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欧州のエジプトブームに火をつけたナポレオンの遠征

  • 2021年5月6日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 18世紀末、フランスはエジプトを狙っていた。英国と敵対していたフランスは、英国の海上支配を脅かし、そのインドとの交易ルートを断ち切りたいと願っていた。英国にとってインドとの中継地であったエジプトの制圧は、フランスにとって、地中海へと勢力を広げる足がかりになるはずだった。

 野心的なコルシカ人の将軍ナポレオン・ボナパルトが、この作戦の指揮を任された。イタリアでの作戦ですでに名を挙げていたナポレオンは、1798年、フランス軍を率いてエジプトに赴き、現地の支配者と戦った。マムルークと呼ばれた彼らは、当時オスマン帝国の一部だった北アフリカの領土を支配していた。

 この遠征の主な目的は軍事的なものだったが、別の目的もあった。エジプトに関する科学的および歴史的な情報の収集だ。フランスでは多くの人が、エジプトには古代ギリシャやローマに匹敵する古代文明があったと信じていた。

 1798年、3万5000人の兵士とともに、学者と画家160人以上がエジプトに渡った。正式には「エジプト科学芸術委員会」と呼ばれたこの一団は、最終的にはフランスの戦闘部隊よりも、歴史に大きく貢献することになった。何年にもわたって丁寧に続けられた彼らの仕事は、ヨーロッパに「エジプト学」という分野を誕生させ、数千年間にわたってナイル川沿いの土地を支配した壮大な文明の歴史を世界に知らしめた。

束の間の勝利

 1798年7月上旬、フランス軍はアレクサンドリアに上陸し、またたく間にこれを占領した。フランス軍はカイロへと進んでピラミッドの戦い(エムバベの戦いとも呼ばれる)に勝利し、7月21日に街を奪取した。

 こうして早い段階で勝利を重ねたにもかかわらず、軍事作戦はやがて勢いを失っていく。フランス軍には十分な数の駐屯地を維持できるだけの人員がおらず、軍事的な存在感を誇示することができたのは、首都とナイルデルタの一部地域に限られていた。

 地中海沖に潜む英国海軍によって、8月にエジプト沖に駐留するフランス艦隊が撃沈されると、ナポレオンとその軍隊は身動きがとれなくなってしまう。陸上の作戦は引き続きある程度の成功を収めていたものの、ナポレオンは同時に地方の反乱を鎮圧しつつ、戦闘だけでなく疫病による兵力の損失も抑えなければならなかった。

次ページ:ルーブル美術館初代館長の『上下エジプト紀行』

 1799年、もはやエジプトにいても自分にとって益はないと判断したナポレオンは、ジャン・バティスト・クレベール将軍に軍を任せてフランスに戻った。クレベールは幾らかの戦功を上げた後、1800年にカイロで暗殺された。

 クレベールの後任ジャック・フランソワ・ド・メヌー将軍は、カイロの反乱や英国軍の攻撃にさらされ、ついには1801年9月に、アレクサンドリアにおいて降伏文書への署名を余儀なくされた。フランスは全軍がヨーロッパへ逃れることを許された。

ルーブル美術館初代館長の『上下エジプト紀行』

 軍事作戦の失敗とは対照的に大きな成功を収めたのが、科学的な探索だ。数学者のガスパール・モンジュと化学者のクロード・ルイ・ベルトレーという経験豊かな2人(両者ともイタリアでナポレオンとともに従軍していた)に率いられた学者たちの多くは、まだキャリアをスタートさせたばかりだった。

 1798年8月、カイロでエジプト研究所が正式に発足する。モンジュが所長に選任され、ナポレオンが副所長となった。この研究所は、数学、文学と芸術、博物学と物理学、政治経済学という4つの部門から構成されていた。設立決議書には、同研究所が目指すのは、エジプトの自然、経済、歴史を調査することだけでなく、エジプトにおいて啓蒙思想の原則の推進に貢献し、同国政府を支援することであると記されている。

 当初、フランス人の学者たちはカイロの研究所本部に配属されていたが、やがて国内各地を飛び回ってそれぞれの任務をこなす人も出てきた。メンバーの一人ドミニク・ヴィヴァン・ドノンは、貴族かつ外交官であり、性的に奔放な小説を書く作家であり、また優れた芸術家でもあった。フランスにいたころは、ナポレオンの最初の妻となる女性、ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネのサロンの常連だった。

 ナポレオンに説得されてエジプト遠征に参加したドノンは、ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼー将軍に同行して上エジプト(ナイル川の河谷地域、下エジプトはデルタ地域)を訪れ、そこで数多くの巨大建造物のデータを収集し、スケッチに残した。ドノンは、ナポレオンが1799年に一足先にパリへ去るのと同時に帰国し、エジプトでの冒険を本にまとめる仕事にとりかかる。

 1802年、ドノンは『上下エジプト紀行』を出版して大成功を収めた。ドノンの生き生きとした散文には、軍事作戦についての物語と、はるか遠い土地の神秘的な古代遺跡の描写とが織り交ぜられていた。ドノンが描いた挿絵は、当時としては驚くべき出来栄えだった。

『上下エジプト紀行』には、それまでのどんな本よりもたくさんの挿絵が掲載されていた。作品の数、大きさ、質だけでなく、題材の面でも前例がなかった。メムノンの巨像、ハトホル神殿、ギザのスフィンクスといったエジプトの巨大建造物が、これほど詳細に描き出されたのは初めてのことだった。その個性と美しさはフランスを魅了し、エジプトについて知りたいという人々の欲求はさらに高まった。

 ドノンの作品はナポレオンに捧げられ、その本はフランスの世論を一変させた。軍事作戦で失敗した人物とみなされていたナポレオンは、このおかげで古代ギリシャやローマに匹敵する古代エジプトの力と壮大さを世に知らしめた指導者へと変貌を遂げた。

 ドノンは中央美術博物館(後のルーブル美術館)の館長となり、エジプトから持ち帰った素描をもとに、ありとあらゆる贅沢品をデザインさせた。食器、家具、壁紙などのアイテムには、スフィンクス、オベリスク、ヤシの木などのエキゾチックな図柄があしらわれ、それがナポレオンのプロパガンダに貢献した。

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「アレクサンドリアの大図書館の焼失に匹敵」

 1799年にドノンが上エジプトから戻った後、ナポレオンはさらに多くの学者をこの地に送り込み、エジプトの古代遺跡の調査にあたらせた。軍事的な混乱が続いていたにも関わらず、フランス人学者たちは遺跡まで護送され、作業の間も護衛がついたため、比較的安全に調査を進めることができた。彼らは多くの記録を取り、さまざまな遺物を収集し、入念な観察と詳細な測定を行った。

 カイロに戻った学者たちは、出国前にナポレオンから命じられていた通り、収集品を持ってすぐにフランス行きの船に乗り込もうと考えていた。

 ところがフランスが英国に降伏したことにより、状況が変わってしまった。

 英国の司令官は、エジプト研究所が集めた遺物をすべて引き渡すようフランスに要求した。その中には、フランス兵が1799年にロゼッタで発見した、文字の刻まれた黒い石碑も含まれていた。見た目こそ地味ではあったが、ヒエログリフ(聖刻文字)、デモティック(民衆文字)、ギリシャ文字が記されているという点で興味深い遺物だった。フランス人はこの石を含めたすべてを手放さざるを得ず、その結果、有名なロゼッタストーンと数々のエジプトの宝物は英国人の手に渡ることとなった。

 文書類については、エジプト研究所が守り抜いた。フランス人博物学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールが、英国人に渡すくらいなら文書をすべて燃やしてやると脅迫したのだ。サンティエールは、これを燃やすことはアレクサンドリアの大図書館の焼失に匹敵すると言ったという。この策略は功を奏し、英国人は譲歩して、フランス人が記録を保持することを許した。

国家的大事業だった『エジプト誌』の刊行

 遠征軍がフランスに戻ってから数カ月後、ナポレオンは、エジプトにおける調査結果を大判の書籍として出版せよと命じた。これは完成までに何年も要する大事業だった。その結果として、ドノンの著書を皮切りに何冊もの本が出版され、古代エジプトの情報を求めるフランス人の欲求を満たすことになった。

 1809年までに、この出版事業には執筆者36人と、挿絵の制作に100人もの彫版工が携わった。使われた銅板は900枚近くにのぼり、そこには3000を超える図版が刻まれた。

 地理学者のエドメ・フランソワ・ジョマールは、この大事業の制作管理者の一人であり、編集委員会を率いて主題の割り当て、草稿の受け取り、編集を担当した。委員会はまた、この本のために特別に制作された図版が文章とうまくまとまるよう調整を行った。このシステムは、現代における学術誌の制作と大差ないものだった。

 委員会はすべての巻を一斉に世に出したいと望んでいたが、すでに皇帝に即位していたナポレオンはしきりに出版を急かした。ナポレオンの気持ちをなだめるために、彼らは1809年から、分冊として逐次刊行することに決める。

次ページ:ナポレオンの失脚後も継続

『エジプト誌』あるいは『フランス軍のエジプト遠征中になされた観察と研究の集成、ナポレオン大帝の勅命により発行』とも呼ばれるこの作品は、全22巻からなり、文章で構成されたものが9巻、図版、挿絵、地図で構成されたものが13巻あった。順次開始された出版は、ナポレオンが権力を失った後も続けられた。

 1814年に君主制が復活した後、ルイ18世は、この出版事業の継続を決めた。これが、フランスの国家としての威信を象徴するものとなるのは明らかだったからだ。出版チームは1828年、かつては政府によって極秘扱いされていた地図の出版を最後に、全巻を完成させた。

もっとエジプトを

『エジプト誌』の内容は、古代遺物、博物学、現状の3つに大別され、それぞれにボリュームのある文章と画像で構成されていた。全体の半分以上が過去に割かれており、謎に満ちたファラオの歴史がいかに学者たちの想像力をかきたてていたかを示している。

 彼らの未熟な歴史解釈の妨げとなっていたのはヒエログリフを理解できなかったことだった。そのため、内容は年代順には掲載されていない。最初の2巻は南から北へ地理に沿って構成されており、上エジプトのフィラエ島からナイルデルタまでが網羅されている。3巻と4巻では、記事は主題別に並んでいる。学者たちは、古代の作家たちが書いた物語と、当時まだ目に見える形で残っていたエジプトの巨大遺跡とを照らし合わせようと試みている。

 多くの現代の学者にとって、『エジプト誌』の中でもひときわ色褪せない価値を持っているのは図版だろう。図版は実物に極めて忠実で美しく、そうした特徴は図版自体が非常に大きいことによってさらに強調されていた。

 これらの図版を足がかりとして、ナイル渓谷における学術的な考古学が幕を開ける。地形図はとりわけ見事だった。平面図も、立体図も、断面図も、巨大建造物の正確な測量値もあった。

 その目的は、エジプトへ行くことなく、研究を進めることができるようにすることだった。ここに掲載された建造物のうち、20ほどがその後失われ、それらの外観に関して今も残っているのは、「解説」に記された数値と説明文だけとなってしまった。

 ナポレオンによる遠征をきっかけに、ヨーロッパの大衆と学者たちは、古代エジプトをさらに探求したいという欲求を掻き立てられた。1799年のロゼッタストーンの発見は、1820年代の言語学者ジャン・フランソワ・シャンポリオンによるヒエログリフの解読につながった。シャンポリオンの仕事は、古代エジプト文明の新たな理解への鍵となり、学者たちは建造物や遺跡をより正確に解釈し、この古代の大国とそこに住んだ人々の姿を、さらに詳しく生き生きと描き出せるようになってゆく。

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