2024/09/01 11:00 ウェザーニュース
9月1日は1923(大正12)年に発生し、大きな被害をもたらした関東大震災から101年が経ちます。
当時の東京府、神奈川県など関東地方7府県で計約10万5000人の死者・行方不明者が生じましたが、そのうち約3万8000人は東京市本所区(現・東京都墨田区)にあった旧陸軍被服廠(ひふくしょう)跡の約6ha(約2万坪)の狭い範囲で、「火災旋風(かさいせんぷう)」という現象により焼死したとされています。
火災旋風とはどのような現象で、なぜ1ヵ所に集中して多数の焼死者が生じたのか。また、火災旋風が起きた際の備え方などについて、総務省消防庁消防研究センター(東京都調布市)技術研究部 大規模火災研究室 主幹研究官の篠原雅彦さんに解説して頂きました。
関東大震災の発生は1923年9月1日午前11時58分。相模湾北部を震源とするマグニチュード(M)7.9、最大震度7と推定される大規模な地震で、内閣府の推計では死者10万5385人、全潰(全壊)・全焼・流出家屋は29万3387戸に及びました。
住宅の圧壊による死者は約1万1000人。また、現在の神奈川県小田原市根府川では大規模な土石流が発生し、東海道本線の列車が根府川駅から相模湾へ押し流されるなどして406人が死亡、64戸が埋没しました。震源が海底だったことから津波も発生し、静岡県熱海市で高さ12m、千葉県館山市で9mが観測されています。
関東大震災では、昼食時間帯の発生で煮炊きの火を使っていた家庭が多かったせいなどもあり、人的被害のほとんどが火災によるものでした。
「約10万5000人の死者・行方不明者のうち、9万2000人が火災による焼死者だったとされています。
そのうち旧東京市(15区)での焼死者は5万2000人。さらにそのうちの7割を超える3万8000人が、東京市の焼失面積の0.2%しかない陸軍被服廠の跡地を襲った火災旋風の影響で亡くなったと言われています」(篠原さん)
被服廠とは軍服や軍靴などを製造する旧帝国陸軍の工場で、関東大震災前年の1922(大正11)年に王子区(現・北区)へ移転し、東京市が公園として再利用するため、当時は敷地のほとんどが空き地になっていたそうです。現在の都立横網町公園や日本大学第一中学・高等学校周辺にあたります。
関東大震災の際、火災旋風は被服廠跡以外でも発生していたのでしょうか。
「東京市内で約110個、横浜市内で30個発生したという報告がなされています。
ただし、被服廠跡も含めて関東大震災時に発生した火災旋風の写真や映像は残されていないため、発生時の詳しい状況は被災者の証言から知るほかありません」(篠原さん)
なぜ、陸軍被服廠跡に被害者が集中したのでしょうか。
「地震の大きな揺れや火災によって、周辺から約4万人の被災者が避難してきました。2万坪の敷地に4万人ですから、1人あたりのスペースは畳1畳分ほどになり、人々が密集した状態になっていました。
しかも、被災した人々は家から畳やたんすなどの家財道具を持ち出し、大八車(木製の荷車)に積み上げて避難してきました。被服廠跡には多くの人々に加えて、大量の可燃物も持ち込まれていたことになります。
そこへ、火災による火の粉が降り注いできました。黒煙渦や竜巻、旋風などとする証言が多いのですが、火の粉が飛んできた前後に旋風がやってきて、家財道具や避難者の衣服に火が着きました。
この時の火災旋風は、直径約30m、高さ50〜200mに達し、あっという間に燃え広がった火によって、多くの焼死者が出てしまいました」(篠原さん)
火災旋風の発生時、被服廠跡の状況はどうだったのでしょうか。
「直接的な焼死者の他に、火災旋風が巻き起こす強風によって吹き飛ばされてきたトタンで首を切られたり、石垣に叩き付けられたりして亡くなった人もいたようです。これらの例は『風害』といえるかもしれません。
樹木の被害状況などを基に竜巻の強さを推定する『改良藤田スケール』という尺度では、被服廠跡内の樹木が腐って折れやすくなっていなかったとすれば、当時の風速は50〜60m/sにも達していたとみられます。
また、溝の中に入ったり飛ばされて入った人たちが重なり合って亡くなったり、熱さに耐えかねて西側を流れる隅田川に避難していた人たちが水死したり火の粉や火事からの熱で焼死したりしたという例も多数ありました。なお、被服廠跡での死亡原因は当時の警視庁の調べによれば、すべて『焼死』とされています」(篠原さん)
そもそも火災旋風は、どのようなメカニズムによって生じるのでしょうか。
「火災旋風とは火災が起きた際に、燃えている所や、そのまわりで発生する激しく回転する渦柱のことをいいます。英語では『Fire whirl』『Fire tornado』『Firenado』などと言われています。
この渦柱には『火柱』といえる炎を含んだ竜巻状のものと、炎を含まない竜巻状のものの2種類があります。
炎を含まないものは煙や灰、砂ぼこりを巻き込んで黒っぽい渦柱に見えることもあります。火災旋風は長距離を移動することがあり、関東大震災時の横浜市内では2時間以上かけて2.2km、アメリカでは4km以上移動したとの報告例があります。アメリカの例は写真が残っており、炎を含まない渦柱のように見えます。
火災旋風が発生するメカニズムにはわからない点も多いのですが、火災が発生すると上昇気流が生じることでまわりの空気が集まり、空気中の渦を巻こうとする性質も一ヵ所に集まってきて渦となって成長し、火災旋風が発生するとみられています」(篠原さん)
関東大震災の他にも、火災旋風の実例はあるのでしょうか。
「1934(昭和9)年の函館大火、1945年の東京大空襲や和歌山大空襲、広島の原爆投下、阪神淡路大震災でも報告例があります。インターネット上には海外の山火事で起きた火災旋風の映像がたくさんアップロードされています」(篠原さん)
関東大震災発生時の東京の気象は、麹町区(現・千代田区)にあった中央気象台で8m/s前後の南寄りの風が吹き、気温は30℃前後だったとされています。「火災旋風が発生しやすい気象条件」のようなものは、存在するのでしょうか。
「定量的には気象条件と火災旋風の発生との関係性は判明していません。ただ、強風下でも火災旋風が発生した記録はありますが、比較的風が弱い時に発生した記録の方が多いです」(篠原さん)
もちろん、市街地における延焼域拡大の速度は風速が増加するにつれて指数関数的に増大するように、火災旋風の風速が強いほど被害が拡大すると考えられます。
火災旋風が発生した際には、どのようにして自らの身を守ればいいのでしょうか。
「火災旋風が発生する前に大規模火災からは逃げるべきです。火災旋風の発生や接近の手がかりとして、空が暗くなる、激しい豪雨のような音が響く、などが被服廠跡での証言として残っています。
実験では、炎を含まない火災旋風は風下側に流されますが、風が弱い時には同じような場所にとどまって複雑な動きをします。もちろん自然界の風向きはいつでも変わりますし、火災旋風は周囲に火の粉を飛ばして新たな出火点を作ります。
特に、火災が大規模化するほど、風速の強い大きな火災旋風が発生する可能性が増えると考えられるため、被害が拡大します。そのため、大規模火災には近づかないことが肝心です。
それでも逃げられずに火災旋風に遭遇してしまったら、火災からの熱と火の粉、さらに火災旋風の強風で飛んでくる物からは、その辺にあるものを使って身を守る必要があると思います。
火災から遠くにいる時に炎を含まない火災旋風がやって来た時には、頑丈な建物、地下に避難する、そういう場所がなければ身を伏せて両腕で頭と首を守るというような竜巻の風対策が有用でしょう。ただし、地震や水害による危険性も考慮する必要があります。
もちろん、火災のほとんどは人間が作るものですので、出火させないことが何よりも重要です。日頃から『火は小さいうちに消す』ことを考えて消火器を常備しておくなど、いざという時に備えておく必要があります」(篠原さん)
関東大震災での東京市での出火地点は約130ヵ所だったとみられています。ところが、首都直下地震が発生した場合、東京都の想定では東京23区内で500ヵ所以上での出火が予想されているそうです。
関東大震災から101年。これを機に大地震による火災はもちろん、津波に伴う水害や、揺れそのものへの対応策を改めて見直し、実行できることから始めてみてはいかがでしょうか。
内閣府「2023年 関東大震災100年」(https://www.bousai.go.jp/kantou100/index.html)