サイト内
ウェブ

絶滅危惧種インダスカワイルカ、パキスタンで復活

  • 2020年7月8日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 インダス川の穏やかな水面に丸い波紋が浮かび、淡い色のイルカの頭が現れた。イルカは少しの間そこにとどまり、間もなく水中に戻って行った。

 ここはパキスタン南部の都市サッカル。インダス川のこの辺りは、絶滅危惧種インダスカワイルカの貴重なすみかだ。

 ところがイルカたちは、この町にあるバラージと呼ばれる堰(せき)によって、モンスーンシーズンの移動を阻まれている。インダス川流域では、20世紀半ばに治水や灌漑のためのいくつもの取水堰が建設され、一部は発電にも利用されている。堰はイルカたちの移動を妨げるだけでなく、取水によって川の水位を危険なレベルにまで低下させることもある。

 淡水にすむイルカは地球上に4種しかおらず、インダスカワイルカはその一つインドカワイルカの亜種とされる。かつては下流のデルタ地域から、ヒマラヤに近い上流まで、インダス川とその支流に生息していたが、今は元の生息域のおよそ20%にあたる流域にしか生息していない。そのすみかは、グドゥ堰とコトリ堰の間の660キロメートルほどの流域に集中している。

 水質汚染の問題もある。世界自然保護基金(WWF)「カワイルカイニシアティブ」のアジア地域コーディネーター、ウズマ・カーン氏によれば、イルカたちの体内からはDDTなどの農薬が検出されているという。

 一方で、流域住民への啓発や、座礁したイルカの救助といった保全プログラムのおかげで、インダスカワイルカの個体数は着実に増加しているという。WWFによると、1972年にはパキスタン国内に132匹とされた個体数が、最新の調査では1987匹と考えられている。インダス川の支流の1つでインド北部を流れるビアース川にも、少なくとも7匹の小さな個体群が生息している。

「グドゥから川を下り続けると、ある地点から周囲はイルカだらけになります。あまりにもたくさんいるので圧倒されますよ」と、カーン氏は話す。「インダス川の中で、イルカはこの流域にのみ集中しているので、大きな課題もあります」

「イルカは人間にとって友人」

 現地の言葉で「ブラン」と呼ばれるインダスカワイルカは、「大昔からこの地域にすむ、インダス文明の象徴の1つでもあります」と、シンド野生生物局のミール・アクタル・タルプール氏は話す。

 インダス川流域で花開いた青銅器文明は、計画的な都市と進歩的な排水システムで知られている。現在のシンド州およびパンジャブ州に暮らす人々は、インダス文明を作った人々の末裔と考えられており、伝統的にインダスカワイルカを大切にしている。

 この地方には、インダスカワイルカの起源にまつわる伝説がある。ある女性が川の精にバターと乳を捧げたところ、川の水が分かれて、安全に向こう岸へと渡ることができた。しかしある時、彼女が捧げものを忘れると、川の精は女性をイルカの姿に変えてしまった、というものだ。

次ページ:インダス川に適応したイルカ

 サッカルの漁師であるグル・モハメド・ミルバル氏にとって、イルカは10歳で初めて出会って以来、生涯の友だ。2月のある晴れた午後、彼は珍しいカワイルカを一目見ようと訪れた観光客らを木の舟に乗せ、駄賃を稼いでいた。川の水が岸辺の岩に静かに寄せると、水しぶきとともにピンク色のイルカが姿を現し、間もなく水中に消えて行った。

 ミルバル氏はイルカたちは自然環境の一部であると考えているものの、彼ら漁師にとって魚を食べるイルカは競合相手でもある。「漁は本当に頑張らないと、イルカに負けてしまう。そのくらいイルカは素早いんです。しかも、イルカは大きな魚も小さな魚も区別なく食べてしまう」と、ミルバル氏は言う。

 1970年代にイルカ猟が禁止されるまで、食料、あるいは舟に塗るための脂を目的として、イルカを獲るコミュニティもあった。またWWFによれば、この地域では毎年少なくとも1匹のイルカが誤って漁網に絡まり、死亡している。

 とはいえ、「イルカは人間にとって友人です」と、パンジャブ州タウンザ市の漁業団体代表、カディム・フセイン氏は話す。「漁師にとって彼らは脅威ではないんです。漁師が乗る小舟のエンジン音を聞くと、イルカは近づいて来て一緒に泳ぎます」

インダス川に適応したイルカ

 インダスカワイルカは、インダス川で生息できるよう適応してきた。体重90キログラムほど、体色は茶色からグレー、くすんだピンク色と、堆積物が多いこの川に溶け込むような色をしている。また、濁ったインダス川では視力が必要ないため、目はほとんど見えなくなっている。

 彼らが使うのは主に、自前のソナーシステムだ。超音波を利用することで、獲物を探し、川を自在に泳ぎ、互いにコミュニケーションを取っている。このソナーは大変優秀で、死んだ魚と生きた魚を区別することもできる。

 長い口吻は魚などを捕らえるのに適し、頑丈な胴に付く小さな背びれは遊泳中の安定を保つ。

 インダスカワイルカは、横になり尾をぱたぱたさせながら泳ぐ「サイド・スイミング」を取ることもある。こうして乾期の比較的浅い水の中でも動くことができる。

 取水堰が彼らの生息地を分断する以前は、イルカたちはモンスーンシーズンに支流を遡り、乾期にはインダス下流域へ戻って来ていた。

 体の小さな個体であれば、ゲートの開いた堰の間を泳いでいくことができる。それでも多くの場合はその後、用水路や浅い水たまりなどで動けなくなってしまい、餓死したり熱中症で死亡したりしてしまう。

次ページ:これからどうやって守っていくのか

イルカが座礁、救助に向かう

 シンド州野生生物局は、もしイルカが池や用水路で動けなくなっているのを見つけたらホットラインに連絡するようにと、地元の人々に伝えてきた。サッカル市の保全担当、アドナン・ハミド=カーン氏は、幾度もイルカの救助に関わってきた。

 2019年12月には、サッカル市から200キロ近く離れたファイズ・ガンジュ・ワーで、水路から出てしまい動けなくなった幼いイルカが発見された。ハミド=カーン氏ら救助チームは車にイルカを乗せ、道中、乾燥しないよう体に水をかけてやりながら、本来の川に戻してやった。救助そのものは成功したが、その後イルカが生きているのかはわからない。

 救助のプロセスは簡単なものではない。理由の一つは、水中で暮らすイルカたちが大きな音や人間の存在に対して非常に敏感であること。もう一つは、限られた予算と古い道具しかないこと。そのため救助チームは、イルカを救うために工夫を重ねなければならない。

「野生生物の保護においては、問題は突然生じます。どう解決するのかを即座に決断する必要があるのです」と、ハミド=カーン氏は語る。

 漁師の息子であるナジル・ミラーニ氏は、30年に渡ってシンド野生生物局に協力してきた。手には過去の救助で付けられた噛み跡が残る。ミラーニ一家は3世代に渡りイルカの保全に携わっており、川をよく知る者として野生生物局に助言してきた。

「何世代にもわたって、私たちは川のそばに住み、舟を漕いできました。私たちは魚を獲り、そしてイルカを守ります」。木陰に座り、日に照らされた川の水面を眺めながら、ミラーニ氏はそう話す。

「過去にはイルカを食べる人もいました。私の父はそうした人に、イルカを食べるなよ、彼らは純粋な動物なんだ、彼らこそがこの川の美しさなんだから、と言いました」

インダスカワイルカの保全のために

 インダスカワイルカは未だ謎に包まれた部分が多い。たとえば、救助され川に戻ることができたイルカは、その後どうなっているのか? まだ幼いイルカだった場合、母親の元に戻れたのだろうか?

 WWFは彼らの行動や生態を知り、保全に活かすため、衛星通信タグを装着することを提案している。「救助された全個体に装着すべきです」と、WWFのウズマ・カーン氏は言う。「もし死亡している個体がいるとしたら、その数を知らなければなりません」

 他にもイルカの保全に役立ちそうな技術として、「ピンガ」と呼ばれる音響装置を灌漑用水路の開口部に設置する、というものがある。人間には聞こえない音が鳴り、イルカがそこを避けるのだ。

 ウズマ氏によれば、ピンガは通常、イルカが漁網に近寄らないようにするために利用されているが、「水路の近くで試してみて、イルカが水路内へ入らなくなるかを知りたいと考えています」

 救助にあたるミラーニ氏にとって、インダスカワイルカを救うことは市民としての義務である。かつてインダス川には、ワニの仲間のガビアルが生息していたが、今ではこの地域から完全に姿を消してしまったという。イルカには同じ目に遭ってほしくないと、彼は考えている。

あわせて読みたい

キーワードからさがす

gooIDで新規登録・ログイン

ログインして問題を解くと自然保護ポイントが
たまって環境に貢献できます。

掲載情報の著作権は提供元企業等に帰属します。
(C) 2020 日経ナショナル ジオグラフィック社