エジプトの市街地を歩けば、耳がピンと立ち、脚は細長く、尾はクルンと巻いた独特なイヌにきっと出合うだろう。このイヌは「バラディ犬」と呼ばれ、エジプト全土に最大1500万匹いる。エジプトで最も高いピラミッドに登頂した冒険好きのイヌもいる。
バラディはエジプトの言葉で「地元」を意味するが、これらの野良犬の起源については諸説ある。エジプシャン・サルーキ、ファラオ・ハウンド、カナーン・ドッグといった現代の犬種の血を引く雑種という説もあれば、ファラオたちが崇拝した古代のイヌを祖先とする独自の犬種だという説もある。
エジプト人は古代からイヌを尊重してきたが、「エジプト動物の権利保護協会(SPARE)」によれば、ここ数十年、バラディ犬はひどく迫害されているという。人々が毒を盛ったり、水に溺れさせたり、殴り殺したりしているのだ。
人々がバラディ犬を嫌うようになった背景には、繁殖力や狂犬病などへの恐れがある。しかし、1500万匹という数を考えれば、これらのイヌから狂犬病に感染することはまれだ。世界保健機関(WHO)の最新データによれば、エジプトでは年間平均60人がイヌを含む動物にかまれたことによる狂犬病で死亡している。
また、イスラム教ではイヌは不浄な存在だという誤った考えを持つ人もいる。そこでエジプト宗教布告機関は、イヌは清浄な存在であり、イスラム法では、無害な野良犬などの動物の命を、特に毒を使って奪うことは禁じられていると明言している。
バラディ犬の汚名を晴らすため、動物愛護団体はイヌの管理について、より人道的なアプローチを提案している。例えば、いくつかの非営利団体(NPO)は「TNR」というプログラムを実施している。バラディ犬を捕獲し(Trap)、去勢または不妊手術を行った後(Neuter)、街に戻す(Return)というものだ。
また、NPO「マイ・ニュー・ライフ・レスキュー」などの団体は、バラディ犬の賢さと人懐っこさを強調し、里親になってほしいと呼び掛けている。2023年に設立された同団体は首都カイロで保護施設を運営しており、70匹以上のバラディ犬の世話をしている。多くのイヌは保護されたとき、重傷を負っている。
「エジプトでは動物虐待が横行しており、保護施設や保護サービスの負担が大きくなっています」と同団体の共同創設者ハイディ・ガマル氏は話す。
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古代エジプトでは、さまざまな神が、現代のバラディ犬とよく似た犬やジャッカルの頭部を持っていた。おそらく最もよく知られているのは、死者の魂を導く冥界の神アヌビスだろう。多くの墓にイヌが描かれており、ツタンカーメンの墓には、ファラオが愛犬と狩りを楽しむ様子が描かれている。
古代エジプトでは、王族を含むあらゆる社会的地位の人々が、家族の一員としてイヌを飼っていた。イヌが死ぬと、死後の世界で再会できるよう、ミイラにして家族の墓に埋葬していた。また、家族は喪に服し、その印として眉毛をそった。
古代エジプトの宗教的慣習に従い、アヌビスを崇拝する人々は上エジプトのサカに暮らしていた。サカでは、野良犬たちが街やアヌビスの神殿を自由に歩き回っていた。
イヌを殺すことは、厳しい制裁を伴う重大な罪と見なされ、そのイヌが個人や家族に飼われていた場合、制裁はさらに厳しくなった。ただし、アヌビスにささげる目的でイヌを殺すことは認められていた。
しかし現在、バラディ犬に毒を使ったり、命を奪ったりしても、ほとんど罰せられることはない。
エジプトの刑法では、バラディ犬を含む家畜を不当に殺したり、毒を盛ったりすることは禁止されている。違反者は最長6カ月の拘禁刑、または最高200エジプト・ポンド(約630円)の罰金に処される可能性がある。
エジプト農業土地開拓省獣医局が野良犬の数を管理する責任を負っており、バラディ犬が食べるドッグフードに定期的に毒を混入している。ガマル氏によれば、中毒死は残酷な死に方であるだけでなく、都市に暮らすほかの動物や人にも害を及ぼす可能性がある。
獣医局にコメントを求めたが、回答は得られなかった。
「毒を盛られることは、これらのイヌが強いられている最もつらく非人道的なことのひとつです」とエジプト、アレクサンドリアにある動物病院ペット・ウェルネス・クリニックの獣医師ナダ・シェリフ氏は話す。
「毒を盛られたイヌは、治療して助かる見込みが極めて低いです」
2021年、動物愛護団体と活動家の連合が、毒殺をやめさせるための訴訟を起こした。しかし、エジプトの独立系ニュースサイト「Elmasry Elyoum」によれば、エジプトの行政裁判所はこの訴えを退けた。
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世論の反発を受け、一部の政府機関はバラディ犬を減らすためにTNRを導入し始めているが、獣医局がこの方法を採用しているかどうかは不明だ。
「バラディ犬を根絶することなく個体数を管理するには、80%を対象にTNRを実施し、残りの20%はワクチン接種のみ行い、繁殖させるべきです」とガマル氏は説明する。
「ただし、TNR戦略は体系的に行う必要があります」。だが現在のところ、インパクトを与えるほどの規模では行われていない。
ガマル氏はバラディ犬の飼育と保護施設の運営に必要な費用を賄うため、主にインスタグラムを通じてスポンサーを募集している。イヌのスポンサーになるには、月々1500〜2000エジプト・ポンド(約4700〜6300円)が必要だ。現在、74匹のうち20匹にスポンサーが付いており、その全員がエジプト人だ。
氏の団体がバラディ犬を責任ある飼い主に譲渡したことはまだないが、スポンサーは増えている。
「最近、私たちの文化は変化してきており、かつてないほど多くの人がバラディ犬の里親になっています。バラディ犬の良さを認める人が増えているのです」とガマル氏は話す。
近所で出合ったバラディ犬を飼い始める人もいる。
カイロ在住のオマール・ハマキさんは、野良犬のときに初めて餌を与えたメスのバラディ犬を引き取り、「ディーバ」と名付けた。「彼女は私にありったけの愛情を注いでくれました」
2021年にバラディ犬の子犬を引き取り、「シバ」と名付けたミナ・メダットさんは、今や家族にとってかけがえのない存在だと語っている。「シバは家族のそれぞれに対して異なる接し方をしますが、それが私たち一人一人に合った接し方なのです」
メダットさんはそのうえで、バラディ犬の里親になるのはすべての人にすすめられることではないと強調している。人に対して不安を示すなど、トラウマの兆候が見られるイヌもいるためだ。
一方、バラディ犬の「レイル」を引き取ったホッサム・ホスニーさんは、同じく里親になったゴールデンレトリバーとの違いを実感している。例えば、「レイル」はストレスの多い状況でも落ち着きを保つことができるそうだ。
「バラディ犬は街でいろいろな経験をしているため、より賢いと感じます」とホスニーさんは言う。
バラディ犬がかつてのエジプトのイヌたちが得ていたような地位を認められるには、まだ長い道のりがある。それでも、人気は急速に高まっているため、再び崇拝の対象になる日が来るかもしれない。