1977年夏、ニューヨークの街は燃えていた。重要な送電線への落雷で25時間の停電が起こり、広範囲で略奪や暴動、そして1000件を超える火災が発生したのだ。
その夜、消防署はハーレム、ブルックリン、サウスブロンクスで同時に炎と闘っていた。普段から1日で平均50件近い火災が発生していた街にとっても、衝撃的な数だ。ニューヨーク市は、かつてないどん底に陥っていた。
そんな街を救ったのは、緊急支援でも大規模な改革でもない。ミルトン・グレイザーというデザイナーが、タクシーの後部座席で描いた単純なスケッチだった。それが、今やニューヨークのシンボルともいえる「I ♥ NY」というロゴだ。「自分たちをもう一度、信じたい」と心の底から願っていた街にとって、それは団結の印、誇りの象徴になった。
ニューヨークの衰退は、一夜にして起こったのではない。まず工場の閉鎖により、わずか6年間で30万人分の製造業の職が消えた。裕福な住民たちが街を逃れて郊外へと移り住み、市の税収も減少した。やむなく市は、給与を支払うために借金をするようになった。
そして、予算削減が始まった。教師は解雇され、ゴミは回収されなくなった。「消防署も、維持費が払えずに閉鎖を余儀なくされました」と、米サラ・ローレンス大学の歴史学教授であるライアン・パーセル氏は言う。「そして、どの地域を見捨てるかの選択を迫られました」
おのずと犯罪率は急上昇した。殺人事件は1年間で1000件を超え、放火がビジネスモデルになった。「建物の所有者は、保険金を受け取るために自分の建物に火を付けました」とパーセル氏。「家賃収入よりも儲かるためです」
火災や廃虚化によって一部の区域で97%以上の建物が失われたサウスブロンクスで、市は「計画的縮小」を敢行した。貧困地域の人口を強制的に減らすために公共サービスを撤退させるという、物議を醸す都市計画戦略のことだ。
1975年までに、警察はマンハッタンに入るすべての駅と港で旅行者に「恐怖の街へようこそ」と題されたパンフレットを渡し、状況が変わるまでニューヨークには近寄らないように警告した。地下鉄の電車は落書きで覆われ、たびたび故障を起こした。
市は連邦政府に支援を求めたが、当時のジェラルド・フォード大統領はまともに取り合わなかった。「ニューヨークは救済に値すると思う人がいなかったら、『アイ・ラブ・ニューヨーク』のキャンペーンは成功しなかったでしょう」と、米紙ニューヨーク・タイムズの元アートディテクターであり、デザイン史家としてロゴの文化遺産史を記録したスティーブン・ヘラー氏は言う。「しかし、市民はニューヨークを愛し、良い街にしたいと願っていました」
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1977年の夏は、新たな恐怖をもたらした。「サムの息子」と名乗る連続殺人犯が新聞社にぞっとするような犯行声明を送り付け、厳しい熱波によって電力供給は限界に近づいていた。7月13日午後8時37分、ウェストチェスター郡の発電所に落雷があり、ニューヨーク市で停電が発生。街は暗闇に陥った。
それから25時間、火災件数は記録的な数に達した。1600軒の店が略奪され、3700人が逮捕された。被害総額は3億ドルを超えた。米誌タイムはのちにこの夜を「恐怖の夜」と名付け、外部の人々はニューヨークを「衰退する第2のローマ帝国」と呼んだ。
停電は、ニューヨークに自らを省みる機会を与えた。この街に必要なのは、警官を増やし、通りを清掃することだけではない。カムバックストーリーが必要だった。市民がニューヨークという街をもう一度信じられるようになるための物語が。
地に落ちた評判を取り戻すため、ニューヨークの商務部は広告会社ウェルス・リッチ・グリーンに助けを求めた。「怖い街というイメージを払拭するために、ブランドを再定義する必要がありました」と、パーセル氏は言う。こうして生まれたものが、のちにデザイン史を塗り替えることになる。
キャンペーンは、「アイ・ラブ・ニューヨーク」という単純なフレーズで始まった。ニューヨーク州商務副部長のウィリアム・S・ドイルは、ニューヨーク出身のミルトン・グレイザーに、ビジュアル・アイデンティティーの制作を依頼した。もともとは州の観光キャンペーンに用いるためだったが、ロゴはすぐに、街の精神を代表するようになった。
グレイザーはこのとき既に、デザイン業界では大物だった。米誌ニューヨーク・マガジンを共同創刊し、サイケデリックなボブ・ディランのポスターを手がけ、芸術の感性をビジネスに持ち込んだ。デザイン料は2000ドルだったが、グレイザーが受け取った小切手を換金することはなかった。
当初は、無難で記号のないすっきりとした文字だけのデザインだった。
しかし、その1週間後、グレイザーがタクシーに乗っていたとき、アイディアがひらめいた。アスファルトのへこみでガタガタ揺れる車内で、グレイザーはポケットから赤いクレヨンを取り出し、封筒の裏に「I ♥ NY」と走り書きした。「Love」という単語を、世界共通の記号に置き換えたのだ。木の幹に若い恋人たちが刻んだイニシャルからヒントを得たという。
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「視覚的な言葉遊びです」とヘラー氏は言う。「あまりに普通なので、見過ごされがちなものです。卒業アルバムや季節の挨拶状に『I love you』と書いて送るように、『みんなニューヨークが好き』というはっきりとした概念に当てはめたのです」。ハートが、すべての重みを担っていた。
このデザインが特別なのは、書かれている言葉だけでなく、一瞬にして感情が伝わる点だ。絶望の淵に立たされた人々に、希望という貴重なものを与えてくれた。
当初、キャンペーンに対するニューヨーカーたちの反応は薄かった。「初めてスローガンが登場したとき、サムの息子はまだ人を殺し続けていました」とパーセル氏。「しかし、徐々に自治体の出版物や観光資料にもロゴが浸透し始めると、それが表す変化に人々が気づき始めました」。1978年には、ホテルの予約が増え、観光客の数が回復した。
デザインの力は、完璧なタイミングで発揮された。「まだ市民として誇りを感じることはできないけれど、それでも誇りを見せてもいいんだと思わせてくれました」(パーセル氏)。
グレイザーは、このデザインを自分で商標化せず、市に寄贈した。2011年までに、ロゴはグッズの売り上げで年間3000万ドルの収益をニューヨークにもたらした。
ロゴは息を吹き込まれたかのように広がり、危機が訪れるたびに形を変えて現れた。2001年9月11日の同時多発テロ事件の後には、マンハッタンのいたるところに「I ♥ NY More Than Ever(かつてないほどニューヨークが好き)」と書かれたポスターが貼られた。ハートマークの左下には、傷ついたダウンタウンを表すように黒いシミがついていた。
新型コロナウイルス感染症が流行したときも、ロゴは再び目に付くようになった。このときもわずかな変更が加えられたが、すぐにそれとわかるものだった。
「ミルトンは、ロゴを見た誰もが共感を覚えることをわかっていました」と、ヘラー氏は言う。
誰もが共感するのは、それが街のイメージを刷新したからだけでなく、たとえ絶望的な状況になっても愛が人々を奮い立たせるということを、ニューヨーカーに思い出させてくれたからだ。ヘラー氏が言うように、「決して消えることがない」メッセージとして。