要な資源で、国が所有する群れから選ばれていた。こちらも、年齢や毛の色を踏まえて、生贄として特別に選ばれたようだ。

 2011年から2018年にかけての発掘で子どもの生贄のほとんどを見つけたウアンチャキト=ラス・リャマスの遺跡で、プリエト氏と米テュレーン大学の自然人類学者であるジョン・ベラーノ氏は、さまざまな証拠や法医学的な手がかりをもとに、どのような順序でこの出来事が起きたのかを再現しようとしている。

 乾いた泥に残されていた足跡から、生贄を捧げた場所に向かって、儀式のような形で行進が行われたことがわかっている。小さな裸足の足跡や、無理矢理引っぱられた四つ足の動物の足跡があり、プリエト氏とベラーノ氏は、生贄たちが生きたまま埋葬場所に連れていかれ、そこで殺されたものと考えている。遺骸に虫がついていないのは、丁寧に布にくるまれ、リャマとともにすぐに埋葬されたからだ。

 では、この貴重な捧げものによって、大雨は収まったのだろうか。それを知る術はない。だが、この不穏なできごとは、滅びゆく王国の困難な時期をうかがい知る手段になるかもしれない。

「失うものが一番多い時期に、一番貴重なものを捧げているのです。当時のチムー王国の状況がよくわかります」とバクスター氏は話す。

現実的な災害対策も

 その後、プリエト氏は、チャン・チャンの北にある長さ10キロ以上の土の壁を調査した。この壁は防衛のために作られたと考えられてきたが、実際には、自然災害を防ぐものだったようだ。つまり、エルニーニョによる大雨の際に、東の山から流れてくる泥や水などを防ぐ盾だ。

 放射性炭素年代測定によると、この壁が作られたのは1450年より前で、1100年ごろに起きたらしい「天変地異級」のエルニーニョ後に建設が始まったようだ。壁の西側に広がる農地と用水路を守るのはもちろん、東側の部分も、肥料や建築資材として使える泥や堆積物を集める場所として活用していた可能性がある。

 チャン・チャンは世界遺産に登録されており、現在も考古学者たちによる作業が続いている。さらに発掘が進むにつれて、古代の人々が祈祷や現実的な対策を通して、エルニーニョがもたらす壊滅的な被害に対抗しようとした証拠が明らかになるかもしれない。

「チムーの人々は、神々を喜ばせて自分たちの力を誇示しながらも、現実的な技術をうまく活用して、人や設備、収穫物を守っていました」とプリエト氏は言う。「一方で、エルニーニョ現象が起きている間に、多面的な対応を同時に行っていたということになります。これはすばらしいことです」

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