サイト内
ウェブ

マダニからうつる危険な感染症が急増、15年間で倍以上に、米国

  • 2022年7月25日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 ニコール・マラコウスキーさんはパワフルな女性だった。米空軍士官学校を卒業後、F-15E戦闘機のパイロットとしてイラクに派遣され、第333戦闘飛行隊長を経て、空軍のアクロバット飛行チーム「サンダーバーズ」初の女性パイロットとなった。既婚者で双子の母親でもある。

 異変が始まったのは2012年、夏かぜのような症状とともに発疹が出たときだった。軍医はクモに噛まれたのだろうと診断し、外用クリームを塗って抗生物質を処方した。しかし発疹は腰全体に広がり、精神と肉体は数カ月間で急激に衰えていった。激しい疲労を感じ、動作がぎくしゃくし、精神が混乱し、読み書きさえ困難になったのだ。ある医師は多発性硬化症を疑い、別の医師は心理療法士のところに行くよう勧めた。

 発病から4年の歳月と24人の医師を経て、ようやく正しい診断がついた。彼女はマダニが媒介する3つの細菌感染症(ライム病、アナプラズマ症、マダニ媒介性回帰熱)と、マダニが媒介する寄生虫感染症であるバベシア症にかかっていたのだ。彼女は抗菌薬と抗寄生虫薬を大量に投与され(一部は心臓に直接投与された)、1年間の理学療法を受けたことで、いくらか回復することができた。しかし空軍パイロットとしての輝かしいキャリアは終わった。

 これは極端なケースだが、米国では現在、マダニ媒介感染症が増えており、公衆衛生上の懸念が増大している。

マダニ媒介感染症

 マダニはクモに似た小さな節足動物で、多くの有害な細菌や寄生虫やウイルスを保有している。マダニが人間の血液を吸う際にこれらの病原体が体内に入ると、各種の感染症を引き起こすことがある。マダニが媒介する感染症は、米国ではライム病をはじめとする16種類以上が確認され、世界ではさらに多くが知られている。

 米国でマダニが多いのは北東部と北中西部だが、その分布は変化しつつある。気候変動によって冬が温暖になったことで、マダニの生息域が北に広がり、活動期もより早く始まり、より長く続くようになったのだ。また、広がり続ける郊外は、病原体の主な保有生物であるシロアシネズミと、マダニの主要な宿主であるシカにとって理想的な生息環境だ。

 マダニへの警戒心が薄い都市部で噛まれる人も増えている。北東部では、ハイキングよりも、庭仕事や犬の散歩中に噛まれる人の方が多くなった。

次ページ:「公衆衛生に対する重大な脅威」、すでに「流行」との指摘

 ライム病の報告例は、この15年でじわじわと増加している。しかし、民間保険の請求データに基づく最近の研究によると、症例数は過小報告されている可能性が高く、米国での実際のライム病感染者は年間約47万6000人、医療費は最大で10億ドル(約1400億円)にのぼるとみられることが、2022年5月11日付けで米疾病対策センター(CDC)が発行する医学誌「Emerging Infectious Diseases」に発表された(編注:日本では4類感染症で、2018年までの20年間の報告数は231例)。

 マダニの専門家で米国立アレルギー感染症研究所の客員研究員であるダニエル・ソネンシャイン氏は、「米国のマダニ媒介感染症は流行(エピデミック)の域に達しており、公衆衛生に対する重大な脅威となっていることを、市民は理解する必要があります」と言う。

 目下の課題は、マダニに対する警戒心が薄い市民の意識を高めたり、早期に症状に気づく医療専門家を増やしたりすることだ。16種類のマダニ媒介感染症の中には、まれな疾患や、新しく発見された疾患や、診断が困難な疾患もある。インフルエンザのような症状や発疹を呈する人は多く、他の病気と間違えられやすい。複数の病原体に重複して感染している場合は、診断はさらに難しくなる。

 マダニ媒介感染症の診断さえつけば、そのほとんどに有効な治療法があり、いくつかにはドキシサイクリンという同じ抗菌薬が使える。しかし、高齢者や免疫力が低下している人は、深刻な状況になるおそれが高い。治療をしても不思議と悪化するケースもあり、ソネンシャイン氏は「治療することは重要ですが、十分ではありません。重症化する人や命を落とす人もいます」とくぎを刺す。

 ライム病に感染すると、適切な治療を受けた場合でも1〜2割は「治療後ライム病症候群」になり、慢性的な関節痛、心臓病、神経障害、記憶障害、激しい疲労感などの症状がいつまでも続く可能性がある。一方で、治療後ライム病症候群であることを確認する指標となる物質や検査項目が特定できていないため、この疾患が実在するのかどうかについては今も論争が続いている。

 研究者たちは、治療後ライム病症候群と新型コロナ後遺症には、特に炎症と自己免疫の問題に関して類似点があるかもしれないと考えている。そのため、現在集中的に進められている新型コロナ後遺症の研究から、ライム病による慢性症状に関する知見が得られることが期待されている。これは2016年に米国議会が設置したダニ媒介感染症作業部会の焦点となっており、2022年の年末には新たな報告書が発表される予定だ。

次ページ:どうすれば予防できる?

マダニ媒介疾患を予防する

 米国では、節足動物が媒介する感染症(ベクター媒介感染症)の報告例のうちマダニ媒介感染症が77%を占める。にもかかわらず、研究や研究資金は蚊が媒介する感染症に比べてはるかに少ない。また、昔のライム病ワクチンが2002年に販売不振で製造中止になって以降、マダニ媒介感染症ワクチンの開発は行われていなかった。

 だが近年になってワクチン開発が再開され、2022年4月には米ファイザーとフランスのバルネバが、共同開発したライム病ワクチン候補の第2相臨床試験を完了したと発表した。さらに、米エール大学の研究者もmRNA技術を用いた別のワクチンの開発に取り組んでいる。とはいえ現段階では、マダニに噛まれないようにすることが一番の予防策だ。

 厄介なのは、マダニに噛まれても気づきにくいことだ。マダニの口は特殊な構造をしているうえ、唾液には驚くほど多くの種類の化学物質が含まれているため、マダニは噛み付いてから何日間も気づかれずに血を吸い続けることができる。マダニの唾液には、痛みやかゆみを和らげる物質や、皮膚組織を破壊して吸血用の穴を広げる酵素が含まれている。皮膚に貼り付くためのセメント様物質や、血液が固まるのを防ぐ抗凝固物質のほか、宿主の免疫系を沈黙させる化学物質もある。

 マダニに噛まれないようにするには、どうすればよいのだろうか? CDCは、春から秋にかけてのダニが多い時期には、次のようにするよう推奨している。米環境保護局(EPA)が認可した有効成分を含む虫除けスプレーを使用すること(編注:日本の厚生労働省はディートとピカリジン(イカリジン)を有効成分としている)。足全体を覆う靴を履くこと。ペルメトリンという殺虫剤で処理した長ズボンを着用し、その裾を同じく殺虫剤で処理した靴下に入れること。

 また、ハイキングの際には、マダニが多い道端ではなく道の真ん中を歩くようにする。茂みや草地、落ち葉がたまった場所は避けること。庭仕事や犬の散歩といった日常の活動でも、これらのマダニ対策を忘れないようにしたい。室内に戻ったら、衣類を乾燥機に入れ、すぐにシャワーを浴びて、体にマダニがついていないかチェックしよう。

 もし皮膚に噛みついているマダニを見つけたら、ピンセットを使って皮膚に近い部分をつかみ、ひねらないようにまっすぐ引き抜き、アルコールまたはせっけんと水で噛まれた部分を洗浄する(編注:日本の厚労省は医療機関(皮膚科)での処置(マダニの除去、洗浄など)を推奨)。とれたマダニはポリ袋に入れて冷凍庫で保管し、万が一、症状が出た場合には検査に出せるようにしておくとよい。発熱や発疹がある場合は病院に行こう。

あわせて読みたい

キーワードからさがす

gooIDで新規登録・ログイン

ログインして問題を解くと自然保護ポイントが
たまって環境に貢献できます。

掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。
(C) 2022 日経ナショナル ジオグラフィック社