全国的に盛り上がりを見せるコーヒーシーン。飲食店という枠を超え、さまざまなライフスタイルやカルチャーと溶け合っている。なかでも、エリアごとに独自の喫茶文化が根付く関西は、個性的なロースターやバリスタが新たなコーヒーカルチャーを生み出している。そんな関西で注目のショップを紹介する当連載。店主や店長たちが気になる店へと数珠つなぎで回を重ねていく。
関西編の第66回は、神戸市灘区の「六珈」。閑静な住宅街が広がる六甲駅前に立つ店は、看板もほとんどなし。簡素な建物は、うっかりすると素通りしてしまいそうになるが、目立たぬ店構えはひとえに、穏やかなくつろぎを保つため。中の見えない刷りガラスの扉は、日常から気持ちを切り離す一線でもある。まるで“時間の隙間”に入り込んだような店内は、ある時はにぎやかに話し声が行き交い、ある時は一人客ばかりで静かな時も。日々変わる店の表情に、飽きることはないという店主の松山さん。何でもない時間が醸し出す、心和む時間が心地よい。いまだに店の前で逡巡するお客の姿も少なくないが、扉を開ければ、得難い憩いの時間を約束してくれる。
Profile|松山直広 (まつやま・なおひろ)
1974年(昭和49年)、神戸市生まれ。百貨店勤務時代に、画家・焙煎人の中川ワニさんのコーヒー教室に偶然、参加したことでコーヒーの魅力に開眼。独学でハンドドリップの研究を重ね、退職後、資金調達のためのアルバイトを経て、2011年に神戸市灘区に「六珈」をオープン。開店後に手回しの器具で焙煎も始め、自家焙煎に切り替え。5年前から本格的に焙煎機を導入し、定番の2種のブレンドに加えて、新たに季節のブレンドも提案。
■六甲山麓の坂の途中にぽっかり空いた“時間の隙間”
六甲山へと続く坂道が、阪急六甲駅に差し掛かる手前。白壁に扉と窓が1つずつの、簡素な建物の前を通りがかる。店らしい設えはほとんどなく、刷りガラスに「六珈」の屋号、傍らに掛かった木の棒に“珈琲をどうぞ”と一言あるだけ。あまりのさりげなさに、うっかりすると通り過ぎてしまいそうになる。「ここを通る方でも、いまだに気付かない方もいます。始めた頃は、何屋かわからないと言われたり、美容室と間違われたり。扉を開けて、何も言わずに閉じて去る人もかなりいましたね」という店主の松山さん。しかし、ひとたび入れば、アンティークの調度がそこはかとない温かみを醸し出す、清々しく心和む雰囲気。静かなくつろぎの空間は、街なかにぽっかりと空いた“時間の隙間”に入り込んだような感覚になる。カウンターで淡々とお客を迎える松山さんもまた、店の一部として溶け込んでいるかのようだ。
以前、百貨店に勤めていた当時は、ほとんどコーヒーに関心がなかったという松山さんだが、知人に誘われて参加したコーヒー教室で、思わぬ出会いがあった。「何の気なしに付いていったのが、画家・焙煎人の中川ワニさんの教室で、この時、入れてもらったコーヒーがおいしくて。その後も機会があれば教室に行きました。直接、何かを教わったわけではないんですが、まずは自分でコーヒーを淹れることから始めて、そのうち、ハンドドリップで出されているお店を訪ねるようになりました」。中川ワニさんは、今も全国各地で教室を開く個人焙煎士のパイオニア的存在。当時は、折しもカフェブーム全盛期でもあり、「何となく、将来的に自分もできたらいいな、という思いはありました」と振り返る。
その後、漠然とした想像は膨らみ、形にするべく動き出した松山さん。会社を退職し、開業資金を貯めるためにアルバイトを始め、当時コーヒー店がほとんどなかった六甲界隈で、開業の目星をつけた。実は、今とは違う場所に決めかけていたが、「ガスの設備がなかったので、ここは候補として考えてなかったんです。ただ、改めて、浜手から坂を上ってきて、建物を見たときに、すっとここで店を構えるイメージができたんです」。内装は、自身の好みである喫茶店の雰囲気を取り入れて、自らラフを描き設計を依頼。まず頭に浮かんだのは、この大きなカウンターだったという。
■設計の誤算から生まれた印象的な抽出シーン
注文が通ると、トレーにセットした器具の前に腰かけ、じっとドリッパーを見すえて湯を注ぐ。店の中央を占める広々としたカウンターで、松山さんが抽出する姿は、一枚絵のようにしっくりと収まり、いまやこの店を象徴するひとコマとなっている。窓からの柔らかな光の効果も相まって、この一連の所作は、訪れるたびに思わず見入ってしまう。ことほど左様に印象的な抽出のシーンだが、実はちょっとした誤算から生まれたものだとか。「厨房の土間とフロアの床の高さが違っていて、立って抽出するにはカウンターが低すぎて、姿勢が苦しいから座って抽出するようになったんです。皆さん、注目してくださいますが、単に腰の負担の問題だけ」と苦笑する松山さん。とはいえ、結果的に、この店ならではの場面を作り出したのは、まさにケガの功名と言える。
日々供するコーヒーは、創業以来変わらず、2種のブレンドが店の顏。中川ワニさんやオオヤミノルさんらの影響もあり、深めの焙煎が味作りのベースにある。開店当初は、東灘区の成瀬珈琲豆店から、中煎りのマイルド。中深煎りのミディアムをオリジナルブレンドで仕入れていたが、3、4年たった頃に手回し焙煎機を導入。シングルオリジンの焙煎から始め、ブレンド作りに取り組み、自家焙煎に切り替え。5年前に現在の焙煎機を導入後も、濃いめ・かるめと呼び名こそ変わったが、ブレンドの二本柱は不動の定番だ。
「ブレンドは、成瀬さんから仕入れていた頃から、できるだけ変えないように心がけてきました。今の感覚ではかなり深煎りになりますが、尖った風味にならないギリギリの線を狙って、飲み飽きない味わいをイメージしています」と松山さん。ブレンドはそれぞれ配合は異なるが、いずれも土台となる豆はコロンビア。深煎りでありながら苦味よりも、甘みと酸味が調和したふっくらとまろやかな余韻が心地よい。飲み応えのあるボディ感を出すために、ドリッパーはコーノ式の中でも、初期タイプの名門ドリッパーを使用。また、抽出の過程も、濃いめはゆっくりと注ぐのに対し、かるめは最後にポットを上下させ速めに注湯することで、すっきりとした飲み口に仕上げる。
メニューはほぼコーヒーオンリーで、ケーキや軽食も最小限。それでも、ずらりと貼られたコーヒーチケットの数が、飽きの来ない味わいの何よりの証左。「お客さんは近所の方がほとんど。基本は界隈に住む人のためのお店なので、お客さんの顔ぶれもあまり変わらないですね」と、変わらぬ一杯は地元の厚い支持を得ている。
■カウンターの中から見える小さな日々の変化
実は、開業して売上が安定するまでの2年ほど、夜中にほかの仕事を掛け持ちして、朝仮眠をして店に立つ生活を続けたという松山さん。それでも、「看板は出さずに、“入ってきたい方は、入ってきてください”、というスタンスできました。というのも、ここはちょっと普段と違う時間を過ごす場所だよ、という線引きをするため。いったんそれまでの日常が切れることで、気持ちを切り替える時間を過ごして、“よし行くか”というような心持ちで店を出てもらいたい。自分もそういう場所がほしいという思いもあったので」。目立たぬ店構えは、いわば、誰かにとっての、しばしの穏やかな空白を保つための一線なのだ。
ただ、入りにくいからといって、店内が静まり返っているわけではない。「ある時は話し声がにぎやかな時もあるし、一人客ばかりで静かな時もあります。そういう時は不思議と似た感じのお客さんを呼ぶので、日によって、時間帯によって波があるのはおもしろい」。松山さんから話しかけることはほとんどないが、なかにはおしゃべりを目的に来るお客もいる。それでも、店の空気が保たれるのは、遠すぎず近すぎないカウンターの広さと、飄々とした松山さんの接客が生み出す、絶妙な距離感があってこそだ。
10年を超えてカウンターに立ち続けるが、日々見える客席の風景は、少しずつ変わっていく。「以前は、男性がお会計することが多かったですが、最近は女性が支払うことが増えていたりして(笑)。時代も変わっているなと感じます。また、2人で来ても会話がないということも増えていますね。隣にいるのにお互いスマホを見ていたりして。こっちから見ていると、そうじゃなくて、ここにいる時くらい“喫茶”してくれたらと思います。考えが古いかもしれませんが、“お茶しに行く”って、生活のことをちょっと置いといて、他愛もないことを話したり、ぼーっとしたりすることだと思うんです。それが目的でないなら、うちでなくてもよかったのではと思うことも」。一見、同じような佇まいの店も、中は意外に表情を変えている。その変化を感じるからこそ、飽きることはないという。
この店構えゆえに、コーヒー専門店と思われがちだが、「コーヒーに詳しい人が来てもあまり答えることなくて困ります(笑)。あくまで、お客に自分の時間を作ってもらう、そこにおいしいコーヒーが添えてあればいいという感覚なので」。この肩肘張らない大らかさが、地元のお客を引き付ける理由の一つだろう。創業時から通い続ける常連客曰く、「こういう場所が、この辺りになくなってしまったから、本当にありがたい。特に、午前中に来ると気持ちがいいのよね」。SNSで情報が得られる今でも、扉に手をかけて逡巡するお客の姿は少なくない。ちょっと勇気をもって扉を開ければ、得難い憩いの時間を約束してくれる。
■松山さんレコメンドのコーヒーショップは「tent-coffee」
次回、紹介するのは、神戸市兵庫区の「tent-coffee」。「市場の近くにある、テイクアウトがメインの小さなコーヒースタンドで、各地のイベントにも積極的に出店されています。店主の佐藤さんは、同業者というより友人の感覚で話せる、オープンなキャラクターが持ち味。コーヒーは中深煎りで味の傾向は同じですが、土鍋を使っての焙煎というのはほかにないので、実際にどうやっているのか、一度、見てみたいですね」(松山さん)。
【六珈のコーヒーデータ】
●焙煎機/ワイルドコーヒー 1キロ(直火式)
●抽出/ハンドドリップ(コーノ)
●焙煎度合い/中~中深煎り
●テイクアウト/ なし
●豆の販売/ブレンド3種、100グラム800円
取材・文/田中慶一
撮影/直江泰治
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