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MiG-25函館へ! 冷戦さなかの「ベレンコ中尉亡命事件」が日米ソにもたらしたものとは

  • 2018年9月6日
  • 乗りものニュース

その日、秘密のベールの向こうにあったソビエト連邦(当時)から、さまざまな機密てんこ盛りの1機が白昼堂々函館へ飛来、冷戦期の世界を大きく揺るがしました。「ベレンコ中尉亡命事件」の経緯と、その影響について解説します。

飛んできたのはソ連の最新鋭戦闘機!

 1976(昭和51)年9月6日の午後1時10分ごろ、航空自衛隊の地上に設置されたレーダー施設(レーダーサイト)が、ソビエト連邦(当時。以下ソ連)の沿海州方面から日本に向けて南下してくる飛行物体を捉えました。

 飛行物体はその後も南下を続け、日本の領空を侵犯するおそれがあったことから、航空自衛隊は千歳基地からF-4EJ「ファントムII」戦闘機を緊急発進させました。F-4EJは前年の1975(昭和50)年から緊急発進任務に就いたばかりの、当時の航空自衛隊にとっては最新鋭の戦闘機でしたが、搭載しているAPQ-120レーダーは、自機より低い高度を飛行する目標のルックダウン/シュートダウン(補足/攻撃)能力が低く、飛行物体が自機の下を低空飛行していたため、見失ってしまいました。

 それから約40分後の午後1時50分ごろ、正体不明の飛行物体は函館上空を3回旋回した後、管制官に一切連絡をすることなく函館空港に強行着陸しました。飛行物体から降りてきたパイロットは、その模様を撮影していた工事の現場監督と航空機マニアに対して、所持していた拳銃を威嚇のため空に向けて発砲。函館空港内には緊張が走りました。

 その後函館空港事務所から通報を受けた北海道警察が到着し、着陸した飛行物体に搭乗していたパイロットを取調べた結果、飛行物体の正体が判明するのですが、この「正体が判明したこと」で、日本中が大きな衝撃に包まれました。なぜならばその飛行物体のパイロットが、当時の日本が最大の脅威と位置付けていたソ連軍の現役軍人であるヴィクトル・ベレンコ中尉で、ベレンコ中尉が操縦していた飛行物体の正体が、ソ連本土の防空を担当する防空軍に所属する超音速戦闘機「MiG-25」だったからです。

それは機密のカタマリ ソ連軍が奪還に来る?

 MiG-25は1950年代後半に、当時アメリカが開発を進めていたB-58や実用化に至らなかったXB-70といった超音速爆撃機、また、一時期沖縄の嘉手納基地にも配備されていた時速マッハ3で飛行が可能な超音速偵察機SR-71などの、迎撃を目的に開発された戦闘機です。

 アメリカの超音速軍用機を迎撃するため、MiG-25は速度性能に重きを置いて開発されました。最高時速はマッハ2.83(3000km/h)に達しており、その後も最高時速でMiG-25を上回る実用戦闘機は現れていません。

 MiG-25は1967(昭和42)年にモスクワで開催された航空ショーで、西側諸国に初めてその存在が明らかにされました。インターネットが普及した現在では、ロシアや中国の最新鋭戦闘機の画像を見たり、情報を得たりすることはそれほど難しくありませんが、当時のソ連は極端な秘密主義を貫いていたため、西側諸国はほとんど情報を得ることができませんでした。

 このため当時のアメリカは断片的に得た情報からMiG-25の性能を過大評価しており、さらにMiG-25が本土防空を行なう迎撃機ではなく、前線で制空権を確保する戦術戦闘機なのではないかと誤解して、開発を進めていたF-15にMiG-25に対抗できるだけの、高い速度性能と運動性能を与えることを決めたとも言われています。

 アメリカを誤解させて、新戦闘機計画を左右するほど秘密のベールに包まれていたMiG-25が転がりこんできたことは、日本にとっても同盟国のアメリカにとっても、MiG-25の全貌を知る千載一遇のチャンスだったのですが、その反面、秘密のベールに包まれていた戦闘機であったが故に、ソ連が特殊部隊を函館空港に送り込んでMiG-25の奪還や、秘密保持のために破壊するのではないかという噂も流れました。このため陸上自衛隊は函館駐屯地祭用に用意していた61式戦車や、35mm2連装高射機関砲L90などを用意して、万が一の事態に備えたと言われています。

白日の下にさらされたMiG-25、そのとき米ソは?

 最終的に外交上の慣例で認められている、亡命に使用された航空機を日米が協力して検査する権利を行使した上で、ソ連に機体を返還することで話がまとまり、陸上自衛隊がソ連軍と衝突するという最悪の事態は避けられましたが、自衛隊は警戒をゆるめることなく、航空自衛隊はF-4EJ戦闘機で、函館空港から検査が行なわれた航空自衛隊百里基地までMiG-25を輸送したアメリカ空軍のC-5輸送機の護衛をおこないました。

 MiG-25の機体は1976年11月15日にソ連へ返還され、操縦していたベレンコ中尉は9月10日にアメリカへの亡命を果たして、MiG-25の亡命事件は終結したのですが、この事件はその後、関係国に様々な影響を与えることになりました。

 前にも述べたように、アメリカはMiG-25の能力を過大評価し、また戦術戦闘機であると誤解していました。ところが機体の詳細な検査を行った結果、使用されているエンジンが、燃費効率が良く航続距離を延ばせるターボファンエンジンではなく、F-4EJなどと同じターボジェットエンジンであることや、運動性に重きを置いた設計になっていないことなどが判明。これらから、MiG-25が戦術戦闘機ではなく、迎撃戦闘機であることを確認し、少なくとも東西両陣営が衝突した際にも、MiG-25が制空権を確保する戦いでは脅威とならないことを確認して、胸をなでおろしたと言われています。

 日米両国の検査によって、自国の防空システムの実体が露呈したと考えたソ連は、MiG-25の搭載レーダーや関連システムを一新するために多額の資金を投じざるを得なくなったほか、軍人やその家族に対する待遇の悪さが、ベレンコ中尉の亡命の原因のひとつとなったことから、ソ連軍は軍人の待遇改善も迫られることとなりました。

事件がもたらした日本の防衛体制の見直し

 日本では事件後、航空自衛隊がMiG-25を一時的に見失ったことが問題となり、その結果、当時機種選定が進められていた新戦闘機には、当時としては最高レベルのルックダウン/シュートダウン能力を持つ、AN/APG-63レーダーを搭載するF-15が選ばれました。また、当初は高額で導入機数が少なく見積もられていたF-15を補完するため、F-4EJに大幅な近代化改修をおこなう計画でも、ルックダウン/シュートダウン能力の強化が盛り込まれ、改修を受けたF-4EJ改には、APQ-120よりも大幅にルックダウン/シュートダウン能力が改善されたAN/APG-66Jレーダーが搭載されることとなりました。

 航空自衛隊はMiG-25亡命事件の発生以前から、地上のレーダーでは発見しにくい低空を飛行する目標を探知できる早期警戒機の導入を検討していましたが、予算不足で実現していませんでした。しかしMiG-25亡命事件により、早期警戒機を導入する予算を獲得できる目処が立ったことから、亡命事件から3年後の1979(昭和54)年に「E-2C」早期警戒機の導入を決定。1983(昭和58)年から運用を開始して、現在に至っています。

 亡命事件により日本、アメリカ、ソ連に様々な影響を与えたMiG-25ですが、2018年現在、ロシアでは改良型のMiG-31に後を譲って退役。またソ連崩壊時にMiG-25を分配されたウクライナやベラルーシ、輸出されたイラクやインドなどでも退役していますが、アルジェリアやシリア、リビアでは、ごく少数の機体が運用されているようです。

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