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西武鉄道の路線 なぜ込み入ってる? 125年前は「国分寺発本川越行き」だった

  • 2019年11月30日
  • 乗りものニュース

東京の西部で複雑な路線網を展開する西武線。元々は違う鉄道会社がそれぞれの線路を敷設し、ライバル関係にありました。実業家の堤 康次郎によって各社は吸収または合併され、現在の西武鉄道に至ります。

ルーツは国分寺〜本川越間

 関東の私鉄のなかでも込み入った路線網を持つ西武鉄道。複数の路線が接近して並行していたり、同じ場所を目指していたりと、他の路線では見られない複雑さがあります。

 それもそのはず、西武鉄道の路線網は元々、ライバル関係にあった複数の路線が合併を繰り返して成立したからです。西武の前身となった鉄道会社は長い期間、広いエリアで勢力争いを続けたため、より複雑な路線網になってしまったというわけです。

 西武鉄道で最古の歴史を持つ区間が、国分寺〜本川越間です。現在は国分寺〜東村山間は国分寺線、東村山〜本川越間は新宿線に分かれていますが、元々は1894(明治27)年に私鉄「川越鉄道」の路線として開業しました(全通は翌1895年)。ちなみに2019年3月のダイヤ改正までは、国分寺線に国分寺発本川越行きの列車が設定されていましたが、これは125年前の運転形態そのものだったことになります。

 川越鉄道を熱心に誘致したのは製茶・養蚕が盛んな入間地域の人々でした。この計画に小江戸・川越の人々が合流。川越から入間川を経由して南下し、国分寺で現在のJR中央線に接続する路線として開業しました。

かつては別会社でライバルだった新宿線と池袋線

 やがて鉄道の利便性が知られるようになると、江戸から明治時代にかけて林業や織物で繁栄した飯能の有力者たちが、東京に直通する鉄道を計画。1915(大正4)年、飯能から豊岡町(現・入間市)、所沢を経由して池袋に至る「武蔵野鉄道」が開業します。

 この結果、国分寺経由で遠回りの川越鉄道は、所沢と池袋を直結する武蔵野鉄道に乗客を奪われて経営が悪化し、川越〜大宮間の路面電車(1941年に廃止)を運行していた電気会社「武蔵水電」に買収されてしまいます。1922(大正11)年には、武蔵水電の鉄道部門が分離し、(旧)西武鉄道として独立しました。

 経営を立て直した(旧)西武鉄道は、武蔵野鉄道に対抗するため独自の東京直通線の建設に乗り出し、1927(昭和2)年に東村山と高田馬場を結ぶ村山線(現・新宿線)を開業しました。今ではダブルエースの池袋線と新宿線は当初、入間〜所沢〜東京間で長区間並走するライバル関係にあったのです。

実業家、堤 康次郎の存在

 もうひとつ、西武の路線図を複雑にしているのが、国分寺線とねじれるように並行して走る多摩湖線と、多摩湖線、西武園線、狭山線が集中する多摩湖・狭山湖一帯の存在です。西武遊園地、西武園、西武球場前という駅名からは、西武グループによる観光開発が行われた後に開業したようにも見えますが、これらはいずれも、東京の水源確保のために昭和初期に建設された人造湖である多摩湖(村山貯水池)・狭山湖(山口貯水池)に直通する観光路線として開業した路線です。つまりここにも、旧西武鉄道と武蔵野鉄道、そして第三極の多摩湖鉄道によるライバル関係が存在していました。

 激しいライバル争いに明け暮れた武蔵野鉄道と(旧)西武鉄道は最終的に、箱根や軽井沢の不動産開発で成功を収めていた実業家で、後の西武グループの創業者である堤 康次郎の支配下に収まりました。堤は自ら設立した多摩湖鉄道と武蔵野鉄道を合併させて武蔵野鉄道の経営を掌握すると、次いで(旧)西武鉄道の社長にも就任し、両社の合併を取りまとめました。現在の西武鉄道は、武蔵野鉄道を存続会社として、(旧)西武鉄道を吸収する形で成立しています。

 それでも西武鉄道という社名を継承した理由について堤 康次郎は、旧西武鉄道の社員に劣等感を与えず、両社出身者の融和を図るためだったと語っています。もしかすると、西武の路線図がスパゲッティのようにこんがらがって見えるのは、かつてのライバルたちが真に一体となった証なのかもしれません。

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