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エネルギー小国日本の選択(8)石油危機、エネルギーに対する意識の高まり

  • 2017年10月12日
  • THE PAGE

 原子力が本格活用され始めた1970年代、日本最大のエネルギー源は火力発電にもガソリンにも使われる石油だった。ところが大油田の多い中東での戦争をきっかけに石油の値段が急騰し、世界は大混乱に見舞われる。資源に乏しい日本は輸入原油、特に中東産に頼ってきたため、企業も家庭も大打撃を受けた。石油の供給源を失った太平洋戦争の悪夢がよみがえった。

 ただ、危機を教訓に変え、エネルギー源の多様化や省エネの推進に生かすしたたかさも持っていた。戦後、右肩上がりで成長し、大量購入、大量消費をしてきた時代で1度立ち止まり、1つのエネルギーに偏ることの危うさをあらためて学んだ。

 石油への過度な依存が見直され中、望ましいエネルギー源の在り方をめぐる議論が巻き起こった時代を見ていく。

トイレットペーパーが消えた

 「本日は終了致しました」。トイレットペーパーの品切れを知らせる案内板が各地のスーパーや薬局に掲げられた。1973年、石油危機による出来事だ。買い占めや売り渋りも起き、トイレットペーパーは品薄となり、値上がりした。数量限定で販売する店などには連日買い求める主婦らが大行列をつくった。

 なぜそんなことが起こったのだろうか。背景にあったのは1973年に起きた第4次中東戦争だ。その直後、石油輸出国機構(OPEC)加盟6カ国が、産油国に対する開発利権料などを基に算定される「原油公示価格」を約70%引き上げると急遽発表。以降、OPECは原油の減産や更なる値上げといった措置を打ち出し、世界中が供給不安に包まれた。石油製品でないトイレットペーパーまでもが急騰する異常事態を呈した日本では、続いてきた高度経済成長に急ブレーキが掛かる形となった。

OPECの台頭

 中東戦争は、中東諸国と先進国を中心とする諸外国の間で、利害や宗教史観が複雑に絡み合って起こってきた。歴史は第1次世界大戦前に遡る。中東の大油田は欧米の国際石油資本(メジャー)が開発を主導し、産油国の取り分は限られていた。

 第2次世界大戦前後から、そうした不平等な関係や植民地支配からの脱却、独立を目指す気運が世界中で高まっていた。国家や民族のナショナリズムが高揚していた時代で、1945年3月にサウジアラビアやエジプト、イラク、シリアなど7つのアラブ諸国から成るアラブ連盟ができた。アラブ世界の団結や、イスラエルとの正常な国交の模索などが目的だ。

 1947年に国連でパレスチナ分割が決議され、1948年にイスラエルが建国を宣言、アラブ諸国はイスラエルとの戦闘に入った。第1次中東戦争である。以降、両者間では争いが絶えず、1973年まで4度にわたる大きな戦争が起きている。

 パレスチナ解放機構(PLO)設立と並んで、アラブ連盟が後押しした大きな動きにOPECの結成があった。

 契機となったのは1959年にメジャーが発表した石油公示価格引き下げ措置だ。これは産油国の了解無しになされたため、猛反発したアラブ諸国は最初のアラブ石油会議を開いて対応を協議した。会議にはアラブではないイランや南米のベネズエラも参加し、産油国同士の結束が強まった。

 協調体制が整い、1960年にOPECが発足した。原加盟国はサウジアラビア、イラク、クウェート、イラン、ベネズエラの5カ国だ。現在は13カ国まで加盟国が広がり、世界の石油市場や各国のエネルギー政策に依然、大きな影響を及ぼしている。

 またOPECの補完組織として、サウジ、クウェート、リビアが1968年に発足させたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)もある。第4次中東戦争はイスラエルの優勢で1カ月とたたずに1973年10月に終わったが、OAPECはイスラエルと友好的な国への供給削減を決定した。OPECも同調したことで、国際石油価格は3カ月ほどで約4倍に跳ね上がった。

 日本は1973年12月にOAPECから友好国と認定され、供給削減措置は解除されたものの、石油を取り巻く劇的な環境の変化による打撃は避けようもなかった。

勢いを増すOPECの影響力と中東の混迷

 その後もOPECは原油の価格形成に絶大な影響力を誇った。加えて、中東で戦争や政情不安が絶えなかったことも、原油の供給途絶、生産減少のリスクを意識させ、石油価格を不安定にさせる要因となった。

 1978年には2度目の石油危機が起きた。発信源はイランだった。高まる反政府デモで石油の生産量が激減し、12月に石油輸出が全面停止となった。その後、1979年2月のイラン革命、1980年に勃発したイラン・イラク戦争と混乱が続く。呼応するように、OPECは1978年末以降、段階的に大幅な石油価格を引き上げた。一連の流れを受け、原油の国際価格は1979年から3年間で3倍近くに高騰した。

見直しを迫られる日本

 日本は最初の石油危機に見舞われた1973年当時、エネルギー源の約8割を原油の輸入に依存していた。しかも輸入先の大半を占めたのは中東だった。歴史的な円高や当時の田中角栄首相(1918〜1993年)が掲げていた「日本列島改造論」に伴い、「狂乱物価」と呼ばれるインフレ状態でもあり、生活品の値上がり、不足という消費者不安が高まっていた。

 そこへ石油危機が重なった。当時の通商産業相が、かねて価格上昇が続いていた紙製品に関し「紙節約の呼びかけ」を発表したことも相まって、トイレットペーパーや洗剤の買い占めなどのパニックが全国で連鎖的に起きた。「原油の輸入が途絶える」との恐怖が国民の頭によぎった。「終戦間もない頃の物資不足を彷彿とさせた」と振り返る人も少なくない。

 政府は同年11月に「緊急石油対策推進本部」を設置した。そして「石油緊急対策要綱」に基づき、石油の使用制限、石油製品の価格調整など強力な行政指導が行われた。

戦後初めてのマイナス成長、そして石油備蓄へ

 その後も事態を沈静化させようと、石油の供給確保と使用の節減を図る石油需給適正化法と国民生活安定緊急措置法が1973年、矢継ぎ早に制定された。マイカー使用や深夜放送の自粛、広告灯の使用禁止などのほか、1974年に発動された電力使用制限令で大口需要家の消費削減が求められた。象徴的な出来事として銀座や新宿で街灯やネオンサインが消され、東京タワーも消灯した。

 製造業をはじめとする石油の需要家や、一般家庭への打撃は深刻で、経済の停滞は必至だった。1973年度に5.1%だった実質経済成長率は翌1974年度に−0.5%に急落し、戦後初めてマイナス成長となった。20年ほど続いた高度経済成長はこの時、終わりを迎えた。

 石油を燃料としていた電力業界、ガス業界は1973年度に赤字決算も相次いだ。そのため、電気、ガス料金の約5割値上げに踏み切るなどの緊急措置を取った。

 他方、渦中の石油業界は高騰した原油価格を製品の値上げにより転嫁できたことなどから、危機直後の1973年度決算への悪影響は限定的だったという。むしろ、産業全体の活動停滞などによる需要減に伴い、数年後に時間差で経常赤字を計上する企業などが見られた。供給維持に不安を抱える石油元売り各社は、調達交渉や販売先との商談で足元を見られ、苦戦したとの話もある。

 無論、大規模な制度変更への対応に追われた。特に、石油の供給途絶を回避するため、備蓄の重要性が強く認識されるようにもなり、政府は1974年に90日備蓄増強計画を策定した。1975年に石油備蓄法が制定され、企業による90日間の備蓄を義務化、1978年には国家備蓄も始まった。

望ましいエネルギーのあり方は

 1970年代に起きた2度の石油危機で大きく違ったのは、2度目の対応は冷静だったことだ。1度目の苦い経験で免疫がある程度でき、トイレットペーパーが売り場から消えるような大混乱は防げた。また、企業や家庭による節電や効率性向上も進み、日本の省エネ技術があらためて世界に注目されるようにもなった。石油危機は、多くの日本人がエネルギーの比率や暮らしとの関係を、より真剣に考えるきっかけになったとも言える。

 そうした中で1970〜1980年以降のエネルギー政策の見直しは、否が応でも石油依存から脱却し、他のエネルギー源の比率を高めようとする動きへとつながっていく。期待されたのが本格的に動き出した原子力発電所だった。

 次回は原発反対の声が強まる局面がありながらも、大きな方向性は推進へと向かった経緯を確認していきたい。

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