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若い女性600人を殺害「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベト

  • 2022年11月13日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

若い女性600人を殺害「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベト

 血と拷問とセックスに彩られたその陰惨な物語は、近年の研究により、さまざまな議論の的となっている。ハンガリーの伯爵夫人バートリ・エルジェーベト(1560〜1614年、エリザベート・バートリとも)の人物像については諸説があり、殺人にとりつかれた狂人とされる一方で、彼女の財産を狙う家族や敵対者によって罪を着せられた犠牲者とも言われる。

 バートリは一般に、史上最も多くの人を殺した女性連続殺人犯であるとされ、豪奢な城の中で600人以上の若い女性を殺したと言われている。伝承によると、バートリは処女の血に自分の体を浸すことで永遠の若さを保つことができると信じていたという。しかし現実には、それによって長く保たれたのは本人の汚名であった。残酷な行為を好んだとされるバートリにインスピレーションを得て、これまでにいくつもの映画、演劇、オペラ、テレビ番組、ゲームが生み出されてきた。

 しかし最近では、長く信じられてきたこの物語に疑問を呈する研究者もいる。バートリが犯したとされる罪は、彼女に対する陰謀によって誇張されたものである可能性が高いというのが、彼らの意見だ。

血の痕跡

 ハンガリーの首都ブダペストから東に約270キロ離れたニールバートルの街で「バートリ城と蝋人形博物館」を訪ねれば、バートリに会うことができる。バートリの生家であった城を改修した建物に入っているこの博物館には、バートリとその親族たちの人形が飾られているのだ。バートリは1560年、現在はルーマニアの一部となっているトランシルバニアを支配した富裕な名家に生まれた。

 バートリの恵まれた生い立ちにはしかし、暴力と病気がつきまとっていたと語るのは、2018年にバートリに関する研究論文を発表したポーランド、ウッチ大学のアレクサンドラ・バルトシェビッチ氏だ。「4、5歳のときにはすでに、バートリはてんかんのような発作や激しい気分の変動、ひどい片頭痛に悩まされていました」と氏は言う。

 バートリの周囲にはまた、残虐な行為があふれていた。この時代、使用人が殴られるのは日常茶飯事であり、彼女は6歳で公開処刑も目撃している。13歳のとき、バートリは同じくハンガリーの名家出身である18歳のナーダシュディ・フェレンツ伯爵と婚約する。そして2年後に結婚し、4人の子をもうけた。

 新婚のころ、夫婦はハンガリー西部のシャールバールに居を移し、ナーダシュディはそこで妻に拷問を教え込んだ。ナーダシュディ城は数々の残虐行為の舞台となったと、バルトシェビッチ氏は言う。バートリを喜ばせるために、ナーダシュディは少女を拘束し、その体にハチミツを塗って昆虫に襲わせたという。ナーダシュディが妻に贈ったかぎ爪のついた手袋は、使用人がミスをした際の折檻に使うためのものだった。こうした悪行に拍車をかけたのが、バートリのおばのクララであり、彼女はバートリを乱交の集まりへ連れていき、また魔法使い、魔女、錬金術師だという怪しげな人々と引き合わせた。

 バートリが最悪の残虐行為を重ねた場所は、こことはまた別の城砦の中だった。今では不気味な観光名所となっているチェイテ城跡は、現在はスロバキア領にあり、首都のブラチスラバの北東約80キロの丘の上からチェイテの街を見下ろしている。この高台から驚くべき噂が街へと流れ出したのは、1600年代初頭のことだった。

 バートリがチェイテに居を移したのは、夫が死んだ後の1604年。使用人に対する彼女の扱いの残酷さは広く知られるようになり、地元の人々は自分の娘がバートリに仕えることがないよう、その存在を隠していたと、英キングスカレッジ・ロンドンの言語学者で、1998年に書籍『Countess Dracula: The Life and Times of Elizabeth Bathory(ドラキュラ伯爵夫人:バートリ・エルジェーベトの生涯と時代)』を出版したトニー・ソーン氏は言う。

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 バートリの破滅を招いたのは、彼女が虐待の対象を上流階級にまで広げたためだと語るのは、米ワシントン州にあるハイラインカレッジ歴史学部のレイチェル・ブレッドソー氏だ。「農奴や使用人を殺すことは、ひどい行いではあっても、貴族にとって違法というわけではありませんでした。しかし、自分と同じ貴族を殺すことは、たとえ相手の地位が低かったとしても、はるかに深刻な問題であり、不問にできるものではなかったのです」

 そしてついに1610年、ハンガリー王マーチャーシュ2世(神聖ローマ皇帝マティアス)により、チェイテ城での数十件の不審死と失踪の捜査が開始された。大勢の目撃者の証言があったことから、バートリは80人の若い女性を殺害した罪で逮捕され、チェイテ城に監禁されたと、ブレッドソー氏は言う。目撃者の中には、犠牲者の数は600人を超えると言う者もいた。それでも、バートリは有罪判決を受けずに終わり、代わりにバートリの使用人4人が、城内での若い女性に対する暴力で有罪となった。伯爵夫人はそのままチェイテ城に幽閉され、1614年に54歳で亡くなった。

 チェイテ城にはその後も、100年近くにわたって貴族たちが滞在した。今日では、旅行者はこの悪名高い城のガイドツアーに参加したり、チェイテにある邸宅でバートリ・エルジェーベトに関する展示を見学したりすることができる。街の広場には、バートリの木製の像も立っている。

 バートリの物語は、彼女の死後、何世代にもわたってチェイテの街に語り継がれていたが、この話がより広く知られるようになったのは、1744年、イエズス会の司祭ラースロー・トゥローツィが、ハンガリーの歴史についての本の中でおぞましい描写を交えて紹介したときのことだと、ソーン氏は言う。現代まで残る伯爵夫人の伝説は、この一片のセンセーショナルな記述に大きな影響を受けている。

伝説の真偽

 ソーン氏によると、1980年代に、この筋書きに異論を唱える者が現れ始めた。スロバキア人の文書館員ヨセフ・コチス氏は、1982年に出版した著書の中で、バートリの生涯の新たな側面について詳述しており、それ以降、複数の研究者がこれを、バートリに対する陰謀の可能性を示す証拠として挙げている。中には、バートリは「身を守るすべのない未亡人」であったと表現する者までいるほどだ。著名なスロバキア人映画監督ユライ・ヤクビスコ氏は自身の公式サイトで、2008年に制作した映画『アイアン・メイデン 血の伯爵夫人バートリ』では、彼女をまさにそうした「従来の伝説とは正反対」の人物として描いていると述べている。

 一方で、バルトシェビッチ氏やソーン氏のように、もう少し控えめな意見を持つ者もいる。バートリの犯罪は、彼女の信用を落とすために誇張された可能性が高いと、彼らは考えている。陰謀を企てたのは彼女の親族と、当時オーストリアや西ハンガリーを含む欧州の広い範囲を支配していたハプスブルク家だ。

 ハプスブルク家出身の王マーチャーシュ2世は、バートリに多額の借金をしていたため、彼女の死によって利益を得たと、バルトシェビッチ氏は言う。この王はまた、バートリを政治的な脅威とみなしていた。西ハンガリーの支配権を狙うバートリの従兄弟ガブリエル・バートリを、彼女が支援するのではないかと考えたのだ。

 バートリを監禁することで利を得た中には、敵対者だけでなく、彼女に親しい者もいたと、ソーン氏は言う。バートリが幽閉されるやいなや、娘のひとりは母親の財産から貴重品を持ち出し、また義理の息子たちは、バートリの死を待たずに遺産を手に入れようと躍起になった。

 ブレッドソー氏はしかし、バートリが陰謀の犠牲になったという説には懐疑的だ。氏によると、バートリの夫が死んだとき、その領地と債権を引き継いだのは彼女の息子たちだったという。

 事の信ぴょう性はどうあれ、大量殺人を犯した伯爵夫人の不気味な伝説は、今後も消え去ることはないだろうと、ソーン氏は言う。

「人間は、われわれの人生を形作る劇的な力の象徴、アイコン、化身を必要としており、罪悪感があろうとなかろうと、非凡な人間の度を越した行為にスリルを覚えるものです」とソーン氏は言う。「男性が壮大な悪行を為す例はたくさんあります。しかし、邪悪な女性として知られる人はごくわずかです。バートリは、恐怖に関して人々が抱くイメージにおけるギャップを埋める存在なのです」

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