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なぜ? 空軍なのに戦車で地上戦ばかり でも恐ろしく強かったドイツの超エリート軍団とは

  • 2021年8月29日
  • 乗りものニュース

第2次世界大戦中のドイツ屈指のエリート部隊として知られるヘルマン・ゲーリング軍団。この部隊は空軍所属ながら飛行機を持たず、なぜか戦車で戦った不思議な軍団です。どうしてそうなったのか見てみます。

空軍元帥の名を冠した歩兵部隊の誕生

 第2次世界大戦時、ドイツ軍エリート部隊のひとつとして、勇敢に戦ったことで知られる「ヘルマン・ゲーリング」師団(最後は軍団)。戦車まで配備された地上部隊ながら、実は陸軍ではなく空軍に所属するという一風変わった部隊でした。なぜ、空軍所属なのに空を飛ばず、戦車や機関銃などで地べたを這って戦ったのか、奇妙なエリート部隊の足跡をたどります。

 そもそも、部隊名の「ヘルマン・ゲーリング」とは、ヒトラー政権時に航空大臣や空軍総司令官などを務めたゲーリング元帥、その人です。彼は第1次世界大戦ではドイツのエースパイロットで、ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が結成されると、早くに加入して主要メンバーとなりました。そして、1933(昭和8)年2月にプロイセン州の内務大臣(州警察のトップ)へ就任すると、その直後にプロイセン州警察組織のなかに兵員約400名からなる特殊部隊を創設します。

 1935(昭和10)年11月、ゲーリングが空軍大臣に就任すると、この特殊部隊も彼の直接指揮下となり空軍に編入、規模を拡大し、将兵3000名からなるゲネラル・ゲーリング連隊へと姿を変えます。その主な任務は、空軍司令部のあるゲーリング邸および彼の別荘の警備やベルリンの防空、式典での空軍の儀礼などでしたが、次第に兵員を増やし、高射砲大隊も新設されるほどになっていきました。

 1939(昭和14)年9月に第2次世界大戦が勃発すると、ゲネラル・ゲーリング連隊はドイツ陸軍の地上部隊と同様、ポーランド戦やノルウェー戦、フランス戦へ参加。1941(昭和16)年6月22日に対ソ戦「バルバロッサ」作戦が始まると、今度は空軍の対空砲部隊の一員として、第2高射砲軍団の傘下でソ連軍相手に戦うようになりました。

 特に連隊が保有する8.8cm高射砲は、その破壊力の高さから、対地攻撃でも威力を発揮、6月29日には第2高射砲大隊が街道に立ち塞がるソ連のKV-2重戦車を仕留めています。

北アフリカで消滅 でもエリートゆえに再生

 ゲネラル・ゲーリング連隊はその後も継続して戦闘を続けましたが、12月には兵員や機材を大きく消耗したことから本国に帰還しました。しかし、その間の戦果は、航空機161機、戦車324両、コンクリートバンカー45基、各種砲167門、機銃陣地530か所、捕虜1万1000名という凄まじいものでした。

 このような大きな戦果を上げたからか、部隊は成長し続けます。1942(昭和17)年3月のヘルマン・ゲーリング自動車化連隊への改編を経て、7月にはヘルマン・ゲーリング旅団に拡充。それまでの防御主体の対空砲部隊から、攻撃主体の機械化された装甲部隊へと姿を変えました。

 1942(昭和17)年10月には、より規模の大きな師団へと変貌。この拡充では空軍所属のパイロットや整備員など含め、志願者5000名が陸戦兵へと再配置され、また陸軍からも多くの戦車部隊将兵が空軍へと移管されています。そうしたことにより、ヘルマン・ゲーリング師団はIII号戦車やIV号戦車といった陸軍戦車部隊と同格の国産戦車を数多く配備するまでに至りました。

 結果、指揮下には1個戦車連隊と2個てき弾兵連隊(機械化歩兵連隊)、1個砲兵連隊、そのほか各種の支援大隊を有するほどとなり、同時期のドイツ陸軍の装甲(戦車)師団にも遜色ない規模にまで巨大化したのです。

 こうして、わずか1年ほどで規模を急拡大させたヘルマン・ゲーリング師団は、劣勢に陥っていた北アフリカ戦線に増援として派遣されました。しかし派遣された北アフリカでは奮戦かなわず、ほかのドイツおよびイタリアのアフリカ派遣部隊(アフリカ軍集団)とともに、チュニジアでアメリカ・イギリス連合軍に包囲され、1943(昭和18)年5月12日に降伏。経験豊かな兵員や機材のほとんどを一挙に失う事態に陥ります。そこで、オランダにて訓練中だった予備兵力が急遽イタリアへ送られ、再び戦車や突撃砲を補充して、ヘルマン・ゲーリング装甲師団として再編されました。

空から降下できない戦車装備の空軍部隊

 同師団はシチリア島やイタリア本土の苛烈な防衛戦に従事した後、11月に休養で戦場を離れて今度はヘルマン・ゲーリング降下装甲師団として再編成されます。ただし“降下”が付いても戦車が落下傘で降りて来る訳ではなく、あくまでもプロパガンダを目的とした名称でした。

 1944(昭和19)年夏、イタリアからロシア戦線へと派遣されたヘルマン・ゲーリング降下装甲師団は、8月5日には降下装甲戦車連隊第9中隊の突撃砲(自走砲の一種)が24時間で36両の敵戦車を撃破してソ連赤軍を跳ね返しています。この頃、装甲師団と装甲てき弾兵師団からなる軍団規模への拡充命令がくだり、士気旺盛な若い志願兵が再び集められてヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団として戦闘を継続しながら改編。さらに当時最新のV号「パンター」戦車も装備するまでになりました。

 このパンター戦車は、長砲身の70口径7.5cm戦車砲や、弾をはじく能力に優れた傾斜装甲を装備した攻守のバランスが取れた中戦車でした。ちなみに、怒濤のごとく押し寄せるソ連軍戦車に対抗するため、さらに強力なVI号「ティーガーI」重戦車の配備もヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団では検討されたといいます。しかし戦局の悪化により、空軍トップのゲーリング国家元帥が意欲的であったものの計画は行き詰まり、結局「ティーガーI」重戦車は装備されることなく終わっています。

 軍団は1944(昭和19)年10月、ロシア戦線北部のオストプロイセンでソ連軍の総攻撃を迎え撃ち、パンター戦車を装備するヘルマン・ゲーリング降下装甲戦車連隊第1大隊は4日間の戦闘で敵戦車99両、対戦車砲43門を撃破。なかでもボヴィッツ曹長が指揮するパンター戦車は、数時間で13両ものソ連戦車を撃破しています。このような勇戦により、ドイツ軍は、一時的ながらソ連軍の進撃を遅らせています。

わずか20分で2.5倍の敵を撃破 でも大勢は変わらず

 1945(昭和20)年1月13日、ソ連軍の冬季攻勢が開始されると、圧倒的な戦力差からドイツ軍は退却を余儀なくされます。ただ、そのなかでもヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団の将兵に関しては、その強さゆえに、ソ連軍内部で賞金が掛けられるほどでした。

 なお4月19日には、ドイツ軍の退却戦において軍団はしんがりを務め、「パンター」戦車17両で敵を待ち伏せし、わずか20分の戦闘で敵ソ連戦車43両を撃破したと伝えられます。その後も劣勢の中で空軍所属の地上兵たちは最期まで敵に対して牙をむき続けました。

 こうして第2次世界大戦の最期、5月2日のベルリン攻防戦まで戦い続けたヘルマン・ゲーリング降下装甲軍団でしたが、ソ連軍の捕虜となった将兵たちは、空軍トップの国家元帥の名を冠した部隊名と、エリート部隊ゆえの立場から、一般部隊の将兵と比べ、より苛酷な強制労働や禁固刑に処せられたといいます。

 しかし、このような輝かしい戦歴から、ドイツ陸軍のエリート部隊「グロース・ドイッチュラント(大ドイツ)」師団や武装親衛隊(いわゆるSS)の「親衛旗アドルフ・ヒトラー(LAH)」師団と並んでドイツ軍が誇るエリート部隊として、歴史に名を刻んでいます。

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