私たちは人生の約3分の1を眠って過ごすが、その間、体のスイッチは単純にオフになっているわけではない。なかでも脳は、眠っている間に多くの“家事”をこなさなければならない。その1つは自分自身の掃除だ。脳の「グリンパティックシステム」と呼ばれる複雑なネットワークには、脳内にたまった有害な老廃物(アルツハイマー病などの認知症と関連するアミロイドベータやタウタンパク質など)を洗い流す機能がある。
米ロチェスター大学医療センターの教授で、神経医学応用研究センターの共同ディレクターである神経科学者のマイケン・ネーデルガード氏らの研究チームは、2025年2月6日付けで学術誌「セル」に発表した新しい論文で、脳の掃除のしくみの中でこれまで不明だった点を解明できたと考えている。この論文では、ある一般的な睡眠薬が脳の掃除の妨げになる可能性があるという発見についても詳しく書かれている。
ネーデルガード氏は、自分たちのチームが2012年に脳の掃除の重要性を初めて明らかにしたときには、このプロセスがどのようにして動いているのか、完全には理解していなかったと語る。
以下では、今回の発見が睡眠薬の効果をめぐる長年の疑問を再燃させている理由と、睡眠薬を使っている人が留意すべき点を説明する。
研究チームの目標は、脳脊髄液(のうせきずいえき)と呼ばれる透明な液体がグリンパティックシステムを流れ続け、老廃物の周期的な排出を促すしくみを明らかにすることにあった。
脳脊髄液は動脈に沿ってその周囲を流れ、脳に入る細い血管どうしの隙間に浸透し、細胞から排出された老廃物を回収して脳外に運び出すようにしている。
ネーデルガード氏は、このプロセスが脳の健康を支えているようだと言う。
今回の論文の筆頭著者で、英オックスフォード大学とデンマーク、コペンハーゲン大学の博士研究員であるナタリー・ハウグルンド氏らは、睡眠中のマウスを使い、脳内の血流や脳脊髄液の動き、化学物質の濃度などのマーカーを追跡して測定したところ、すべては脳によるノルアドレナリンの放出から始まっていることを発見した。
ノルアドレナリンはノルエピネフリンとも呼ばれ、闘争・逃走反応(闘いや逃走に適した状態になる反応)の鍵となる神経伝達物質だ。
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ノルアドレナリンの放出により「微小覚醒(micro-arousal)」が起こると、脳の血管が収縮する。その結果、血液量が減ると、脳脊髄液が大量に流れ込む余地ができる。
ノルアドレナリンが減少すると、血管は緩んで拡張し、老廃物を多く含んだ脳脊髄液を脳から押し出す。こうした血管の拡張と収縮は、約50秒周期のリズミカルな振動として測定された。この振動が、ノンレム睡眠中にグリンパティックシステムの全体で脳脊髄液を流していたのだ。
「脳は周囲を骨で囲まれた唯一の臓器であり、その体積は決まっています」とネーデルガード氏は説明する。「そのため、脳内の血液量が変化するたびに、脳脊髄液が移動して変化を埋め合わせる必要があるのです」
このプロセスは、基本的にマウスで観察されてきた。けれども研究者たちは、構造が似ている人間の脳でも同様のことが起きていると考えられると言う。実際、2019年に学術誌「サイエンス」に発表された研究では、人間の脳内での脳脊髄液の振動が検出されている。
しかし、ノルアドレナリンがその引き金である可能性を示したのは、ネーデルガード氏やハウグルンド氏らによる今回の論文が初めてだ。
今回の研究では、もう1つの新たな発見があった。自然に眠りに落ちたマウスに比べて、ゾルピデム(先発品の商品名はマイスリー)という一般的な睡眠薬を投与されたマウスでは、ノルアドレナリンの振動が著しく抑えられ、脳脊髄液の流れが滞っていたとネーデルガード氏は言う。
この発見に「衝撃を受けた」と話すのは、米カリフォルニア大学アーバイン校の記憶・学習神経生物学センターの精神医学・人間行動学准教授であるブライス・マンダー氏だ。なぜなら、これは「睡眠中の神経生物学的な機能の1つを担うグリンパティックシステムが、睡眠薬によって積極的に妨害される」ことを示す最初期の証拠だからだ。
睡眠薬の影響について語るには、ゾルピデムが人間の脳の掃除に及ぼす影響を調べる必要があるが、それは困難だ。マンダー氏はその理由を、現在の技術では、人間の脳のグリンパティックシステムの機能を測定するのは倫理的に難しいからだと説明する。
それでも今回の研究は、「質の高い睡眠をとるとはどういうことか」という、より大きな問題を提起している。マンダー氏は、「睡眠薬が睡眠の根本的な機能を妨げていないことを確かめるために、睡眠薬の評価方法について考える必要があります」と言う。また、理論的には、異なる種類の睡眠薬は、異なる種類の未知の脳機能障害を引き起こす可能性があると指摘する。
「睡眠薬は、眠らせることさえできればいいというものではないのです」と氏は言う。「睡眠薬の目的は、心身を回復させるような睡眠をとれるようにすることにあります」
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脳の掃除は、私たちの体に備わった数多くの神秘的な機能の1つにすぎない。そして今回の実験は、脳の掃除が私たちの健康に果たす役割についての1つの理論に基づく研究にすぎない。
この研究結果だけを見て、処方された睡眠薬の服用をやめるべきではないという点で、専門家の意見は一致している(医師の指導なしに服用を中止するのは危険だ)。
とはいえ近年、睡眠薬の長期使用への注意を促す証拠が数多く集まっていて、今回の研究がその1つであることは確かだ。
睡眠薬が脳の健康に及ぼす影響については、専門家も完全には理解していない。米ジョンズ・ホプキンズ大学ブルームバーグ公衆衛生大学院の精神保健学部教授で睡眠研究者のアダム・スパイラ氏は、睡眠薬の科学は複雑だと語る。
例えば、睡眠薬を常用すると認知症のリスクが高まる可能性があることが研究で示唆されているが、これには注意が必要だ。神経の変性が、睡眠薬の直接的な影響によるものなのか、あるいはそもそも睡眠薬が必要になるほどの慢性的な睡眠問題が原因なのか、専門家でも判断は難しいからだ。また、すでに認知機能の低下が進んでいたところで睡眠薬が症状を増幅させた可能性もある。
睡眠薬の影響については、別の考え方もある。スパイラ氏は、「各種の睡眠薬は、それぞれ異なる薬理学的・生理学的メカニズムで働くため、なかには脳の健康に有益なものもあるかもしれません」と言う。
氏はその例として、ある種の睡眠薬が理論的にアルツハイマー病の予防効果を持つ可能性があるとする研究を紹介し、さらなる研究が必要だと言う。結論はまだ出ていないのだ。
専門家は、睡眠薬による眠りが自然な睡眠とは違うものである点については同意している。だからこそ、睡眠薬の使用を考えるときには、その是非について睡眠医学の専門医の助言を得ることが重要になる。
睡眠薬を使わない不眠症治療の中には、専門家が検討に値すると評価しているものもある。
欧米の睡眠専門家の間では、不眠症の認知行動療法(CBT-I)が、慢性的な不眠症で最初に選択すべき治療法として推奨されている(編注:日本では保険診療として認められていない)。CBT-Iは睡眠薬よりも長期的な効果があり、副作用の心配もなく、質の高い眠りをもたらす可能性が高いからだ。
すべての謎が解明されたわけではないが、ネーデルガード氏とハウグルンド氏の今回の発見は、「すべての睡眠が同じというわけではない」という明確な事実を強調している。私たちは、脳にとっての睡眠の意味について、徐々に理解を深めつつある。