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2000m超の山頂の巨像群、「世界八番目の不思議」ネムルト山

  • 2024年9月12日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

2000m超の山頂の巨像群、「世界八番目の不思議」ネムルト山

 トルコ東部のネムルト山の頂上には「世界八番目の不思議」がある。もちろん、その候補のひとつということだが、標高2000メートルを超える山の頂にあるのは、古代の王の墓とされる塚(マウンド)を10体の巨大な像が囲む孤高の聖域だ。古代のギリシャとペルシャ両方の遺産を受け継いだ壮大な石の建造物には、その宗教と埋葬の慣習が色濃く表れている。

 現在のトルコ南東部の山岳地帯に位置するコンマゲネは、ヘレニズム時代はシリア王国(セレウコス朝)の属州だった。ヘレニズム時代をもたらしたアレクサンドロス大王が紀元前323年に死去すると、マケドニア軍の将軍セレウコス1世ニカトールがこの地域を支配する。

 約160年後、コンマゲネの総督プトレマイオスが自らをコンマゲネの王だと宣言し、当時崩壊しつつあったセレウコス朝から独立した。新たなヘレニズム王朝の国王の誕生だ。

 紀元前1世紀、コンマゲネはアナトリア半島の支配を巡って争うローマ帝国とパルティア帝国の緩衝地帯だった。この時期、コンマゲネは黄金時代だった。文化の融合が一般的だったヘレニズム時代のご多分に漏れず、コンマゲネではギリシャとペルシャの文化が融け合っていた。

 紀元前70年から前36年頃にかけて、最も有名な王アンティオコス1世がコンマゲネを統治した。アンティオコス1世はローマ帝国とパルティア帝国の紛争に対して中立を保とうとした。しかし、残念ながら後継者たちはうまくやれず、コンマゲネは数十年後にローマ帝国に併合された。

 今日、コンマゲネはアンティオコス1世がネムルト山(トルコ語でネムルト・ダー)の頂上に建てた壮大な墳墓で名をはせている。ネムルトは、創世記に「強大な狩人」として登場するニムロド王の別名でもある。地元の伝承によれば、ニムロド王はかつてネムルト山の斜面で狩りをしたとされている。

王の記念碑と5体の巨像

 アンティオコス1世が大きな塚を築いたネムルト山は標高約2150メートル。塚の足元には、高さ約3〜9メートルの巨大な石像も建てた。ネムルト・ダーの建設は、芸術的にも物理的にも大きな挑戦だっただろう。

次ページ:5体の巨像のプロフィール

 アンティオコスはまず、自分の墓を守るためと思われる人工の塚を築けるように山頂を段状にした。現在、この塚は高さ約50メートル、直径約152メートルあるが、建設当初は高さ約70メートルもあったとされる。塚に至る道は3本あり、北、東、西に3つの大きなテラスが造られ、そのテラスに像が置かれた。

 今は東と西のテラスの像だけが残っている。両者の特徴はよく保存されており、よく似たグループだ。

 東のテラスでは、5体の座像がそびえ立っている。巨像の背面に刻まれた長い碑文には、それぞれの神について記されている。

 左側の像はアンティオコス1世だ。隣はコンマゲネ王国を擬人化した守護神たる女神で、他の3体ではギリシャ・ローマとペルシャの神々が様々に融合している。

 1つ目の像は、ギリシャ神話の最高神であるゼウスと、ペルシャ神話の最高神であるオロマスデス(アフラ・マズダー)を組み合わせたものだ。2つ目は、アポロン、ミトラス、ヘリオス、ヘルメスの属性を組み合わせている。最後の像では、ギリシャ神話の英雄ヘラクレス、ペルシャ神話の神で王の守護者であるアルタグネス、ギリシャ神話の戦争の神アレスを一体化させている。

 これら5体の主要な像は、ワシとライオンの守護像2対に挟まれている。ワシとライオンは、天と地の権力、つまり神々と人間が支配権を行使する領域の象徴だ。さらに、これらの像の前には大きな祭壇がある。

 東のテラスほど保存状態が良くないが、西のテラスにも同じ像が見られる。石碑にはアンティオコス1世が、ゼウス−オロマスデスやアポロン−ミトラス−ヘリオス−ヘルメスなどのギリシャとペルシャ神話の神々と握手(「デクシオシス」と呼ばれる行為)している様子が描かれている。各像のデザインや属性は文化の融合だけでなく、宗教的・政治的伝統も示している。

 彫刻群は塚の三方で境界線をなしている。アンティオコス1世はその中に副葬品とともに埋葬されたと考えられている。

 その後、埋葬室は何千もの石で覆われて人工的な山頂が形成されたため、考古学者は埋葬室までたどりつけない。アンティオコス1世の遺体は、2000年以上前に埋葬されたときと同じ場所にある確率が高い。

次ページ:霊廟と聖域

霊廟と聖域

 アンティオコス1世の遺跡は、コンマゲネの歴史の中で類を見ないものだ。アンティオコス1世の父であるミトリダテス1世は、ネムルト山の麓にある首都アルサメイアに埋葬された。その墓は塚ではなく、岩の中に彫られたトンネル網の中にある。コンマゲネの王家の塚は、カラクシュ、ウチュゴズ(旧ソフラズ)、セセンクにもあるが、規模ははるかに小さい。

 外観上、アンティオコス1世の墓では、アナトリアの他の君主たちの大きな墓と類似点が多い。ゴルディウムにあったフリギア王ミダスや、サルディスにあったリディア王アリュアッテスの墓などだ。紀元前8世紀から紀元前6世紀に建てられたこれら2つの霊廟は、埋葬室を覆う巨大な土の塚と長い回廊からなる。

 アンティオコス1世は自身の墓に、アナトリアに明確な起源をもつ様式を採用した。しかし、墓の華麗な彫刻の装飾、山頂という比類ない景観、見えやすさにおいて、アンティオコス1世は先祖たちを凌駕した。

 ネムルト・ダーがコンマゲネの王の偉大なる栄光のために建てられたことは間違いない。巨像の背面に刻まれた200行以上の長い碑文の中で、アンティオコス1世は以下のように宣言している。

「私はゼウス−オロマスデス、アポロン−ミトラス−ヘリオス−ヘルメス、アルタグネス−ヘラクレス−アレス、そして我が豊穣の地コンマゲネの神々の神聖な像を建てた。また、我々の祈りを聞く神々と鎮座するように、同じ採石場から、私自身の姿も像にした」

 アンティオコス1世は自らを「正義の神の顕現(テオス・ディカイオス・エピファネス)」と称した。これらはすべて、ヘレニズム時代に東方で発展した神権君主制の特徴だ。

 ネムルト・ダーは単なる霊廟というより、聖なる神殿のようなものだった。上述の碑文の別の部分では、この遺跡は「ヒエロテシオン」と呼ばれている。古代ギリシャ語で埋葬と祭祀の両方の機能を示す言葉だ。遺跡の構造は、宗教的儀式がここで行われていたことを示している。

 塚の足元に通じる3つの道は、儀式の際に使われたのだろう。儀式の詳細も碑文に記されている。

 ペルシャの習慣に従った服装の祭司が、儀式を執り行った。祭司はまず、黄金の冠で像に触れ、民衆からの貢ぎ物を受け取り、祭壇に香料を捧げた。最後に動物の生贄を捧げ、肉が並べられて宴会がおこなわれた。ワインが振る舞われ、音楽家たちが娯楽を提供した。

時の試練

 ネムルト・ダーは、古代ペルシャとギリシャが交差する場所に位置していた。人里離れた場所にあるため、ギリシャやラテンの作家たちに詳しくあらためられることはなかった。

 しかし、この遺跡の栄光は1881年に世界中に知られるようになる。ドイツの技師カール・ゼシュターがネムルト山に登り、目にした彫刻の美しさに魅了されたのだ。アンティオコス1世の統治後の千年間で、遺跡は地震やいくつかの破壊行為によって損傷を受けたが、像や祭壇は依然として畏怖の念を抱かせるものだった。

 19世紀以来、ネムルト・ダーは古代近東で最も有名な遺跡の一つになり、1987年にユネスコの世界遺産に登録された。

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