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900人超が犠牲に、「人民寺院」集団自殺事件とは何だったのか

  • 2024年6月21日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

900人超が犠牲に、「人民寺院」集団自殺事件とは何だったのか

 1978年、南米の国ガイアナで、ジム・ジョーンズというたった1人の牧師のせいで、901人の米国人と8人のガイアナ人が死ぬという事件が起きた。「ジョーンズタウン」でのこの悲劇は、米国史上最大の犠牲者を出した事件の一つに数えられている。

 死亡者と生存者は、同情されるどころか多くの批判を浴びせられ、ジョーンズの教会「人民寺院(ピープルズ・テンプル)」に所属したのは自己責任で、「頭がおかしい人」というレッテルを貼られた。しかし実際には、不満や混乱の時代のなか、ジョーンズタウンの指導者だったジム・ジョーンズは人々の心に響くようなメッセージを語り、多くの信者を獲得することに成功したのだった。

 さらに彼の考え方は、他の公民権運動家によって正当化されていた。ガイアナでジョーンズは、平等で自給自足の社会というビジョンを実現するユートピアを提供した。

 カリスマ性が非常に強かったジョーンズは、多くの米国人が聞きたがっていたことを語った。既存の政治とベトナム戦争に幻滅していた急進派の若者たちは、ジョーンズが推進する社会主義の原則に賛同した。

 黒人も多く集まり、一時はジョーンズの教会の80〜90%が黒人で占められていたほどだった。ジョーンズの活動の大部分は公民権運動に関連し、礼拝スタイルまで伝統的な黒人教会のそれを手本にしていた。ジョーンズ自身、黒人や韓国人の子どもを養子にしていることをアピールし、自らも黒人であると主張した。

 大虐殺に至るまでの数カ月、数年間をたどってみると、ジョーンズタウンに加わった人々の頭がおかしかったわけでも、熱狂的なカルト信者だったわけでもないことは明らかだ。むしろこの人々は、より公正でより良い世界を作ろうと願っていたのであり、ジョーンズタウンはその理想を実現する場を提供していたにすぎない。

 それがなぜ悲劇的な結末を迎えてしまったのだろうか。人民寺院の事件とはいったい何だったのか。

人種平等の理想

 1954年、ジム・ジョーンズは米インディアナ州で、後に人民寺院と呼ばれるようになる教会を開いた。人民寺院は、社会主義、共産主義、キリスト教に基づき、平等を推進して、様々な人種の人々を引き寄せた。ジョーンズはエンターテイナーのような堂々とした振る舞いで人々を改宗させ、心霊治療を行って信者を集めた。

 会員の大部分が黒人で占められていた教会は、人種平等を目指し、黒人の宗教的伝統を取り入れた。これに関して、ジョーンズタウンと人民寺院についての著書のある学者のレベッカ・ムーア氏は、「文化的にも人種的にも黒人の運動だった」と指摘する。

 ジョーンズのカリスマ性とビジョンは、俳優のジェーン・フォンダや公民権運動家のヒューイ・P・ニュートンといった著名な活動家の注意を引き付けた。カリフォルニア州サンフランシスコの政治団体にも支援され、1965年に、人民寺院はサンフランシスコに移転する。

ガイアナの密林への移住

 ところが、一連の報道でジョーンズの心霊治療の嘘が暴かれ、さらに虐待の疑いが持ち上がると、ジョーンズはこれを米国が人民寺院と自分を貶めようとしている兆候だと感じるようになる。ジョーンズの薬物使用がその疑心暗鬼をさらに強め、政府は教会を狙っているとか、ファシストに転向しようとしているなどと思い込んだ。

 やがてジョーンズと教会指導部は、自分たちの未来は米国外にしかないと確信する。

 1974年、人民寺院はガイアナの密林に土地を取得した。ガイアナの公用語は米国と同じ英語であり、人種もアフリカ系、アジア系、先住民族の子孫などが入り混じっていたことから、多人種のユートピアを作るには最適の場所だと、ジョーンズは信じた。そして、ここで自分たちの価値観を生きるための農業コミューンを建設する計画を立てた。

 1977年夏、ジム・ジョーンズは人民寺院の教会員たちを大量に引き連れてガイアナに移住した。

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ジョーンズタウンでの暮らし

 1978年11月には、ジョーンズタウンの人口は1020人にまで膨れ上がっていた。ムーア氏によると、最も多かったのは黒人女性と女児で、全体の人口の45%を占めていたとされる。男性もあわせると、黒人は68%を占めていた。また、コミューンの大部分が若者で、35歳以下が63%、12歳未満の子どもは152人だった。

 調理人、大工、エンジニアなど、全ての人が何らかの役割を担っていた。教師は子どもを中心とした指導を行い、数学、国語、ガイアナの歴史などを教えていた。年齢が高い生徒たちは、職業訓練プログラムに参加した。

 敷地内には発電機が設置され、寮のようなキャビンと共同キッチン、図書館、医療センターなどがあった。オーディオシステムも整い、敷地内ではしばしば拡声器からジョーンズがアナウンスする声が響き渡っていた。

 毎晩のように開かれる参加必須の集会のほか、住人たちはスポーツ、ダンスと音楽、映画鑑賞など様々な活動に参加した。

 最初の頃、一部の人々はジョーンズタウンでの生活を楽しんでいた。「電気が引かれ、きれいな住宅に無料で住むことができました。必要な食料も全て供給され、医療も充実していました」と、人民寺院の会員だったユランダ・ウィリアムズさんは振り返る。「本当に素晴らしい場所でした。安全で安心できるユートピアでした。よりよい生活を実現し、お互いに助け合う幸せな大家族だったのです」

ユートピアの終わり

 しかし、ジョーンズタウンはジム・ジョーンズが約束したようなユートピアではなかった。

 グレース・ストーンさんは、ジョーンズタウンが建設される前に人民寺院を離れたが、それでも内部で起こっていたことを伝え聞いていた。「人々がひどい扱いを受けているという話を耳にするようになりました。ジムは、人々の生活を惨めにし、脅したり支配したりしていました」

 平等という福音を説いていたはずのジョーンズは、自らをジャングルの王国の支配者にまつり上げた。全員のパスポートを取り上げ、ジョーンズタウンから逃げられないようにした。

 誰も、ジョーンズの許可なしに交際したり別れたりすることはできなかった。規則を破った者は村八分にされ、ある証言によると、子どもたちを森のなかの木に縛り付けたり、女性の足にヘビを巻きつけたりしたこともあったという。

惨劇の始まり

 ジョーンズの被害妄想はますます悪化し、ジョーンズタウンはいつか軍隊に襲われるだろうと信じ込むようになった。そして、集団自殺だけが唯一の道であると主張し、住人を集めて毒を飲むよう命令した。

 ただし、本当に毒が入っていたわけではない。人々の忠誠心を試し、この先起こることに備えさせることが目的だった。

 住人たちは、素直に命令に従った。カリフォルニア州にいた頃からこのような自殺訓練を行っていたため、感覚が鈍っていたのかもしれない。

 1978年11月18日、ジョーンズはついに、それまで訓練してきたことを実行に移すよう指示した。レオ・ライアン米下院議員がジョーンズタウンを調査訪問した後、ジョーンズは終わりの時がやってきたと判断し、シアン化物入りの飲料を飲むよう信者に迫った。

 なかには進んで飲んだ者もいたかもしれないが、多くの人は抵抗すれば殺されると思って仕方なく飲んだのだろう。子どもも含め、強制的に飲まされたり、注射されたりした人もいた。

 コミューンに沈黙が降りたとき、900人以上の男女と子どもたちが亡くなっていた。

後編「「人民寺院」事件の無惨な現場、約束の地は一瞬で地獄に変わった」を読む

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