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コロナ感染実験に協力する若者たち、「ヒトチャレンジ試験」とは

  • 2022年7月3日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 ポール・ジマー・ハーウッドさんはタフなチャレンジャーだ。2016年、24歳のときには、ドイツ、ギュータースローにあるプールで、40キロあまりを18時間かけて泳ぎ切った。2019年には、モロッコ南部の砂丘や干上がった川床を6日間かけて走るウルトラマラソンを完走した。同じ年、英オックスフォード大学の神経科学の博士課程に入学したジマー・ハーウッドさんは、命を落としかねないマラリアに対するワクチン試験のために、この病気に感染した蚊に刺されることを自ら志願した。

 2021年半ば、科学者たちが新型コロナウイルスに意図的に曝露(ばくろ)させる健康な若者を募っていた。「心の中で、すぐにやろうと思いました」とハーウッドさんは言う。科学の進歩に貢献したいというのもその重要な動機ではあったが、自分の時間や苦痛と引き換えに約6000ドル(80万円強)が補償されるという条件も悪くなかった。

 ジマー・ハーウッドさんは、試験当時はワクチンを接種していなかったものの、過去に新型コロナウイルスに感染したことがあった。「そのせいで怖さは多少軽くなりましたが、いずれにせよ自分は間違いなく志願しただろうと思います」

 オックスフォード大学のこの研究は、健康な人間を新型コロナウイルスにさらすことが承認されている、世界でわずか2件のうちの1件だ。コロナへの再感染を防ぐ免疫レベルを見定めるのに役立ち、またより優れたワクチンや治療法につながる可能性がある。

 英インペリアル・カレッジ・ロンドンの研究者たちが主導するもう一方の研究は、感染歴がなく、ワクチン接種もしていない若者たちが最初のウイルス株に曝露した場合、感染から守られているように見える者がいる理由を探るものだ。同研究はまた、症状が現れたり現れなかったりする理由も解き明かそうとしている。

「こうした研究は、感染の正確な時期を把握できるため、観察研究からは得られない病気のプロセスに関する科学的知見につながる可能性があります」と、米ハーバード大学医学部の免疫学者・ウイルス学者のダン・バルーシュ氏は言う。

「いちばん恐ろしいこと」

 2021年2月に、インペリアル・カレッジ・ロンドンの感染症内科医・免疫学者のクリストファー・チウ氏らが、18〜30歳の健康な志願者を募集したところ、2万6937人もの応募があった。

 研究者らはまず、新型コロナが重症化する可能性のある人たちを除外した。たとえば、肥満度指数が高いあるいは低い、血液や肺の検査で異常が見られるといった基礎疾患を持つ人たちだ。その後数カ月かけて志願者は36人にまで絞り込まれ、研究チームは彼らをウイルスに曝露させた。

 アラステア・フレイザー・アーカートさんは、新型コロナに感染したことはなかったが、2020年、非営利団体「ワンデースーナー」がワクチンの開発を加速させるチャレンジ試験を促すために先行してつくった志願者リストに名前を登録しておいた。そして2021年、インペリアル・カレッジ・ロンドンが実際に募集を始めると、19歳だった彼は参加者に選ばれた。科学の名のもとに試験に参加し、新型コロナで命を落とした数百万人の人たちに敬意を表したかったのだと、フレイザー・アーカートさんは言う。

 ウイルスを少し含んだ透明な液体が鼻に落とされたとき、これは自分が「これまで経験した中でいちばん恐ろしいこと」だと、フレイザー・アーカートさんは感じたという。

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 チウ氏のチームはウイルスの曝露後、症状が軽くなるまでの少なくとも14日間にわたって、フレイザー・アーカートさんの感染状況を12時間ごとに観察し、採血を行い、鼻やのどをぬぐい、複数の検査を行った。研究の最初の報告は、査読前の論文を投稿するサイト「Nature Portfolio」に2022年2月1日付けで発表された。

「現在は、これらのサンプルの詳しい分析を行っているところです」とチウ氏は言う。氏が特に興味を持っているのは、研究に参加した36人のうち、なぜ半数近くに症状が現れなかったり、あるいは抗体ができなかったりするのか、その理由を解明することだ。

 チウ氏のチームは今後数カ月のうちに、その原因を解明するべく、昨年の夏にワクチンのブレークスルー感染を急増させたデルタ株にワクチン接種済みの人たちを曝露させる研究を始める予定だという。

インフルエンザやコレラでも

 ヒトチャレンジ試験は、新型コロナのパンデミックをきっかけに行われるようになったわけではない。マラリア、インフルエンザ、コレラなどの感染症について詳しく知り、ワクチンを試すために、科学者たちはこうした研究を何十年も前から実施してきた。

「正体が明らかな病原体があり、病気の経過もよく理解されていて、チャレンジ試験を行う研究者が、参加者を長期の深刻な症状から確実に守れる場合」、ヒトチャレンジ試験が物議を醸すことはあまりないと、米シカゴにあるルーリー小児病院の医療倫理専門家シーマ・シャー氏は言う。

 たとえば2015年、ある研究グループが、46人の健康な参加者をインフルエンザウイルスに曝露させた。その目的は、参加者の少なくとも60%に、軽症から中等症のインフルエンザ感染を引き起こすのに必要なウイルス量を見定めることだった。この知識は、ワクチンの効果を調べるさらなるヒトチャレンジ試験を行う際に役に立った。

 感染を引き起こす安全かつ効果的な病原体の量の特定が、研究を進めるうえでの第一歩となることは少なくないと、米メリーランド大学のワクチン学者キャスリーン・ヌージル氏は言う。

 たとえば2016年、「ヴァクスコラ」と呼ばれる経口ワクチンが、健康な成人のコレラへの感染を防げるかどうかを確かめるために、米国の科学者らがヒトチャレンジ試験を行った。研究の参加者たちをワクチン投与から10日後あるいは3カ月後にコレラ菌に曝露させた結果、このワクチンは、投与を受けた人の重度の下痢を80〜90%減らしていた。論文は2016年3月に医学誌「Clinical Infectious Diseases」に発表された。

 コレラは米国では珍しい病気であるため、「大規模なフィールド試験を行えないのです」と、ヌージル氏は言う。この研究結果を受け、米国食品医薬品局(FDA)は、世界のコレラ感染地域に渡航する18歳から64歳の成人のために、米国で唯一のコレラワクチンとなるヴァクスコラを承認した。

 新型コロナウイルスのヒトチャレンジ試験でチウ氏らを驚かせたのは、感染した経験がなく、ワクチンも接種していない参加者の約半数を感染させるウイルスの量がいかに少ないかということだった。「ほかのウイルスを使った同様の研究結果に基づいて、同じぐらいの感染率を達成するためには、少なくともこの10倍以上のウイルス量が必要になるだろうと予想していました」と氏は言う。「ですがこれは、参加者が免疫を持っていなかったという事実と、ウイルスの非常に感染しやすい性質が組み合わさった結果です」

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 その一方で、少ないウイルスを使い、病気に弱くない人々を対象にしていたとしても、新型コロナのヒトチャンレンジ研究は正当化されないと主張する科学者もいた。なぜなら、最初の実験が行われた2021年の初めの頃は、信頼に足る治療法が存在しなかったからだ。「あれらの試験が、実施された時点でほんとうに倫理的に正当なものだったのかどうかについては、今も議論があります」とシャー氏は言う。

 それではなぜ、2022年にまだ新型コロナのヒトチャレンジ試験を続けるのだろうか。

尽きない利点

 2021年初頭に比べて、今では多くの人たちがワクチンを接種しており、新型コロナが重症化する可能性は低くなっている。万が一重症化した場合でも、症状の緩和に役立つ治療法もいくつかある。とはいえ、ワクチンの追加接種まで済ませた人たちの間で、新たな変異株によるブレークスルー感染はますます一般的になりつつある。

 ヒトチャレンジ試験は、明らかなリスクはあるものの、過去の感染やワクチン接種による免疫の持続期間や、ワクチンやその他の治療の効果を評価する際に、抗体に代わる指標があるかどうかを調べるのに適切かもしれないと、米ラトガーズ大学の生命倫理学者ニーア・エヤル氏は述べている。

 動物を使って同様の試験を行った結果は、病気や治療への人間の反応を正確に反映していない可能性がある。

 チャレンジ試験のもうひとつのメリットは、科学者が感染前後の免疫系の様子を把握できる点にある。そうした情報は、ウイルス曝露後の感染や発症を防げる免疫系の要素を特定するうえで役に立つ。

 しかしながら、こうした研究の認可取得や下準備には、場合によっては何カ月もの時間がかかる。「変化をし続けるコロナウイルスやインフルエンザウイルスであれば、事がいっそう厄介になります」とヌージル氏は言う。チャレンジ試験で安全かつ効果的なウイルス量が明らかになるころには、また別の変異株が現れて、そのウイルスでの量を新たに見極めなければならなくなる。「これこそが最大の難関のひとつなのです」と氏は言う。

 一方でチャレンジ試験は、従来の臨床試験のように何万人もの協力者を必要としない。おかげで、新たなワクチンや治療法の開発と試験を速め、また研究費用も削減できる可能性がある。

 バルーシュ氏はしかし、そうした研究は大規模な臨床試験の代わりにはならないと主張する。「ヒトチャンレンジ試験は本質的に、小規模かつ非常に厳選された集団であり、そのメンバーはほぼ確実に若くて健康な人々です。それでは人間という種の幅広さと多様性をとらえることはできません」

 現在、新型コロナ感染症のヒトチャレンジ試験は英国のみで認可されている。「今なら、米国でこうした試験をするうえでのリスクと利益について、説得力のある主張をすることができると思います」とヌージル氏は言う。それでも、健康な若い参加者がコロナ後遺症を発症する可能性は否定できない。

「それが唯一の懸念でした」とジマー・ハーウッドさんは言う。「けれど、そのリスクは覚悟の上だったのです」

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