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環境倫理から考える ── 果たして交雑ザル57頭殺処分は妥当だったのか

  • 2017年4月22日
  • THE PAGE

 2月に千葉県富津市、高宕山(たかごやま)自然動物園で交雑ザル57頭が殺処分されました。特定外来生物法に基づいての駆除ですが、この処分をどのようにみるか ── 、環境思想論を専門とする三重短期大生活科学科・南有哲教授が、環境倫理の視点からこの問題を論じます。

 1回目は、環境倫理における「人間中心主義」と「全体論的な環境倫理学」の2つの思想を紹介、2回目は「人間中心主義」の思想の場合は、この問題をどうとらえるか、展開してきました。最終回の第3回は「交雑ザル殺処分をどう考えるか」と題し、「全体論的な環境倫理学」とそれに批判的な見方から、この問題を深めていきます。

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 では、今回のケースについてはどうでしょうか? まずは全体論的な環境倫理学が提起する問題から見てみましょう。この立場からするならば、数十万年あるいは数百万年にわたる生物進化の過程によって形成されていった種内の遺伝的多様性、あるいはそれを基盤とした種分化のプロセスは、人間活動による撹乱とそれに伴う遺伝的均質化への傾向から可能な限り保護されなければならないということになりますが、この提起は「人間の利益」にどうかかわってくるのでしょうか。

 一つ考えられるのは、その生物種の進化の歴史を解明するための貴重な情報が失われてしまうのを防ぐことです。種内の集団別の、さらには近縁種の間の遺伝子構成の異同を解析し、これに化石などから得られる情報を組みあわせることで、その種の進化や地理的分布の変遷をたどることが可能になりますが、ここで人間の手による遺伝子撹乱が加わると、それが不可能あるいは極度に困難になってしまいます。

 これは自然史の科学的解明という人類の知的欲求の実現に対して、重大な障害を創り出すことに他なりませんが、しかしこのような言い分に対しては、「だから何?」という疑問の声も聞こえてきそうです。生物学の研究者や進化に関心のある人はともかく、そうではない大勢の人にとってはどうでも良い話ではないのか?と。しかし私には、事はそう単純ではないように思えます。

「遺伝的多様性を人為的に撹乱すること」への認識共有が必要

 ヒトすなわちホモ・サピエンスはそれ自体が一つの生物種として、生命共通始祖に端を発した40億年に近い進化の歴史を背負った存在です。そしてヒトの祖先たちは生態系の構成要素として他の生物種と様々な関係を取り結ぶことによって、初めて生き延びることが出来たのであり、それが子孫としての今日の私たちの存在を可能にしています。

 ということは、ヒトの進化の解明は他の生物種の進化の解明抜きにはあり得ないということになります。また道具の製作や火の使用などによって、周辺の自然環境を意識的かつ能動的に改変する能力を獲得して以降は、祖先たちの行動が周囲の生物種の進化や分布に影響を与えているはずですから、そのような生物種の進化史を解明することで、ヒトの活動の歴史を探究することも可能になります。現にヒトにつくシラミの種の間の遺伝子構成の異同の解析を通じて、人類が衣服を身につけ始めた時期を推定することができないか、という研究も行われているのです。

 さらに知的関心のみならず、より「実利」的な面からもアプローチすることが可能です。例えば、人間を苦しめるアレルギーや癌といった病の原因の所在をヒトの進化の過程に探り、そこから治療法など対処を考えようとする「進化医学」が進んできています(その到達点をわかりやすく示してくれたのがNHKスペシャルの『病の起源』だと思います)。
 
 さらには、ヒトの心に共通して存在する特徴的な傾向を進化論的に解き明かそうとする「進化心理学」も成果を挙げているようですし、それを踏まえた上で倫理や道徳といった社会的規範の基盤と起源を探ろうとする「進化倫理学」さえ登場しています。こういったヒトの進化をめぐる諸科学の進展に対しては、少し長い目で見なければならないのかもしれませんが、人類が直面している様々な課題の解決への参考となり得る重要な情報の獲得を期待できるでしょう。

 ですから、「遺伝的多様性を人為的に撹乱することは、貴重な情報に満ちた遺跡を損壊するに等しい行為だ」という認識を、皆が共有するべきではないでしょうか?

 「何があっても絶対に破壊してはならず、壊されたものはいかなるコストをかけてでも絶対に復元されなければならない」とまでは言えないのでしょうが、破壊につながる行為が本当に社会にとって、どうしても必要なものであるのか、問題が生じた場合の責任の所在はどこか、破壊を最小化するための方法は何か、そして復元の展望や手法さらにはコストといった課題について熟議すること、さらに撹乱の対象となる遺伝的多様性そのものについての可能な限り綿密な調査を行うことが、求められる当然の前提であると私は考えます。

人間と生き物とのアンビバレントな関係確認の必要

 他方、生物個体の生命の尊重という問題提起についてですが、このことを考える前提として、私たち人間と生き物とのアンビバレントな関係を確認しておく必要があります。私たちは生き物を自らの資源として使役し、食材や実験材料として扱い、さらには愛玩や鑑賞の対象として消費する一方で、資源化されるまさにその生物種 ── たとえばブタ ── に対してさえ、しばしば感情移入し、共感や同情を覚え、まるで人間に対するかのように評価したり接したりします。

 したがって個人差はかなりあるとは言え、生き物のおかれた状況や扱われ方は、場合によってはそれに接する人間にネガティブな精神的インパクトを与えます。そのようなインパクトによる精神的ダメージの回避や軽減は「人間の利益」の重要な構成要素であって、そのための文化的装置として慰霊の儀式や感謝の祭り・生物の取扱いに際してのさまざまなタブーや掟といった習俗が人間によって創出されてきました。そして生物個体の生命の尊重を呼びかける思想は、生物に対する後者のスタンスを理論化したものであると理解されるのです。

 このような捉え方は「人間ならざる存在を道徳的配慮や権利承認の対象にすべき」という問題意識からすれば浅薄な見地だということになるのでしょうが、社会的合意の形成という観点からすれば、事を「人間の利益」の問題として扱うのは不可避であると私は考えます。

 なぜなら、生物の資源化と擬人化というアンビバレントな関係のあり方やその捉え方が、個々人さらには文化によって異なる ── クジラやイルカがその好例でしょうが ── 以上、合意形成のためには、特定の個人あるいは文化のそれを原理原則として人々に対して権力的に強要することを認めるのでない限り、個々人の利益としての「心の痛みの回避・軽減」のための相互配慮の必要性を、社会さらには人類共通の了解事項にしていく他ないからです。

 例を挙げるならば、イヌを食べる人とイヌを愛玩する人がともに社会を構成する ── 真の意味での「多文化共生」とは、そのような要素も含まれると私は考えます ── ためには、イヌをめぐって異なる価値観を持つ人々が、互いの「心の痛み」に配慮した言動を取る必要があるということなのです。

生物の擬人化という人間の性向

 さらに言うならば、生物の擬人化という人間の性向は、全ての種に対して平等に向けられているわけではなく、より「共感しやすい」生物種へ、例えば微生物よりも肉眼で見える生物、植物や菌類よりも動物、無脊椎動物よりも脊椎動物、そして魚類・両生類・爬虫類よりも鳥類および哺乳類に対して強力に作動するという、一般的な傾向が存在するのは明らかです。

 先に「痛覚主義」について触れましたが、「表情や声・行為を通じた苦痛の表明」とは生命への脅威に曝された生物が示す反応の在り方の一つであって、他にも「特定の化学物質の外界への放出」といった在り方も想定されます。しかし私たちヒトは前者に対しては容易に理解し共感することができますが、後者についてはそうではありません。そこに「痛覚の有無」を尊重の基準とする考え方が受容される条件が存在するのであって、この点において痛覚主義は極めて「人間中心主義的」な思想であると言えるでしょう。

人間による管理下にあるサルを殺処分することが本当に必要であったのか

 最後に今回の事態についての、私なりの評価を述べることにしたいと思います。アカゲザルとニホンザルの交雑個体を生態系から除去する活動そのものは、それによって遺伝的多様性が保全され、結果として生物進化に関わる情報が保存される可能性が高まるのであるならば、それは必要なことであり個体の生命を奪う結果になってもやむを得ないと、私は考えます。

 ただしその場合も、遺伝子攪乱を引き起こさないように去勢・断種 ── これはペットに対しても普通に行われます ── した後に放獣するであるとか、施設で飼育するなどの可能性を追求し、殺処分においてもその方法について十分に考慮するなど、「動物個体の苦痛と生命の喪失」に同情し、痛みを感じる人間の心に対する配慮が求められます。

 しかし一方で、すでに人間による管理下にあるサルを殺処分することが本当に必要であったのか、はなはだ疑問です。現に飼育されているわけですから、捕獲された野生個体の場合のように「殺さずにおくための膨大な追加コスト」がかかるとは考えられませんし、また万が一の脱走に備えて、上述のような遺伝子攪乱を防止するための処置をとることも十分に可能です。

 『朝日』の記事は「絶対に外へ逃げられないような施設での管理が難しいなら、飼育しているだけで法律違反になるので、殺処分はやむを得なかった」との環境省の担当者の談話を掲載していますが、研究や教育を目的とした特定外来生物の飼育については、特別の許可の取得と施設整備を前提として承認されているわけですから、むしろ動物園という施設の性格をも考慮に入れて、交雑ザルとニホンザルの行動の比較研究や、遺伝子攪乱についての市民への情報提供のための貴重な機会として、必要事項をクリアした上で飼育を続けるべきだったと思います。

 さらに言えば動物園には子どもが多く集まりますし、子どもたちは一般にサルを見るのが好きですから、「なんにも悪いことをしていないのに、おさるさんたちが殺された」という出来事が、子どもたちの心にどのようなインパクトを与えたのか、大変気になるところでもあります。

 そういったことを考慮するならば、たとえ動物園や行政側の事情がいろいろあったのだとしても、交雑ザルを殺処分した今回の処置は妥当ではなかったというのが、私の意見です。

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