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東急田園都市線 幻の「蛇崩川ルート」とは 桜新町〜用賀で「大回り」になった事情

  • 2022年3月8日
  • 乗りものニュース

東急田園都市線の渋谷〜二子玉川は1977(昭和52)年に開通した比較的新しい区間です。ところで、なぜ桜新町〜用賀周辺では、国道246号から外れて大回りしているのでしょうか。

「新玉川線」として新たに作られた渋谷〜二子玉川間

 東急田園都市線は渋谷駅を出発すると、国道246号「玉川通り」と首都高速渋谷線の真下を通っています。玉川通りに沿って、そのまま二子玉川まで行くのかと思いきや、実は駒沢大学駅を過ぎて700mほどの新町一丁目交差点直下で急に向きを変え、住宅地内の道路の下に入り、桜新町駅、用賀駅と続いています。

 なぜこのような「迂回」ともいえるルートになったのでしょうか。実は、このルートに決定されるまで、田園都市線の渋谷〜二子玉川間は様々なルートが検討され、紆余曲折を経ていたのです。

 田園都市線のこの区間がかつて「新玉川線」と呼ばれ、さらに昔は地上を路面電車が走っていたと記憶している人も多いことでしょう。整理すると、渋谷〜桜新町〜二子玉川(当時は二子玉川園)の地上を走っていた路面電車・東急玉川線は1969(昭和44)年に廃止。代わって地下を走る「新玉川線」が1977(昭和52)年に開通し、今に至ります。新玉川線の名称がなくなり、「田園都市線」に統一されたのは、2000(平成12)年のことです。

 さて、路面電車の玉川線は1907(明治40)年の開通から半世紀がすぎ、街の発展とともに容量オーバーとなっていました。そこで東急は1956(昭和31)年、渋谷〜二子玉川に鉄道新線を計画し、鉄道敷設免許を申請します。一方ほぼ同時に、都市交通審議会は答申で、地下鉄を主とした東京都市高速鉄道5路線を決定。そこで銀座線の二子玉川延伸が明記され、東急の新線と直通運転することで一体化が図られたのです。ちなみに半蔵門線の構想は、この時点ではまだ存在していませんでした。

 東急の新線、その当初申請時のルートは、国道246号(当時は都道)のさらに南側を経由して、渋谷〜二子玉川をほぼ一直線で結び、地形の凹凸をトンネルや高架で一気に抜けていくものでした。具体的には、深い谷間にある渋谷駅は高架とし、切り立った台地をトンネルで抜け、大橋〜桜新町は高架、そこからは盛土、となっていたようです。

 しかし、その当初ルートはあっさり断念されます。理由は2つ、ルート上の地域が想定以上に急速に発展し、用地取得が困難となっていたこと。もう一つは、銀座線との直通運転に伴い、車庫の用地が二子玉川周辺で新たに必要となったことです。

東急が新提案した「蛇崩川ルート」とは

 新たなルート選定にあたっては、免許の段階で、運輸審議会から意見が入りました。それは、「国道246号が拡幅される見通しなので、もし間に合うなら、渋谷〜三軒茶屋はこの道路の地下に通すべし」という内容でした。

 それから半年後の1959(昭和34)年7月。東急は具体的なルート、いわゆる「蛇崩川ルート」を設計します。そのルートは、渋谷駅から銀座線を延伸し、トンネルに入り、大橋でいったん地上に。そのあと三軒茶屋まで国道246号の地下を通過。そこからは現在のルートとは大きく異なり、弦巻通りに沿って流れる蛇崩川の上を高架で西進、用賀中町通り付近で玉川線と合流する、というものです。

 地形の凹凸に合わせ、高架の途中には2か所のトンネルが設けられる計画でした。アップダウンを極力少なくして高速運転を図り、なるべく河川敷を利用して用地買収をスムーズに進め、さらに用賀の社有地に車庫を設置できるルートでした。

 途中駅は大橋・池尻・三軒茶屋・上馬・弦巻・用賀・瀬田の7つが考えられ、池尻・三軒茶屋・瀬田の3駅がトンネル内で、その他は高架駅となっていました。

 さて、この設計を手に、あとは工事施工認可を受けるのみです。しかしそれに先だつ地元説明では、「一刻も早く新線を完成させてほしい。だが、全線を地下にしてほしい。国道246号の地下に建設できないのか」という意見が噴出し、調整は難航します。

 東急は、「地元の意見(全線地下化)は尊重する。ただ、肝心の国道246号の工事がいつになるかわからないので、同時に工事するための計画が立てられない。もたもたしていると施工認可申請の期限が切れてしまう」という状況でした。

「オリンピック道路」の段取りに翻弄

 1961(昭和36)年8月、ひとまず「蛇崩川ルート」に「地元と調整する」という補足付きで、施工認可が下りましたが、国道246号の拡幅工事は既に着工し、どんどん進行している状況でした。オリンピックを3年後に控え、駒沢公園のオリンピック会場までの輸送路として、必ず間に合わせる必要があったからです。

 まず、駒沢〜瀬田の「バイパス区間」は、既に拡幅工事が完了。この地下に鉄道を通すのは現実的ではなくなりました。さらに用地買収の遅れなどで道路工事のスケジュールに余裕がほとんど無い状態となっており、「蛇崩川ルート」で道路工事と同時施工を行うのはほぼ絶望的になってしまいます。

 このため、地元要望と都の意向を完全に受け入れる形で、「渋谷〜三軒茶屋〜駒沢は全線地下で国道246号の真下を走り、その先は地下線工事ができないため、国道246号から外れて、旧道を迂回する」という現在のルートに最終決定となりました。

 その後、国道246号の上空に首都高渋谷線が建設されることになり、新玉川線はこれと一体で工事が行われることとなりました。そうして東京オリンピックから13年後の1977(昭和52)年、悲願の新線はついに開通を迎えるのです。

 玉川線時代を知る人にとっては、新玉川線(田園都市線)は、「単に路面電車を地下化した」と思えるかもしれません。しかしその裏では、オリンピック前の開発ラッシュのなか、さまざまな紆余曲折を経てルートが決定されていたのです。

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