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57頭の交雑ザル殺処分 ── “認める倫理と“認めない倫理”の学説

  • 2017年4月22日
  • THE PAGE

 2月に千葉県富津市、高宕山(たかごやま)自然動物園でサル57頭の殺処分を伝える報道がありました。飼育していたニホンザルのうち、この57頭は外来種であるアカゲザルとの交雑種であったことがDNA検査で明らかになったため、特定外来生物法に基づいて駆除したといいます。

 3月には大阪府岬町でニホンジカとタイワンジカの交雑シカが見つかり、行政がその対応に乗り出すなど、今後も外来生物とその交雑種は増加していくとみられますが、私たちは特定の生物の駆除や殺処分という取り組みに対してどのように捉えていったらよいのでしょうか。

 環境思想論が専門の三重短期大生活科学科・南有哲教授が環境倫理の視点からこの問題を論じます。1回目のテーマは「交雑ザルの殺処分をめぐる環境倫理学説」です。

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 千葉県の動物園でアカゲザルとニホンザルの交雑個体が殺処分されたというニュースが、世の中に波紋を広げているようです。私は『朝日新聞』(2017年2月21日付)の報道で知りましたが、普段この種の問題には特に関心を示さないのに、この事態は認識していて、しかも疑問やネガティブな印象を持っている人が、私の身近にも少なくありません。

 この問題については、本サイト『THE PAGE』においても龍谷大学の清水万由子氏が社会科学の視点からの詳細な分析(https://thepage.jp/detail/20170315-00000002-wordleaf?page=6)を展開しておられますし、またニホンザルのケースも含めた外来種と在来種の種間交雑の問題については、国立環境研究所の五箇公一氏が生物学の立場から簡潔かつ丁寧に解説(https://thepage.jp/detail/20161212-00000002-wordleaf)されています。ですから、この記事においては私が学んでいる環境倫理という視点から問題を考えてみたいと思います。

環境倫理学における「人間中心主義」という思想

 そもそも、外来種との交雑個体が殺処分されるべきだというのは何故でしょう? 外来種が人間の健康に被害を及ぼしたり、産業にダメージを与えたり、生態系を破壊して人間の生活環境を大きく変質させるというのであれば、命を奪うことも含めての対処が求められるというのも分かります。しかしアカゲザルの遺伝子が交雑を通じてニホンザルの遺伝子に入り込んだとして、何かわたしたちにとって害があるのでしょうか? そんなことをしてもコストがかかる上に、私たちの心を痛めるだけではないでしょうか?

 このような考え方は、環境倫理学でいえば「人間中心主義」という立場、すなわち人間を格別に大事な存在として位置づけた上で、自然や環境に関わることを、あくまで「人間の利益」・「人間中心の価値観」においてとらえ、対処しようとする思想です。

人間中心主義を乗り越える新しい思想 「生態系のバランス保全」が最重要

 そして環境問題の真の解決のためには、この「人間中心主義」を乗り越える新しい思想・新しい倫理を打ち立てる必要があるのではないかという議論が、環境倫理学のなかでは続いてきました。そのなかでも主要な流れの一つが「全体論的な環境倫理学」と呼ばれる思想で、アルド・レオポルドやベアード・キャリコットといった人々が代表的な論者とされています。

 この考え方によると、まず生態系が人間の社会や共同体のようなものとして理解され、生物種はこのなかで独自の役割を持つ「市民」のような存在だとされます。そしてヒトなる種もまたこの「社会」における一「市民」に過ぎないのであり、あたかも所有者のように振舞うのは許されないとして、その特権的地位が否定されるのです。

 さらにこの思想においては、生態系のバランスの保全が最重要の課題とされ、生物個体の生命の価値はこれに従属するものと見なされます。なぜなら、生物個体は生態系なしにはあり得ませんし、生態系の根幹である食物連鎖においては、個体の生命は当然のごとく消費されるからです。したがってこの見地に立つならば、生態系のバランスを乱す外来生物を殺処分することは、何ら問題がないどころか、むしろ推奨されることになります。

「生物多様性」「種内の遺伝的多様性」という考えの登場

 さらに1980年代に「生物多様性」という言葉が登場し、「種の多様性」・「生態系の多様性」に劣らず「種内の遺伝的多様性」も大切であるという考え方が定着してきました。

 一つの生物種を構成する個体の間の遺伝子レベルでの多様性が、個体間の体質や特性の多様性をもたらし、結果として環境変動等に対する種の強靭さ(その変動で誰かが死んでも誰かは必ず生き残って子孫を残した結果として、種が存続する)の重要な条件となること、さらには種内の遺伝的多様性が種分化、すなわち新たな種の誕生の基礎になり、その積み重ねの上に多様な種や多様な生態系の存在が初めて可能になるといったことが、「種内の遺伝的多様性が大切だ」とされる理由です。

 したがって、例えば琵琶湖のアユを他の水系に放流することは、長い年月にわたる隔離によって生じた琵琶湖のアユと放流先水系の在来アユとの遺伝的差異が両者の交雑によって打ち消されてしまい、結果としてアユという種の内部における遺伝的多様性が損なわれてしまうので、いくら内水面漁業の発展のためとはいえ、そのような行為は望ましくないということになります。

 今回のサルのケースについて見るならば、長い時間をかけて種分化の過程が進行しつつあるアカゲザルとニホンザルは、体色や体長・尾長といった形質上の差異が生じるほどには遺伝的に距離があるが、例えばロバとウマの交雑個体たるラバとは異なり、交雑個体が生殖能力を持てる程度には近いという状態にあります。

 しかしこの両種が人間の行為が原因となって交雑してしまうと、結果としてこの系統のサルたち ── マカク属 ── の遺伝的均質化が進行してしまうので、これは可能な限り阻止すべきだということになります。したがって、例え人間の利益と無関係に見えようが、コストがかかろうが、かわいそうで心が痛もうが、交雑個体は駆除されるべきだということになるわけです。

一方で動物の生命を重視する「動物解放論」

 ところが人間中心主義に批判的な思想のなかにも、上述のそれとは真逆の考え方をするものがあります。この立場は、大事なのは個別の生命であって、生態系のバランスを最優先するのは「全体主義」であると批判しますが、この潮流において特に動物の生命を重視する立場は「動物解放論」と呼ばれます。代表的な論者としてはピーター・シンガーの名を挙げることができますが、彼の議論はしばしば「痛覚主義」と称されます。

 シンガーは「苦痛を感じる能力をもつ存在に苦痛を与えることは倫理に反する」とします。したがって人間のみならず、哺乳類や鳥類その他の動物に対しても苦痛を与えることは倫理的に許されないとするのです。このような立場からすれば、恣意的な動物虐待はむろんのこと、肉食や動物実験といった人間による動物の資源としての利用も否定的に捉えられることになります。

 ちなみにこの痛覚主義に立つならば、人間が人間であるが故にではなく、苦痛を感じることのできる存在であるが故に苦しめてはならないということになるわけですから、「苦痛を感じる能力のない人間」には何をしてもかまわない、という結論が論理的に導かれますので、シンガーの議論は障害者差別につながるとして厳しい批判を受けています。

 他方トム・レーガンという人は、「動物は人間による干渉や搾取なしに生きる権利がある」と主張し、人間による動物の資源としての利用を一切否定しますが、このような立場に立つならば、交雑ザルの駆除や殺処分など論外だということになります。

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