1770年代初頭まで、天体観測といえば肉眼で見える太陽や月や惑星を観察するのがほとんどだった。しかしウィリアムとカロライン・ハーシェル兄妹は、自身が改良した望遠鏡を駆使して、太陽系の外にある恒星や星雲を初めて体系的に観測し、近代的で科学的な天文学の方向性を決定づけた。
兄妹は、ドイツのハノーファーの音楽一家に生まれた。庭師の子からオーボエ奏者になった父イザークは、出世の手段として10人の子どもたちに音楽教育を施した。第4子のウィリアムは、オーボエ、バイオリン、オルガンを習得し、父と同じ音楽の道に進んだ。
フランスとの七年戦争がハノーファーに迫ると、1758年、20歳になるウィリアムは英国のロンドンに逃れ、音楽教師や演奏家として働き、1766年にはロンドンから西に約150キロのところにある、バースの教会のオルガン奏者になった。
当時、急成長を遂げていたバースは、知的活動も非常にさかんだった。ウィリアムはバース哲学協会に入会し、講義や討論や読書を通じて最新の科学的知見を吸収した。彼は音響学と数学の関係について研究し、その関心は、物理学、光学、そして天文学へと進んでいった。彼は音楽を愛していたが、天文学ほどではなく、彼は「天の構造」を知ることをみずからの使命と定めた。
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1770年代初頭、望遠鏡の設計の研究を始めていたウィリアムは、音楽と天文学を両立させるため、12歳下の妹をバースに呼び寄せた。父親の死後、母親の世話をしながらハノーファーでひっそりと暮らしていた22歳のカロラインは兄の申し出を喜んで受け、1772年に英国に到着した。彼女も優れた音楽家で、ハープシコードを弾き、歌を歌った。
カロラインは音楽の勉強を続けながら、家事をこなし、兄のそばで働いた。やがて彼女も夜空に魅了されるようになり、兄の天文学の知識を吸収していった。2人は作業を分担し、ウィリアムは観測を、カロラインは天体の分類と位置の計算を行った。天文学における数学的アプローチへの重要な一歩は、こうして踏み出された。
翌年、当時の望遠鏡の性能に不満を抱いたウィリアムは、自分で設計した望遠鏡を製作することにした。望遠鏡の製作はチーム作業だ。多くの部品を、さまざまなところから調達しなければならない。接眼レンズ、マイクロメーター、鏡筒などの製作には、熟練した職人が必要だった。
当時はガラス製の大きな鏡がなかったため、大型の望遠鏡を製作するには金属製の鏡を研磨する必要があった。カロラインは回顧録の中で、ウィリアムの作業への没頭ぶりをこう記している。「私は、ほとんどの時間を写譜と音楽の練習と兄の世話に費やしていた。兄は研磨を始めると寝食を忘れてしまうので、兄の口に食べ物を入れることさえあった」
2メートルにもなる鏡を仕上げるときには、彼は16時間も研磨を続けていたという。1779年の終わりには、ウィリアムの設計が非常に優れていることが実証され、彼は一流の望遠鏡製作者とみなされるようになった。
その2年後、二重星(地球から観察すると近くにあるように見える2つの星)を調べていたウィリアムは、かすかに見えている天体に目をとめた。その天体は、数夜にわたって、背景の星に対してゆっくりと移動していた。最初は彗星かと思ったが、さらなる観測を行い、同僚に確認してもらったところ、新たな惑星であることがわかった。天王星だ。
太陽系の惑星のうち、肉眼で見える水星、金星、火星、木星、土星は、はるか昔から知られていたが、天王星は、望遠鏡を使って発見された最初の惑星だった。この発見により、ウィリアムは国際的な名声を得た。彼はナイトの称号を与えられ、英国王ジョージ3世から宮廷天文学者に任命され、ウィンザー近郊に住み、国王が星を見たいと思ったときにいつでも対応できるようにするという条件で、年間200ポンドの俸給を得ることになった。
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ウィリアムとカロラインは、バースでの音楽家としてのキャリアを捨て、天文学者としての人生を歩むために、ウィンザー城の近くに引っ越した。1783年、彼らは星雲や星団などの遠方の天体を見つけるために、望遠鏡の接眼レンズをのぞき込んで地平線から天頂までの空をしらみつぶしに観察しはじめた。20年にわたる画期的な掃天観測の始まりだ。それは、骨の折れる作業だった。ウィリアムは視線をそらすことができず、カロラインは兄の観測を何時間も記録し、測定値や角度を確認した。
その間、カロライン自身も掃天観測を行い、独自の発見をしていた。最初の発見は、1783年2月に見つけたおおいぬ座の散開星団NGC 2360で、今も「カロラインの星団」と呼ばれている。その年の夏には、アンドロメダ銀河の衛星銀河であるNGC205を発見し、同年末には、「カロラインのバラ」と呼ばれるカシオペア座の散開星団NGC 7789も発見した。
1786年8月、カロラインは女性として初めて彗星を発見し、歴史にその名を刻んだ。この発見について記した王立協会への手紙の中で、彼女は、「あなたが兄のお友達でいらっしゃることは存じておりますので、兄の不在中に、彗星に関する不完全な報告を送りつけてあなたを悩ませることにいたしました」と書いている。自虐的な文面にもかかわらず、彼女の業績はすぐに認められた。翌年、ジョージ3世はカロラインが果たした重要な役割を認め、年に50ポンドの俸給を与えた。こうして彼女は、天文学者として給与を得た最初の女性となった。
ハーシェル兄妹の功績を研究しているエミリー・ウィンターバーン氏によると、カロラインのユニークさは、重要な科学的進歩をもたらした点だけでなく、「自分の仕事を認めてもらう能力」にもあったという。ウィリアムが妹の研究を公に認めていたことが、カロラインが科学界から受け入れられる一助となったのは確かだが、カロライン自身も、科学的厳密さと自分の魅力や社交術を組み合わせて、男性の同僚から支持を得る方法をよく知っていた。この高度なバランス感覚が「素晴らしい成果をもたらした」とウィンターバーン氏は書いている。
1787年、ウィリアムの望遠鏡によって天王星の衛星が発見され、その2年後には土星の新しい衛星が発見された。1788年にウィリアムが結婚すると、兄妹の間に緊張が走ったが、2人は協力して掃天観測を続けた。彼らは英国南部から見えるほぼ全天を観測し、星雲、星団、銀河など2500個の新しい天体を発見した。彼らの発見は『星雲と星団のカタログ』として出版され、今日使われている『星雲と星団の新一般カタログ(NGC)』の基礎となった。
カロラインは、1822年に兄が死去するまで共に研究を続け、その後ドイツに帰国した。彼女はウィリアムの星雲と星団のカタログ3冊を改訂し、その業績により、1828年に女性として初めて天文学会から金メダルを授与された。カロラインは1848年に死去した。彼女の墓碑銘には、こう記されている。「この世で栄光を讃えられた彼女の目は、星をちりばめた天に向けられていた」