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子どもたちを救い パンデミックをせき止めた偉大な科学者

  • 2020年6月29日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 1957年、香港で未知の病気が流行していた。「ガラス玉のような瞳で見つめる」多くの子どもたちの話や、町の人口の10%以上が感染したというニュースが伝えられた。科学界は沈黙したままだったが、米国人のウイルス学者モーリス・ヒルマンは脅威を察知した。世界的な流行、つまり「パンデミック(世界的大流行)」が始まろうとしているのだと。

 香港の未知の病気は、全世界に広がる恐れのある新しい型のインフルエンザだとヒルマンは考えた。1957年秋、ウイルスは米国へ到達したが、ヒルマンが完成させていたワクチンのおかげで、数百万人が感染を免れることができた。そして、ヒルマンの功績によって救われる命は、その後もさらに増えることになるのだ。

 ヒルマンは1919年8月に誕生した。奇しくもスペインかぜが猛威を振るっていた年だ。その後、米モンタナ州マイルズシティにほど近い農場で育つ。そして大恐慌時代、デパートのアシスタントマネージャーとして雇われる。当初は、そこで生涯勤め上げるつもりだったが、兄に説得されて大学へ進むことにした。ヒルマンは奨学金を全額支給されてモンタナ州立大学へ入学し、1941年に首席で卒業。その後、願書を提出した大学全てに合格したヒルマンは、シカゴ大学へと進む。

 シカゴ大学で微生物学の博士課程に在学中、ヒルマンはそれまでウイルスだと考えられていたクラミジアが実は細菌であることを発見し、その感染症の治療に貢献した。卒業後は学術界に残るようにとの教授の勧めに反して、ヒルマンは製薬業界へ進んだ。そちらで研究した方が、多くの患者を助けられると考えたからだ。

 ヒルマンは定年までに40種以上のワクチンを開発して感染症予防に貢献し、世界中の人々の命を救った。

全米での蔓延をワクチンで阻止

 ニュージャージー州の製薬会社E・R・スクイッブに4年間務めた後、ヒルマンはワシントンD.C.にあるウォルター・リード陸軍医療研究所に移籍し、呼吸器疾患とインフルエンザの流行について研究した。そこで、インフルエンザウイルスが変異を繰り返し、人の体内で作られた抗体が効かなくなることを証明した。天然痘やポリオのワクチンは1回打てば一生効果があるが、インフルエンザワクチンの場合、何度も接種しなければならないのはこのためだ。

 この研究から、ヒルマンは香港のウイルスが既存のインフルエンザとは全く違う型であり、これが米国やその他の国へ入れば大量の死者が出ると確信した。1957年4月17日、ニューヨーク・タイムズ紙で香港の状況を読んだヒルマンは、声を上げた。「なんてことだ。パンデミックだ。もう始まっている」。そして翌日、現地でウイルスの検体を採取するよう軍に依頼した。

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 1カ月後、香港滞在後に発症したという海軍兵から、うがいした塩水を受け取った。そこに含まれたウイルスを培養して、数百人の兵士と民間人がもつ抗体を調べてみた。すると、誰ひとりとしてこのインフルエンザの型の抗体を持つ者はいなかった。

 他の研究機関にも新型ウイルスのサンプルを送ってみると、1889〜1890年のインフルエンザパンデミックを経験したごく少数の高齢者だけに抗体があることがわかった。このことは、ほぼすべての人が新型のインフルエンザに感染するリスクがあることを示していた。

「1957年当時、誰も気づいていなかったんです。軍も、WHO(世界保健機関)も、気づけませんでした」。後にヒルマンはインタビューでこう語っている。

 米国に与えられた準備期間はわずかであると気付いたヒルマンは、製薬会社に直接連絡を取り、自分のサンプルからワクチンを製造できないか依頼した。また、ワクチン製造に使われるニワトリの有精卵を十分に確保するため、できるだけ多くの雄鶏を生かしておくように要請した。ヒルマンの研究は、ワクチンを規制する政府機関である生物学的製剤基準局の審査をまだ受けていなかったが、製薬会社は製造を引き受けた。ちなみに当時と比べて規制が厳しくなっている現在では、とても実現できないことだ。

 ヒルマンの努力の甲斐あって、1957年秋にインフルエンザが米国に上陸した頃には、4000万本のワクチンが準備されていた。このウイルスによる世界の死者は110万人、米国では11万6000人と推定されている。当時の米公衆衛生局長官レナード・バーニーは、ワクチンがなければあと数百万人の米国人が感染しただろうと語った。米陸軍は、ヒルマンの功績に対して殊勲賞を授与している。

「ワクチンでパンデミックを回避できたのは、あの時だけです」と、ヒルマンは振り返っている。

家族を襲った感染症

 1963年3月、当時5歳だったヒルマンの娘ジェリル・リンが、真夜中にヒルマンの寝室へやってきて、喉の痛みを訴えた。見ると、あごが腫れていた。流行性耳下腺炎、いわゆる「おたふくかぜ」だった。

 おたふくかぜの死亡率は高くない。しかし、後遺症として耳が聞こえなくなったり、脳や膵臓への障害、さらには精巣に炎症を起して男性不妊症の原因になることも知られている。米疾病対策センター(CDC)によると、1964年に米国では推定21万人が感染している。

 ヒルマンは娘をベッドに寝かせると、検体採取用の綿棒を取りに研究所へ車を走らせた。娘の検体を使って、彼はウイルスの培養を始め、ニワトリの胚(受精後の初期段階)に接種することで人に対して弱毒化させた。

 ウイルスを何度もニワトリの細胞に感染させると、次第にニワトリには感染しやすく、人間には感染しにくくなる。こうして、人間に接種すると抗体ができるだけの余力はあるものの、病気を発症させるほどの毒性を持たないウイルス(すなわちワクチン)が作られる。

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 1966年、ジェリル・リンの妹のカーステンは、父親が作った試験段階のワクチンを最初に接種された1人となった。「赤ちゃんが姉のウイルスによって保護されるとは、医学史上類を見ない出来事でしょうね」と、ヒルマンは後にワクチン・メーカーズ・プロジェクトの取材で話している。通常、妹や弟が年上のきょうだいからもらうのは病気であって、免疫ではない。

 それから1年後、ジェリル・リンがのどの痛みを訴えてから4年近くが経って、ヒルマンのおたふくかぜワクチンは正式に承認された。ヒルマンの娘から採取されたウイルス株は、今もおたふくかぜワクチンのベースとして世界中で使われている。

光が当たらなかった理由

 ヒルマンの成功は、47年間勤務した製薬会社メルク・アンド・カンパニーのおかげでもあった。メルクで、ヒルマンは自分の研究を自分で管理する自由が与えられた。メルクの潤沢な資金を頼りに、ヒルマンと彼の研究チームは人間と動物用に40種以上のワクチンを開発した。

 彼の2番目の妻ロレイン・ウィットマーは、ヒルマンの伝記作家に次のように語っている。「メルクでは、研究のための資金は十分にありました。だから、お金のことは気にせず、研究に没頭できたのです」。ヒルマンは、冗談めかして民間セクターを「汚い業界」と呼んでいたが、その民間だからこそ、彼特有の厚かましさを発揮し、自らの研究を市場まで導くことができたと言える。

 製薬業界には難点もある。製薬会社に所属していたがために、ヒルマン自身の功績が広く一般に認められにくいということもあった。B型肝炎ワクチンの有効性を証明した論文に、開発者であるヒルマンの名が載らなかったことについて聞かれると、ヒルマンは「名前が論文に載ったり、テレビカメラやラジオマイクの前に私が立ったりすれば、人は私が何かを売ろうとしていると思うでしょう」と答えた。ヒルマンは最後まで、自分の開発したワクチンに自分の名をつけることはしていない。

 ヒルマンとそのチームは、現在子どもへの接種が推奨されている14種のワクチンのうち、麻疹(はしか)、おたふくかぜ、A型肝炎、B型肝炎、水痘、髄膜炎、肺炎、そしてヘモフィルス・インフルエンザB型菌(Hibワクチン)の8種を開発した。WHOの推定では、麻疹のワクチンだけでも、2000年から2015年の間に世界で2030万人の命を救っただろうと考えられている。

 1998年、研究者のA・J・ウェイクフィールドがヒルマンの開発した麻疹・おたふくかぜ・風疹の三種混合ワクチンが自閉症の原因になるとする論文を発表すると、ワクチン反対運動に火が付いた。論文は複数の独立した研究によって否定され、2010年に論文を掲載したジャーナルはこれを公式に撤回した。ヒルマンは、論文が撤回される5年前に、がんのため他界した。85歳だった。

 その死に際して、ヒルマンは20世紀で最も多くの命を救った科学者として称えられた。米国立アレルギー感染症研究所所長のアンソニー・ファウチ氏は、2005年にニューヨーク・タイムズ紙に、次のように語っている。「彼が成し遂げた科学の質と量は驚くべきものと言えます。普通なら、彼が残した功績の一つだけでも、輝かしい科学的キャリアを築くだけの価値が十分ありますからね」

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