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伊那谷楽園紀行(14)どこにでも面白い人はいると信じて

  • 2018年7月9日
  • THE PAGE

 2017年の冬からの企画展「大昆蟲食博」は、口コミから広がり、会期末になるとメディアの取材が相次いだ。これは、捧が説明パネルをつくるために数日徹夜を強いられたのを除けば、あまり予算のかからない企画だった。

 買ったのは、展示する「ざざ虫の佃煮」など幾つかの食べ物くらい。この連載で以前にも書いたが、ざざ虫の佃煮というのは、珍味であり貴重品。小瓶になったものが1000円を超える値段で売られている。それでも、展示品としては驚くほどに安い。とりわけ、来場者から評価が高かったのは、展示のやり方。捧は大皿にざざ虫やイナゴを並べ、そこに茶碗や箸も置いた。食卓をイメージした展示は、昆虫というものが決して、怖い物見たさのゲテモノ食いではないことを、来場者の心に語りかけた。

「伊那市創造館が初めてのものだから……縛られるルールもなくて……自由にできる」

 地域の誇る建物を用いて、どのような施設ができるのだろうか。伊那市の人々は、それが気がかりだった。でも、いざ開館してみれば次々と面白い展示がやってくる。年を追う毎に来館者もジワジワと増えている。

「こんなことをやっていいのか……そう思ったこともないことはない……でも、伊那市を面白くするためならいいじゃないか……」

 伊那市が面白くなり、自分も楽しめるなら、そんなに嬉しいことはない。だから「こんなことをやりませんか」と誘われれば、迷うことなく参加する。

 駒ヶ根市の劇団から舞台に立たないかと誘われたら、仕事の合間を縫って稽古に参加し舞台に立つ。長野県で活躍する「信州プロレス」が伊那市にやってくる時には、蝶ネクタイ姿でリングアナを務める。

 伊那市創造館の3階にある講堂も、もっと活用しようと考えて「創造館自主制作映画祭」も始めた。これもまた、常識でイメージされる映画祭とは違う。5分以内のショートムービー、または15分までの中編。伊那に関するものがワンカットでも入っているのがルールとハードルは低い。どうなるものかと、開催してみたのが1年目。2年目になると「これなら、自分でもできる」と考えたのか、それまで映像を制作した経験の無かった人が創作欲を喚起されてつくった作品を持ってくるようになった。

「どこにいっても、面白い人はいるし、面白いものはあるのだ……」

 何年経っても、寒さには慣れることはない。でも、伊那は自分にとってちょうどよい街だったのだと、捧は思っている。

 都会とは違う伊那の独特の文化。それに驚きながらも、喜びと探究心をどんどん燃やす捧に、伊那はぴったりの街だったのだろう。

 まだ、伊那に来て何日も経っていない頃。

 伊那の勘太郎どころか、高遠まんじゅうも知らなかった捧は、駅前にあるローメンが美味いことで有名な「うしお」に案内された。

 案内してくれた人は、メニューを見ることもなく「ローメンの超」を注文した。しばらくすると、キャベツや肉が混じった茶色い麺料理が運ばれてきた。

「なんだ、このギトギトとした焼きそばは……」

 浅く大きな器には、いったい何玉の麺が盛られているのか。おそるおそる一口啜ろうとして、止められた。

「ローメンというのは、ほら、こう自分で味を調節して食べるものなんだ」

 あたりを見回すと、ローメンを注文した人は、それぞれにテーブルの上に置かれたいくつかの調味料を振りかけていた。七味をバサバサとかける人。酢やラー油をかける人。少しずつ、それらの調味料をかけて食べてみた。隣の人が「からしマヨネーズを下さい」というのを聞いて、自分も頼んでみた。3分の2ぐらい食べたところで「ここのは、カレー粉が美味い」といわれ、それもかけた。なんだか不思議な味。けっして一口目から美味いというわけではないけれど、なにか泥臭い懐かしさのある味だった。

 翌日になると、ふっとした瞬間にその味を思い出すようになった。その日のうちに、再びのれんをくぐった。伊那には、何店ものローメンを出す店があると聞いて、食べあるいた。それぞれに味は違った。最初に食べた「うしお」のローメンは焼きそばのようだった。

 でも、最初にローメンを開発した「萬里」にいくと、ラーメン鉢にスープに浸かった麺が出てきた。その不定形の魅力を知った時、捧は伊那に来ることができてよかったと幸せを感じた。

 それから、瞬く間に時間は過ぎた。毎日、伊那市創造館の事務室で、企画展の準備をしたり、市民が利用できる学習室に集まって勉強する中高生の様子をみたり。小さな修繕をしているだけではすまなくなってきた。伊那市は、一年契約の館長から、文化振興課の課長というポストを捧のために準備してくれた。それは、捧の功績のために用意されたせめてもの栄職の椅子だった。

 でも、伊那市創造館だけを守っているわけにはいかず、仕事は忙しくなった。いくつかの文化施設の責任も背負わなくてはならないから、時にはクレーム対応に追われることもある。「でも、現場でやくざものと渡り合ったことを考えれば、どうということはない……」

 時々、ふと考える。

 あの時、温泉に入りたいと思わなかったら。高遠「さくらの湯」が見つけられなかったら。休憩室で『長野日報』を手に取ることがなかったら……。

 もう、会社も続かなくてなにか別の仕事で、ただ生活に追われていただけではないか。汗だくになって稼いでも、会社は回らず、銀行から受けた融資の返済ばかりを考えていた時、人生の先のことは考えることもできなかった。かつての青春時代のことを振り返り、後悔を重ねることもあった。

 でも、伊那に住む今は、未来を考えることができる。

 あと、何年、この仕事をできるのだろう。

 決してバラ色の未来が待っているわけでないとしても、伊那に住むからには長生きしなければならない。貯金も乏しくとも、それが気にならない満足感が、ここにはあるのだから。

「ただ、冬の寒さだけはまだ慣れない……」

 それでも、伊那からは離れがたい。

(この章、終わり)

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