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どん底の世界恐慌に立ち向かった、大統領ルーズベルトの決断

  • 2020年5月23日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 1932年11月の大統領選挙に向けて、民主党候補に指名されたフランクリン・D・ルーズベルトは、指名受諾演説で「ニューディール(新規まき直し)」という言葉を使った。この表現を特に強調したわけでもなければ、この表現に言外の意味を込める明確な意図もなかった。しかし、演説の数日後に新聞各紙がこの言葉を掲載し、いつしか、1930年代初頭に世界恐慌が経済や社会にもたらした壊滅的事態を収拾しようとしたアメリカの政策そのものを表すようになった。

 この選挙戦でルーズベルトは、大統領に選ばれたら何をするつもりか具体的に明言しないばかりか、矛盾する声明を出すことさえあった。あるときは公共支出の削減を約束したかと思えば、その次には、雇用を増やすための大規模プログラムへの資金提供を約束する、といった具合である。

 実際、ルーズベルトは何を語ったにせよ勝てる状況だったかもしれない。当時の大統領ハーバート・フーバーは、1929年10月のウォール街大暴落と世界恐慌の直前までアメリカが好景気を享受していたのは自分の手柄だ、といち早く主張していた。また、この不況の責任の矛先を自分以外のあらゆるもの、あらゆる人に向けようと必死だった。そのような人物が、景気回復の舵取り役に適任だという印象を与えることは、ほとんどなかったのである。

圧倒的勝利

 ルーズベルトは大統領選で圧勝を果たした。1932年11月の選挙から1933年3月の就任式までの数カ月は、新政権のメンバーを任命したり、ルーズベルトと連携して世界恐慌に取り組む道を探っていたフーバーをやり過ごすことに費やした。そして、のちに「ブレーントラスト」と呼ばれる顧問団を結成し、独自の計画を練った。

 しかし、ルーズベルトがこの時期にも、選挙戦の間もおこなわなかったことが1つある。それは、必然的に何が起こるかを明言することだ。彼は就任演説でも多くを述べなかった。ただ世界恐慌を招いた銀行家や資本家の無責任と腐敗を非難し、あの有名な言葉「われわれが恐れるべきものはただ1つ、恐れそのものだ」を言った。

 ルーズベルト自身どうすればよいのかわからないのではないかといぶかる人も多かったが、就任演説で明言した通り、語るだけの時間は終わりを告げた。「ニューディール」の中身がなんであれ、大きな決断をし、実行に移すときが来たのである。

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 世界恐慌の始まりに関する解説は、解説しようとする経済学者の数だけ存在する。それは、2008年に起こった金融危機の状況に似ている。経済学者は、それぞれ独自の見解に沿った結論に達することが多いので、起こったことについての認識は、私たちのそれと大差ないように思われる。

 当時の経済学者のなかには、国による経済への大幅介入を支持する者もいる一方で、それとは真逆の対応を求める者もいた。つまり公共支出を削減し、経済における政府の役割を減じて、市場の自律に委ねよという主張だ。もし、世界恐慌への取り組み方について合意がほとんどなされていなかったなら、その結果は誰の目にも明らかだった。

絶望的な貧困

 1932〜33年の冬は、多くの人にとって絶望的な季節となった。失業者やホームレスが至る所に見られ、アメリカでは、掘っ立て小屋の立ち並ぶ集落(いわゆる「フーバービル」)が、多くの町や都市の郊外に突如出現した。子どもたちは、靴なしで暮らし、それどころか十分な食べ物さえ手に入れられなかった。失業率は25パーセント近くまで上昇し、1300万人が職にあぶれ、工業生産高は1929年の暴落以来45パーセントも下落した。

 さらに追い討ちをかけるように、アメリカの農業の中心地に「ダストボウル」という砂嵐が襲いかかった。異常な乾燥と、環境に合わない農耕法が相まって、中西部の広い地域で巨大な砂塵嵐がたびたび発生。かつては豊かだった農地の表土を吹き飛ばしていった。

百日議会

 一方ホワイトハウスでは、膨大な問題がルーズベルトを待っていた。彼が解決策を見いだす試みにおいて、イデオロギー的政策を追求しなかったことは称賛に値する(そもそも追い求めるイデオロギーを持ち合わせていなかったと論じる者もいる)。ルーズベルトはむしろ、うまくいく可能性があるかどうかを基準に政策を立て、誰の発案であるかは問わなかった。顧問団「ブレーントラスト」は、銀行制度や労働市場の改革法を提案した。そのメンバーには、ルーズベルト政権で国務次官補を務めたレイモンド・モーリー、米国初の女性労働長官を務めたフランシス・パーキンスらがいた。

 ルーズベルトは、いわゆる「百日議会」で矢継ぎ早に法案を提出し、民主党と共和党から等しく支持を受けて、すべての法案を成立させた。それ以来、アメリカのメディアには、「就任後最初の100日間が経過してから、新大統領の仕事ぶりを査定する」という伝統が定着している。

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第一次ニューディール

 ルーズベルトは手始めに国内のあらゆる銀行を一時閉鎖させ、その間に緊急銀行救済法を提出した。これは銀行の倒産という最も切迫した問題を打開するための法案だった。銀行の破綻を恐れた人々が預金を全額引き出したため、結果的に銀行が破綻に追い込まれる事態が各地で起こっていた。

 ルーズベルトは国民に政策を説明し、そのなかで銀行の閉鎖を「バンク・ホリデー(銀行の休業日)」と形容した。このいわゆる「炉辺談話」は定期的におこなわれるようになる。3月9日に連邦議会へ提出された銀行法案は、1回しか目を通されないまま、その日のうちに議会を通過。これにより、連邦準備銀行を通じて公認銀行への無制限貸付が可能となり、実質的に全預金が保証された。銀行が4日後に営業を再開したとき、外には人々が列を作っていたが、その多くは、以前引き出した金を預け直そうとする人たちだった。マットレスの下に隠しておくよりも、銀行に預けるほうがずっと安全になったからだ。

 銀行法に続いて、農業、工業、住宅、労働に関する法律が次から次へと制定される。また、酒類の製造販売を禁じる禁酒法が廃止されたが、この措置はアメリカ国民に大いに歓迎され、税収増加にもつながった。すべての新法が銀行改革ほど成功を収めたわけではないが、ニューディール政策は全般的にうまくいっているようだった。そしてアメリカ経済は、3年間苦しんだ大恐慌から徐々に脱却していった。

有言実行の人

 結果的にアメリカの大恐慌は1933年3月に底を打った。ルーズベルトが最初の2年間に取り組んだ「第一次ニューディール」の最大の功績は、アメリカの一般大衆に自信を取り戻させ、仕事や家を失う不安なしに暮らしていける状況を作ったことにある。

 国の直面する問題の大きさにひるんだような印象を与えたフーバーとは対照的に、ルーズベルトは、アメリカ経済を再び動かして雇用を増やすために必要なことはなんでもする「有言実行の人」として、国民の目に映った。銀行や企業は通常業務に戻り始め、産業は持ち直し、大量に解雇していた従業員の一部を再雇用し始めた。大恐慌が終わったわけでは決してなかったが、多くの人々が、以前よりも明るい未来を思い描けるようになっていた。

まだ不十分?

 ニューディールに対しては、その最初の導入以来、同じような批判が繰り返されてきた。「国民生活に国が関与する可能性をルーズベルトが広げすぎた」とする意見がある一方、「ルーズベルトのやり方は不十分であり、多くのヨーロッパ諸国で採用されている包括的な社会的施策を導入すべきだった」とする向きもある。

 しかし、ニューディールの結果がどのように評価されようと、アメリカ史上、いや世界史上最も深刻で、最も破壊的な不況に立ち向かうべく、直接的な行動を起こそうと決めたルーズベルトの決断は、間違いなく、アメリカ史上最善の政治的判断の1つだったはずだ。

 ルーズベルトのニューディールの効果は、最初の導入時から数十年にわたって続いた。今なお有効な計画もある。ニューディールはまた、アメリカの政治に根本的な再編をもたらした。いわゆる「第五政党制」である。この制度において、リベラルな信条を持つ有権者が民主党を支持するようになり、保守的な人々は共和党を支持する傾向が見られた。この状況は今もさほど変わらない。

 ルーズベルトは史上初めて4期目に突入し、任期途中の1945年にこの世を去るまで、アメリカ大統領の職にあった。つまり、世界恐慌に対処しただけでなく、アメリカを第二次世界大戦に導いた人物でもあり、さらに大きな決断をいくつもおこなったのである。

出典:書籍『逆境だらけの人類史 英雄たちのあっぱれな決断』

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