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零戦エンジンとスワローズファンを運んだ引込線 壮絶な過去と廃線のワケ

  • 2020年11月10日
  • 乗りものニュース

武蔵境駅から、かつて北へ延びる線路がありました。旧中島飛行機の武蔵製作所へ向かう引込線です。戦中、主に兵器輸送を担った同線は戦後、野球ファンを輸送したことも。現在は廃線ですが、どのような経緯をたどったのでしょうか。

時代によって運ぶものが変わった 旧中島飛行機武蔵製作所引込線

 JR中央線の武蔵境駅(東京都武蔵野市)から、かつて北へと分岐していく線路がありました。総延長約2kmの旧中島飛行機武蔵製作所引込線です。この路線は、国内に数多くあった軍用線の中でも、特筆すべき歴史を持っています。とりわけ興味深いのは、そこを走る列車が運んだものが、時代によって劇的に変わったことです。

 太平洋戦争中は日本陸軍・海軍戦闘機のエンジン部品などを、終戦後は進駐した米軍の軍用物資やプロ野球の観客(とくにヤクルトスワローズの前身、国鉄スワローズのファン)を、それぞれ輸送していました。現在は、線路跡がほとんど遊歩道や公園になり、子どもを遊ばせるママ友たちや、思い思いに散策する人が行き交っています。

 この路線が軍用線だった時代から見てみましょう。戦前と戦中、日本の本土には数多くの軍用線がありました。軍用線とは正式な定義はないのですが、主に軍隊や兵器輸送のために敷かれた専用線のことです。陸海軍の工場(兵器廠、工廠)、弾薬庫、飛行場などへ、国鉄・私鉄の線路から引込線などとして敷かれました。また、民間の軍需工場への専用線も軍用線と呼ばれています。

 旧中島飛行機武蔵製作所引込線は、1943(昭和18)年の建設です。武蔵境駅から玉川上水付近までは、途中にある境浄水場への引込線を利用して線路が敷かれました。中島飛行機は、陸軍の戦闘機「隼」のほか、海軍の戦闘機「零戦」(三菱重工業からのライセンス生産)など多数の軍用機を生産し、三菱重工業と並んで二大航空機メーカーの一つでした。

半年足らずで11回の爆撃 来襲したB29は延べ1000機以上 なぜここまで?

 武蔵製作所は、1938(昭和13)年に生産を開始し、戦時中には現在の都立武蔵野中央公園から武蔵野市役所にかけて、東京ドーム12個分という広大な敷地を擁して、軍用機のエンジンを生産していました。最盛期にはここで約4万人が働いていたとされます。

 また、同製作所よりさらに北、現在の西東京市ひばりが丘団地一帯には中島航空金属の工場があり、この二つの工場を結ぶ簡易軌道が敷かれ、部品などが運搬されていたようです。こちらは現在、軌道跡だと認識しやすい箇所はほとんどありません。

 当時国内で一般に発行された地図には、この簡易軌道は一切記されておらず、戦後は忘れ去られルートが特定できなかったのですが、終戦前後に米軍が作成した地図にその軌道が記されており、現在は詳細なルートが判明しています。

 中島飛行機武蔵製作所引込線に話を戻すと、米軍がB29爆撃機を用いて本格的な日本本土空襲を行うようになった時、最初に攻撃する地として選んだのが同製作所でした。米軍は、同製作所がひと月に1500の航空発動機を生産していると見積もり、それは日本の航空発動機生産の38%を占めるとして、攻撃の最重要地点に据えたのです。

 さらに同製作所が特異なのは、1944(昭和19)年11月24日の初の本格的日本本土空襲から翌1945(昭和20)年4月12日まで、計11回も爆撃されたことです。来襲した爆撃機数は延べ1000機を超え、毎回数百トン以上の爆弾が一帯に投下されています。何度も空襲されたのは、最初の数回は高射砲が届きにくい高度8000m以上からの爆撃であり、同製作所からそれて着弾したものが多かったためです。

武蔵製作所は野球場に 引込線跡を活用し三鷹駅から旅客路線も

 戦後、武蔵製作所の敷地は西側半分が米軍の接収となり、1954(昭和29)年に米軍将校とその家族の宿舎であるグリーンパークとなりました。東側半分には1951(昭和26)年、東京スタジアムグリーンパーク野球場(武蔵野競技場)が建設され、主にプロ野球国鉄スワローズの主催試合が行われました。こけら落としにはプロ入り2年目の金田正一投手が先発しています。

 野球場開設にあたり、国鉄はスタジアム前に武蔵野競技場前駅を開設しました。かつての軍用線を利用しながら、中央線とは三鷹駅(東京都三鷹市)でつながるように線路を伸ばし、野球開催日には東京駅から武蔵野競技場前駅までの直通列車も走らせています。

 しかし観客不入りの日が多く、プロ野球開催は初年限りとなり、線路は1959(昭和34)年に廃止となります。

 現在、線路跡は多くが緑道となり、三鷹駅からの分岐付近は堀合遊歩道、武蔵境駅からの分岐付近は本村公園、その先はグリーンパーク緑地と名付けられ、武蔵製作所のあった都立武蔵野中央公園まで続いています。

 途中、玉川上水を渡る「ぎんなん橋」では、橋上にモニュメントとして線路が敷かれ、当時のコンクリート橋台も一部残っています。その先600mほど北に進むと、関前公園の中、緑道の傍らに関前高射砲陣地跡の案内板が立っています。付近にはかつて6門の高射砲が置かれていました。

 廃線跡の緑道は、歩きながら戦中戦後の歴史に思いを馳せることができる散策路です。

※一部修正しました(11月11日20時10分)。

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