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ロンドンに残る最古のローマ街道 秘められた魅力

  • 2020年11月24日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 道は人間と似ている。内に秘められた物語をすべて知ることはできないからだ。英国の歴史家たちは、ロンドンの中心部にあたる場所をかつて我が物顔で行進した侵略者たちを語ろうとしない。ロンドン市内にA10として走る幹線道路は、かつて古代ローマ帝国が開いた道にほかならない。

 全長およそ145キロのこの道路はロンドン橋を起点とし、北のケンブリッジ方面に延びている。ガラス張りの超高層ビルから緑の牧草地へ続き、やがて、ノーフォークやヨークシャーの古代の入植地へと分岐する。

 この道が生まれたのは約2000年前のこと。古代ローマ人がテムズ川の幅の狭い部分に木造の橋を架け、ロンディニウムを建設した。川の北岸には、コロネード(柱廊)が設けられた。川岸の活気あふれる波止場では、母国から届いたオリーブ油、ワイン、フィッシュソース(魚醤)など、現地の食材をおいしく食べるための品々が船から降ろされた。

 敷設されたこの道路は、数世紀にわたって「アーミン街道」と呼ばれていた。なだらかな丘をのぼれば、平坦な広い「フォーラム」と呼ばれる広場に到着する。フォーラムは、古代ローマのフォロ・ロマーノの約半分ほどの広さだったようだ。それから道路は、ロンディニウムを囲む石造りの防壁を抜けて、まっすぐに北へ向かう。

人々を引き付ける不思議な通り

 ロンドン北東部にある私の住まいの裏手も、この通りに面している。この道を歩くと、英国の首都とは思えないほど生活感に満ちている。新型コロナによるロックダウンの時期を除けば、私は、ほぼ毎朝、ベンガル人が経営する食料品店でバナナを買う。そして、おしゃれな口ひげのイタリア人バリスタから、アーモンドミルク・ラテを受け取る。このカフェの壁の剥がれた部分からは、タイルの壁がのぞいている。これは、100年前にここで営業していた精肉店の名残りだ。私は、エジプト人の雑貨屋で新聞を買うこともある。店の窓には、「ポルノは取り扱っていません」と書かれた張り紙が誇らしげにある。

次ページ:数ブロックで通りの名前が変わる理由

 私はカナダから英国に移り住んだ。この地域にやって来て10年以上になる。ケバブ店の外に並ぶ老人たちや、昔は地下のクラブで演奏していたという老いたロック・ミュージシャンたちとも顔見知りだが、彼らには「米国人」だと思われている。外国人ならではの好奇心でこの道をどんどん歩いていると、この道は単に人々を南北に運ぶ手段ではなく、東西から人々を引き寄せる力の根源だと考えるようになった。道そのものが旅の目的地になることはあるのだろう。

 散歩をしていて、オフィスビルの谷間に野ざらしの小さな壁を見つけた。ローマ帝国の崩壊とその後の数千年におよぶ経済の変遷と改革を生き延びた遺跡だ。中世には、新たなロンドンの建設が始まった。より頑丈なロンドン橋が建設されたが、その後、元の場所から30メートル西に新たなロンドン橋が作られた。新しい幹線道路が、郊外の住宅地に向かって伸びた。古くからの道沿いの地区には、フィッシュ・ストリート・ヒルという古風な響きの名前がつけられた。

 ロンドンを訪れた旅行者が気を付けたいのは、こうした古い道路では、通りの名前が数ブロックごとに変わるということだ。フィッシュ・ストリート・ヒルを北に行くと、グレイスチャーチ・ストリートになり、突然、ビショップス・ゲートに名前が変わる。それから2ブロック進むと、通りの名前はノートン・フォルゲートになる。これらは、古代の城壁都市の入口に由来している。言い伝えによれば、16世紀のエリザベス朝に活躍した劇作家のクリストファー・マーロウがここで喧嘩相手を石畳に殴り倒したという。

 私自身のこの道の探索は、ノートン・フォルゲートからショアディッチ・ハイストリートに名前が変わる雑然とした地区から始まった。20年ほど前、結婚してカナダのトロントからロンドンに移り住んだ若い頃に、この地域を訪れるようになったが、すすけた街並みに「商業鉄工所」の飾り文字、レンガ壁の色あせたピアノの広告など、かつてここで繁栄していた労働者コミュニティーを示す痕跡はほとんどなかった。

 あの頃、私たちは地下鉄で来て、昔の馬小屋や倉庫のどんちゃん騒ぎを横目で見て歩いたものだ。友人たちが、ハンドバッグ輸出業者の店のあとにバーを開いた。店内には、車中暮らしをしている未来の有名人が描いたグラフィティアートが展示されていた。私たちは、リトル・ハノイ(ベトナム料理のレストランが多く並ぶ一帯)で焼きビーフンを楽しんだ後に、そのバーに立ち寄った。あたりで明かりがついているのは、リトル・ハノイだけだった。

 ローマ皇帝のハドリアヌス帝がこの地まで来たことは何となく知っていたが、私の関心は過去よりも変化を続ける道のほうにあった。米国のアパレルショップが開店した際、私たちはがっかりして酷評した。この通りは大量生産されたヒップスターには似つかわしくないからだ。だから、10年もたたないうちに、エース・ホテル(米国のホテルチェーン)が開業するとは予想もしていなかった。さらに、「ザ・ステージ」という豪華な多目的高層ビルも建設された。その名前の由来は、かつて数メートル離れた場所に、シェイクスピアのカーテンシアターがあったからだという。

次ページ:古くから多文化性をもつ地域

 この通り沿いでは、腕をふるったジンを提供するバー「オリジナル・シン」やウィッグショップ「アフロ・ワールド」(人工の赤い毛のウィッグが約2600円で手に入る)が、二輪車の修理店と賭け屋の隣で営業している。また、キプロス人、パキスタン人、バルバドス人、超正統派(ハシディム)ユダヤ教徒が、ロンドンでは「調和」と見なされるよそよそしさで共存している。

 もちろん、カナダ人である私もそこに含まれる。私は故意によそよそしくはしないが、自分の真面目な異質さが同化の妨げになったことはない。ここでは、異質性こそが同化なのだ。そして、今も私はこの道には旅行者気分で向かう。自宅からバス停まで歩くだけで、異なる文化や他の時代への戸口に出合えるのだから。

 近所の人たちとは、この道路が持つ多文化の魅力についてよく話す。かつてはもっとトレンディだったノッチングヒルやカムデンの友人たちが、ガーディアン紙が高く評価したジャマイカ料理店を巡り歩いた時、私たちは大得意だった。この道路は、ロンドンっ子たちにとっても新鮮な驚きに満ちているのだ。

 だが、この地域の多文化性は新しいものではない。多文化性は、古代ローマ時代からこの道に影響を与えてきた。私の移住も、ローマ人が築いた城壁をブーディカ女王が破壊した時代から続く移住者の輝かしい歴史につながっている。17世紀に城壁の外で絹織物を生産したユグノー教徒の移民たち。そして、その100年後にシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)を建設したハシディム教徒。この中産階級化を目指した世代を私も受け継いでいるのだ。

 この道路沿いで多くのEU離脱派を見つけるのは難しい。ここでなければ、イギリス英語と同じぐらい頻繁にポーランド語やユダヤ人のイディッシュ語を耳にすることはないだろう。現在、新型コロナのパンデミックによって、旅行の制限からパブの休業まで緊急に議論すべき問題が次々に浮上している。だが、ロンドンのこのあたりの人々は冷静さを失わない。この道は、現在のような苦境の時代も、もっとひどい時代も見てきた。古代ローマ人も、石の城壁が外部からの人の流れを長く阻止できないことは知っていたのだ。前に進むために、時には振り返ってみることも必要だ。

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