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シルクロードの幻の古代都市「ダンダン・ウィリク」の栄華と没落

  • 2025年1月22日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

シルクロードの幻の古代都市「ダンダン・ウィリク」の栄華と没落

 1896年1月14日、スウェーデンの地理学者スウェン・ヘディンが中国西部のコータン(現在のホータン)を出発したとき、彼は古代都市の遺跡を見つけることを期待していた。しかし、砂漠の砂の中には、さらに多くのものが隠されていた。

 コータンという名は、19世紀の西欧の探検家たちの間でよく知られていた。なぜなら、ベネチアの有名な探検家マルコ・ポーロが1274年にその地を訪れたからだ。ポーロは著書の中で、かつて中国と地中海世界を結ぶ交易路だったシルクロードの拠点としてのコータンの豊かさについて書いていた。

 ヘディンのキャラバンがコータンを出発したとき、5人からなる一行はラバを連れ、50日分の食料を積んでいた。リーダーのヘディンは、ラクダに乗って先頭に立っていた。

「中央アジアの砂漠のスタンリー」(英国の探検家ヘンリー・モートン・スタンリーにちなんで)というニックネームで呼ばれていたヘディンは、博識で勇敢な冒険家だった。コータンに到着すると、ヘディンは砂漠の奥地に廃墟となった町があると現地の男たちが話すのを耳にし、すぐに彼らをガイドとして雇い、遺跡まで案内させた。

砂に埋もれた町

 数日間、ヘディンとその仲間たちはユルンカシュ川(白玉河)の西岸を進み、凍った浅瀬でなんとか川を渡った。ほどなくして、彼らは危険な移動砂丘のある広大なタクラマカン砂漠に入った。

 そこからの道のりは困難を極め、進みは遅かった。1日に6時間歩くのが精一杯で、渋々荷を背負ったラバを駆り立てながら、高い砂丘を越えた。ヘディンは野外日誌にメモをとり、そのメモが後に彼の回想録のもととなった。

 1月23日、一行は砂漠の窪地に到着した。「枯れた森林であふれていた」とヘディンは書いている。「短い木の茎や幹はガラスのように灰色でもろく、枝は干ばつによってコルクスクリューのようにねじれていた」

 地理学に精通していたヘディンは、この地はかつてケリヤ・ダリアと呼ばれていた川の古代の流路に違いないと推測した。ケリヤ・ダリア流域は、かつて人が住めるほど肥沃だった。ヘディンのガイドたちは、探している遺跡は近くにあるとヘディンに伝えた。発見された陶器の破片がそれを裏付けていた。

 翌日、ヘディン一行はキャンプを出発し、遺跡に向かった。ヘディンの仲間たちは、鋤(すき)と手斧を持っていた。

 到着した先で見たものは、ヘディンがアジアを巡る遠征で見てきたどの遺跡とも違っていた。目の前にある遺跡は、ポプラの木の幹を骨組みとして建てられており、建物が独特の白っぽい色になっていた。そのため、この場所は「象牙の家々」を意味する「ダンダン・ウィリク」という名で地元の人々に知られていた。

次ページ:古代の仏教寺院を発見

 ヘディンは遺跡の中を進むにつれて、正方形や楕円形の建物の輪郭が見えてきた。それぞれの内部はいくつかの部屋に分かれていた。

 高さ最大約3メートルの柱が、かつて屋根や2階を支えていたであろう場所にまだ立っていた。一行は、約4平方キロに及ぶと推定される多くの住居の痕跡を発見した。

 しかし、街路や広場が砂丘の下に隠れていたため、町全体の見取り図を描くのは不可能だった。

 ヘディンは、これ以上調査する手段がないことを嫌というほど分かっていた。「乾いた砂の中を発掘するのは絶望的な作業だ」と彼は書いている。「砂を掘り出すとすぐに、また砂が流れ込んできて穴を埋めてしまう。砂丘の下に隠された秘密を明かすには、すべての砂を完全に取り除かなければならないが、それは人間の力を超えた仕事だ」

 それにもかかわらず、ヘディンは古代の居住地がどのようなものだったか、大体の見当をつけた。砂丘によって消されたことから、ヘディンはこの遺跡を「神に呪われた都市、砂漠にある第二のソドム」と呼び、約2000年前のものだと誤って信じていた。

精巧な美術品

 ヘディンの発見の中で最も注目すべきは、いくつかの室内に飾ってあった精巧なインド・ペルシャ様式の絵画だ。ヘディンは、他よりも大きいこれらの建物を仏教寺院だと特定した。

 絵画は、わずかな接触でもはがれ落ちてしまった。ヘディンはできる限りスケッチすると、当時の植民地主義的な考え方に従い、彫刻やスタッコ(化粧しっくい)のレリーフなどの他の遺物を持ち帰り、後に次のように書いている。

「これらの発見物や他の多くの遺物はすべて丁寧に包んで箱に詰め込んだ。そして、この古代都市についてのメモを、できる限り詳しく日記に書き留めた」

 驚くべき光景を目にしたにもかかわらず、ヘディンは先に進むことにした。「私にとって、重要な発見をし、砂漠の中心で考古学の新たな分野を開拓したことだけで十分だった」。この文章を書いた翌朝、彼はダンダン・ウィリクを離れ、再びタクラマカン砂漠の移動砂丘の中へと足を踏み入れた。

次ページ:砂に飲み込まれた栄光

 ヘディンが砂漠の旅をしていたのと同じ頃、ハンガリー生まれの英国人、マーク・オーレル・スタインは、ペルシャ語とサンスクリット語の学者として名を馳せていた。

 1898年、ヘディンの回想録『中央アジア探検記(Through Asia)』が出版された。この本は、当時30代後半だったスタインに大きな影響を与えた。2年後、スタインは4回にわたる中央アジア探検の最初の旅にでた。

 ヘディンの足跡をたどり、1900年の冬、スタインはコータンに到着した。同地でガイドはスタインに、寺院のフレスコ画の断片(中には、古代インドの文字体系であるブラーフミー文字が書かれたものもあった)など、ダンダン・ウィリクの遺跡から出土した品々を見せた。

 この証拠に勢いづけられたスタインは、1900年12月下旬にタクラマカンの凍てつくような荒野を越えてダンダン・ウィリクに着いた。仏教美術と経典に関する幅広い知識があるスタインによって、この遺跡は、紀元6世紀から繁栄したオアシスの町の廃墟だとわかった。

 しかし、この町の住民はなぜ、賑やかな通りや華麗に飾られた寺院を打ち捨てたのだろうか?

砂に飲み込まれた栄光

 数週間後、スタインはダンダン・ウィリクの発掘調査を行った末に、かつて14もの仏教寺院がこの町を支配していたことを突き止めた。これらの寺院は、セラ(寺院の聖なる部分)を中心に構成されており、セラはより大きな建物の中に収められていた。

 発掘された美術品の中には、壮大なスタッコの仏像や、木の板に描かれた保存状態の良い絵画があった。スタインを興奮させたのは、蚕(カイコ)の伝来の伝説を描いたものなど、いくつかの絵画のテーマが見て取れたことだ。

 蚕の伝来の伝説とは、中国の若い貴族の女性がコータンの王と結婚したとき、蚕を中国国外に持ち出してはならないという規則を破り、クワの種と蚕を頭飾りに入れてひそかに夫のもとへ持ち込んだという物語だ。

 この伝説は、ダンダン・ウィリクの仏教への信仰心と、シルクロードにおけるこの町の繁栄を巧みに結びつけている。スタインが見つけた、年代を推定できる最も新しい品々の中には、8世紀の硬貨があった。スタインは、この町の衰退は、8世紀頃に中国がこの地域の行政支配を失ったことに関連しているに違いないという仮説を立てた。

 2002年の中国と日本の共同発掘調査を含む後の研究は、スタインの仮説を裏付けた。700年代に、砂丘の急速な変化とともに地政学も変化するにつれて、交易や芸術、寺院などが栄えていたダンダン・ウィリクは打ち捨てられ、その栄光は砂に飲み込まれたのだ。

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