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消えゆく伝説の茶馬古道を歩く、中国の少数民族の村が残る奥地へ

  • 2022年4月14日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 どうやら道に迷ってしまったようだ。

 ドキュメンタリー写真家のチャン・ホンギさんと私(筆者のポール・サロペック)は、シルクロードの南に延びる中国の茶馬古道をたどろうとしていた。

 迷路のように入り組んだ石畳の茶馬古道が生まれたのは、数百年前のことだ(2000年以上前だという意見もある)。商人たちがかつて、この道を通って雲南省と四川省で採れた茶の塊をチベットまで運び、そこで丈夫な子馬と交換したことから、茶馬古道と呼ばれるようになった。

 馬と茶以外にも、手漉き紙、絹、翡翠、アヘン、黄金、塩などあらゆる交易品が、中国各地から、東南アジア、さらにはインド北部の市場まで、ラバやヤク、人の背に乗せて運ばれた。ネパールでは標高4500メートルの雪山を越え、ミャンマーでは熱帯雨林のトンネルをくぐり抜けた。先頭を行く動物たちは、鮮やかな赤い房や鏡、鈴で飾り立てられた。商人たちは、携帯していたマスケット銃で山賊と戦い、仏教を広め、何週間も、何カ月も、時には何年もかけて旅をした。

 私は過去9年間、地球を歩いてきた。石器時代にアフリカを出て世界へ拡散したホモ・サピエンスの移動ルートをたどって、太陽が昇る東の方角、アジアを目指して、旅を続けてきた。そして半年前から、消えゆく中国の茶馬古道を歩いている。

 ここでの私の道連れは、雲南省昆明出身のチャン・ホンギさんだ。超新星のようなエネルギーを持つ彼女は、腕を大きく振りながら会話し、何度も道を外れ、ムササビに驚いて高く飛び跳ねる。朝は誰よりも早く起きてリュックを背負い、他の者が出発の準備を終えるのを、宿の玄関で待っている。

 ある時、チャンさんは私に打ち明けてくれた。「正直言って、初めて昆明であなたに会った時、とても世界を歩いて回っている人には見えませんでしたよ。でも、持っていた荷物を開けたら、独特のにおいがしたんです。それで、ああ、と納得しました」

次ページ:中国の「夢見る冒険家」の足跡

中国の「夢見る冒険家」徐宏祖

 西暦1587年、裕福な家に生まれ育った徐宏祖(じょ こうそ)は、安楽な生活と約束されていた政府の職を捨て、失われた王朝時代の中国を放浪した。

 広大な山を越え、川を渡り、数千キロを徒歩で旅した。時には山賊に襲われ、時には書記として働いて食い扶持(ぶち)を稼いだ。彼が書き残した旅行記は、やがて40万字もの膨大な記録に膨れ上がった(しかし、そのどれ一つとして彼の生前に出版されたものはない)。

 その内容は地質学、地理学、植物学、歴史など多岐にわたり、なかには明代の宿に関する辛口レビューもあった(たとえば「洞窟を住居として使用していた僧侶たちが、その場所を荒らしたまま立ち去ったため、美しい自然の景観が損なわれてしまった」などと書き残している)。

 34年かけて中国全土を巡り歩いた徐が、50歳にして最後の旅に選んだのが、雲南省の厳しい熱帯地域を通る茶馬古道だった。それから400年後、私たちも徐と同じ道をたどって、チベット高原に接する高黎貢山(こうれいこうざん)山脈を登った。ここを迂回する高速道路が建設されたため、石畳の山道は使われなくなり、今はすっかり草木に覆われている。

 夢見る冒険家だった徐はある時、持っていた金を全てなくしてしまったことがあった。崖をよじ登って両手がふさがれていた時に、ポケットに入っていたなけなしの硬貨が滑り落ちてしまったのだ。仕方なく、着ていた服を売り払って金を作った。そしてその金を、酒一瓶とぜいたくな夕食に使い果たし、命まで失わなかったことを喜んだ。当然のことながら、彼は中国人バックパッカーたちの守護聖人的存在になっている。

ラバ追いだったマ・チュンヘさん

 茶馬古道沿いには、いくつもの小さな村が数珠のように連なっている。そのうちのひとつである水寨(すいさい)村に住むマさん(90歳)は、かつて茶馬古道を旅するラバ追いだった。

「何でも運んだものだ」。年老いたマさんは、片手を耳に当てながら大きな声でそう話す。紐のように細い体をして、白壁の自宅前に腰掛け、昔話を語ってくれた。数十年の間、大理(だいり)市とミャンマーの国境を、ラバの隊商とともに往復したという。鞍から吊るした銅製の鍋で米を炊き、何カ月も困難な旅を続けた。「塩が一番儲けになった。外国から色々なものを持って帰ってきたよ」

 人と動物の隊列は、1日に45キロもの山道を行くこともあった。

「隊商が町にやってくると、人々の喜びと興奮は格別なものでした」と、チベット人の元商人ワン・チェンシェンさん(70歳)は語る。若いころは、ヤクの隊商を組んで四川省の北の雪道を1100キロ旅した。「隊商は、外の世界からたくさんのものを持ってきてくれたんです」

 1970年代に入って自動車道が整備されると、昔ながらの隊商は姿を消したという。

次ページ:1920年代にナショジオで紹介された

ナシ族のアンジェラ・ヤンファン・カンさん

 中国の少数民族であるナシ族出身のカンさんは、雲南省北西部に位置する茶馬古道沿いの村で育った。世界を回って学んだ後地元へ戻り、今は環境保護家として活動している。彼女の立ち上げた環境コンサルティング会社は、環境にやさしく、持続可能な観光業の開発を目指す少数民族を支援している。

「景観を損なうことなく、そこから利益を得られる方法をアドバイスします。森林の保護者や野鳥ガイドになるための訓練を行ったり、木の伐採を減らすために、あまり多くの薪を必要としない効率的なストーブを売っています」

 カンさんの拠点がある麗江(れいこう)へ行くには、ミャンマーとの国境から北へ800キロ歩かなければならない。茶馬古道の跡は、大半が高速道路のコンクリートに覆われてしまっている。

 観光客のメッカである大理市の湖、洱海(じかい)を迂回して松林の尾根を登れば、沙渓にやってくる。この小さな町には18世紀の野外劇場があり、町を訪れた行商人たちも、ここで京劇を楽しんだ。

 交易の町、剣川(けんせん)を出て、頭上で狩りをするシロフクロウの影がかすめる石畳をさらに進むと、真っ青な空に高くそびえる雪の峰が目に飛び込んでくる。標高5600メートルの玉龍雪山(ぎょくりゅうせつざん)だ。ふもとの梨園では、ナシ族の女性が、背中に7つの星が刺繍された服を着て、汗を流していた。

1920年代にナショジオに寄稿したジョセフ・ロック

 植物学者、人類学者、冒険家、そして古い因習を打破することで知られたジョセフ・フランシス・チャールズ・ロック。

 オーストラリアで生まれ、後に米国に帰化したロックは、人生の大半を中国南西部の茶馬古道で過ごし、目につくものを手当たり次第に収集した。博学で、科学を独学で学び、西洋の植物園のために植物を採集したり、学術誌のために人類学的な記録をまとめた。

「ナショナル ジオグラフィック」の読者のためには、1920年代に、当時まだ知られていなかった中国の地図上の空白部分を描き入れた。優れた言語学者でもあったロックは、ナシ族の複雑な表意文字を研究し、1094ページの辞書を作成した。

「私の父は、ムリ(チベット族自治県)の地主に仕え、ロックと一緒に旅をしました」。ロックが1929年に訪れた四川盆地の小さな村で農業を営むジア・ルオ・ウ・ジンさん(84歳)は言う。「ロックのことはあまりよく知りませんが、人付き合いは良くなかったようです。父がテントを張ってやると、ロックはすぐにその中へ消えてしまいました」

 だが、父親から聞いたある話だけは覚えているという。

「ロックは、燃やすとネズミが寄ってくる草を持っていました。こうしておびき寄せた白ネズミを2匹、トングでつかむと、箱の中に入れてどこかへ持ち去ったそうです。何のためにそんなことをしたのかは、誰も知りません」

 これが、茶馬古道で私が拾った最も気に入っているエピソードだ。

 人は、様々なものを求めて茶馬古道へやってくる。そして多くの人は、目的のものを見つけて帰る。

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