メキシコ、ユカタン半島北部に住んでいた人々に関する新たな分析の結果、古典期のマヤは崩壊も消滅もしてはいないという説を支持する証拠が、2024年12月に学術誌「Journal of Anthropological Archaeology」に発表された。「明らかに、後古典期に入ってマヤ文明が崩壊したというのは議論の余地がある考えです」。メキシコ、ユカタン自治大学の考古学者であり、論文の共著者であるペドロ・デルガード・クー氏はそう話す。
教科書でのマヤ文明の時系列はだいたいこうだ。「古典期」と呼ばれる200年から900年ごろの間に繁栄のピークを迎え、その後の100年で中央の都市部は衰退。マヤの人々が姿を消したとの記述もあり、その謎めいた終末の理由については気候変動や人口過剰、政治不安などさまざまな説がある。
900年からスペインによる植民地化が始まった1540年前後の「後古典期」にマヤ文明は持ち直すが、以前ほどの勢いには至らなかったという。
マヤ文明はメキシコからコスタリカにかけてのメソアメリカにおいて、何世紀にもわたって何万という人々を統治する王国群を築いてきた。精巧に作られたチチェンイツァやマヤパンのような中心都市とその支配者は繁栄し、やがて衰退していった。だが、都市部の外の人々の暮らしは長らく変わらなかったのだ。
後古典期の都市の一部は、過去の都市に取って代わるようにして生まれた。デルガード・クー氏のチームは、ユカタン半島のマヤ文明についてしばらくの間調査してきた。
特に注目したのは、後古典期では比較的最後の方に作られた大きな中心都市のひとつ、マヤパンだ。この都市は、地域の有力者たちの連合体として12世紀ごろまでに建設された。有力者の中には、かつてその地域の中心都市だったチチェンイツァの支配者を倒した一族もいた。
チチェンイツァが衰退した1050年ごろ、周辺はひどい干ばつに襲われた。およそ30年後に降水量が戻ると、マヤパンは見事な都市となった。
マヤ神話の最高神ククルカンを祭ったピラミッドが建てられたほか、都市部は全長9キロ近い壁に囲まれていた。住民の一部は収まりきらず、壁の外側で暮らしていたと、論文の筆頭著者で、米ニューヨーク州立大学アルバニー校の考古学者であるマリリン・マソン氏は話す。
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マソン氏、デルガード・クー氏とそのチームにとって、マヤパンの物語は、マヤ文明が消滅した、もしくは現在のグアテマラのティカルのような古典期の南部低地のマヤ都市ほどは栄えなかった、という説に矛盾する。
「マヤ文明は1000年ごろに終わりを迎えたと耳にするでしょうが、それは違います」とマソン氏は言う。「後古典期は、北部における後期マヤ国家の復元力、回復力を示す成功の物語です」
この地域でなにが起こったのかに対する理解を深めるために、調査チームは人口の変化を調べた。チームはこれまでなされた調査を分析し、特にチチェンイツァの崩壊からマヤパンが建てられるまでの時期に注目して、地域の人口の分布をまとめた。
また、マヤパンの周囲約4キロ四方においてライダー(LiDAR)による独自の調査をおこなった。これはレーザー光を用いたリモートセンシング技術で、深いジャングルの中にある古い町や都市の跡も見つけられる。
さらにその区域の30%について、家や村の年代を特定できる陶器を探して実際に現地に入った。デルガード・クー氏をはじめとした、チームのマヤ考古学者の知識を頼りに、農道を走り、自然の中へ分け入りながらの調査だった。
「ライダーをもとに、現地調査を進めるのはこれまでで一番楽しい経験でした」とマソン氏。
その結果、チチェンイツァやマヤパンの中心部の人口には大きな増減が見られたものの、都市部に人や資源をもたらした地方部の人口はさほど変わっていなかったことを突き止めた。現在、この地域の町と町の間の大半は森だが、当時の地方部では、庭から隣の家が見えるような環境だったろう。マソン氏は現代の英国の地方部と比較しつつそう話す。
今回調査した家や町、村の当時のネットワークは「濃くはないが、絶え間なく広がっていた」とマソン氏は言う。
都市国家が崩壊した際、その制度や組織に関する知の多くは、周辺の地方部に移った役人たちによって保存されていたのだろう、とマソン氏は話す。「マヤの崩壊とともに終わったとされるものが、後古典期のマヤ社会にも再び見られるのです」
新たに中心都市を築こうとしたとき、そうした人々やその子孫が制度や組織作りの助けになったのだろう。
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「これはとてもわくわくする発見です」。マヤパン研究をおこなってきた、カナダ、カルガリー大学の考古学者、エリザベス・パリス氏はそう話す。パリス氏は今回の調査には加わっていないが、マソン氏はパリス氏の博士号の指導教官だった。
パリス氏は、チチェンイツァとマヤパンの間の時期に住民が地方部に移ったようなパターンはもっと昔から続いていて、ティカルやカラクムルのような古典期に勢いのあった都市が衰退した際にも見られたのではないかと話す。
「確かに変化はあったのですが、変化のパターンは何世紀にもわたって変わりませんでした」とパリス氏。王国が衰退すれば、他が隙間を埋めた。「文明全体が荒廃したわけではありません」
この研究は、考古学者が大きな遺跡のみではなく、都市を幅広い文脈で調査すると何がわかるかを示すいい例だ。
「ピラミッドの魅力はとても強いし、ピラミッドの発掘はとても好きです」。パリス氏は話す。「でも地域全体を見わたすことで、例えばピラミッドに関することですら、より多くのことを学べます」
マヤパンの共同統治はやがて終わりを迎える。1441年から1461年の間にシウ家と呼ばれる一族が反乱を起こし、都市を主だって支配していたココム家の多くが殺された。
壁の内側に住み続けた人々もいたが、マヤパンが周囲の地方部に及ぼしていた影響力と支配の形は、チチェンイツァがそうであったように崩れた。
別の研究によれば、マヤパンの王国が衰退すると、人々はまた地方部へと戻っていった。スペインによる植民地支配はユカタン半島の社会に大きな変化をもたらしたが、現代のマヤの子孫たちは、地域の古くからの文化や風習を保っている。マヤパン遺跡の近くにあるテルチャキージョの町には、今でもマヤ語話者がたくさんいる。
「今に至るまで、文化的側面の多くが変わっていないと示すことができました」。デルガード・クー氏はそう話す。「わたしはマヤであることを誇りに思いますし、祖先の遺跡に関わることができて嬉しいです」