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ルビコン川を渡る、禁を犯したカエサルの決断

  • 2020年5月24日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 「ルビコン川を渡る」という表現は、後戻りのきかない道へと歩み出す、その決断を下すことを意味する。

 「一線を越える」とか「背水の陣を敷く」などともいう。ルビコン自体は、大した障害ではない。アペニン山脈に水源を発して東に流れ下るイタリアの小さな川で、リミニとチェゼーナの間を通ってアドリア海に注ぐ。渡るのは簡単で、それは紀元前49年1月10日も同じだった。そのとき、ユリウス・カエサルは配下の一個軍団を従えてこの川の北岸に立ち、次の一手を決めあぐねているように見えた。

 カエサルが迫られていた決断は、どうやって対岸に渡るかということには関係なかった。すぐそばに橋が架かっていたからだ。彼を立ち止まらせ、思案に暮れさせていたのは、この川が象徴するものだった。ルビコン川は、当時カエサルが統治を任されていたローマの属州ガリア・キサルピナ(アルプスのこちら側のガリアの意)と、ローマおよびその周辺の直轄領から成るイタリア本土とを隔てる境界線だったのである。将軍が軍を率いてイタリア本土に入ることは、ローマの法律で明確に禁じられていた。

 その禁を、今まさにカエサルは破ろうとしているのであり、彼自身、それがどういう結果を招くか重々承知していた。ルビコン川を渡ることは、カエサル本人はもちろん、彼につき従う者も死罪に問われることを意味していた。従って、もし軍団を率いて川を渡るならば、かつての盟友で今や不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となったポンペイウスが指揮を執る軍勢を打ち破ってローマを掌握するしかなかった。それができなければ、刑死は免れない。自らの決断の重さにしばらく思いを巡らしてから、カエサルはルビコン川を渡る。ローマ内戦の火蓋が切って落とされた。

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それまでの経緯

 ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前100年、かつての富と権勢の大半を失った古い貴族の家柄に生まれた。将軍として名を成し、一族に昔日の栄華を取り戻すことを早くから目標に掲げていたようだ。紀元前60年までには、傑出した武将としてローマ軍で頭角を現し、幾多の戦功によって政治家としても脚光を浴びるようになっていた。さらに野望を推し進めるため、カエサルは自分と同じように軍人として成功し、政治家に転身したポンペイウスおよびマルクス・リキニウス・クラッススと協定を結ぶ。この同盟関係は、のちに第1回三頭政治と呼ばれるようになった。

 放置すれば最大のライバルとなっていたであろう2人と手を結んだかいもあって、カエサルはローマの執政官(コンスル)に選出される。これは、共和政ローマで選挙によって選ばれる公職で最高位に当たる。この選挙においては贈収賄や不正が横行し、またカエサルが執政官の任期1年を務める間、その手法に対する疑念が駆け巡った。

 しかし、執政官には在任中、たとえ罪を犯しても告発されない特権が与えられている。また、任期満了が近づくと、ここでもポンペイウスとクラッススの助力によって、カエサルには3つの属州の総督権が認められた。すなわち、ガリア・キサルピナ、ガリア・トランサルピナ(アルプスの向こう側のガリアの意で、今のフランス南部を指す)、それにアドリア海を挟んだ東岸のイリュリクムである。属州総督には執政官同様の特権が与えられていたので、カエサルは政敵がどうにかして彼に受けさせようとしていた訴追を免れ続けた。

 複数の属州の総督になることで、カエサルは4個軍団を指揮できるようになった。以後10年にわたり、カエサルはこの兵力を使ってガリア地方の残りを平定、それによって巨万の富を築き、ローマ市民から絶大な人気を博するようになった。紀元前53年にクラッススが死ぬと、ポンペイウスはまだガリアにいるカエサルを出し抜くチャンスと見て、それまで対立していた元老院の政敵たち(いわゆる元老院派)と手を結んだ。

 ガリア征服を成し遂げたカエサルの国民的人気を重々承知していたポンペイウスは、元老院派と結託し、カエサルを呼び戻すよう元老院に圧力をかける。それまで回避してきた訴追を受けさせようというのである。カエサルとしては意気揚々と凱旋を果たし、再び執政官に任命されるつもりだった。そうなれば今後も訴追を受ける恐れはなくなる。ところが紀元前50年、元老院はポンペイウスが望む通り、カエサル召還の命を発した。もしカエサルがこの命令に従っていたなら、おそらく反逆罪という重罪に問われ、政治生命はいうに及ばず、文字通りの命さえも危険にさらしていただろう。

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渡河の決断

 要するに、元老院がカエサルを追い込んだといってよい。ローマの法に従い、将軍としての野心も政治家としての野望も捨て、死刑を宣告されるかもしれない裁きに身を委ねるか、それとも、配下の兵が自分の命令に従い、まだ忠誠を示してくれるうちに、戦って血路を開くか—―ルビコン川の堤に立つカエサルが迫られていたのは、明らかにこの二者択一だった。もっとも、一個軍団を引き連れてきたところからして、カエサルの腹は最初から決まっていたようにも見える。

 カエサルはその著書『内乱記』のなかで、ルビコン川を越えたことには触れてさえいない。彼はただ、「ポンペイウスと元老院から不当な扱いを受けたため、第13軍団をガリア・キサルピナのラベンナからイタリアのリミニに進軍させた」とだけ記している。ルビコン渡河をあえて伏せることによって、もしかしたらカエサルは、自分が(軍団を率いてイタリア入りすることで)ローマの法を破ったという事実を──たとえ、同時代人には明々白々だったとしても──認めまいとしたのかもしれない。『内乱記』は、一連の出来事を正確に書き表そうとする試みというよりは、自己正当化のためのものという色合いが濃い。カエサルは、自分をローマに盾突く反乱軍のリーダーではなく、ポンペイウスによる独裁支配からローマを解放する英雄として描いているからだ。

 カエサル率いる一個軍団6000の兵がローマに向かって進軍するなか、ポンペイウスははるかに大きな兵力を有しているにもかかわらず、都を放棄してイタリア南部まで撤退することを決める。カエサルが追撃すると、ポンペイウスは再び戦いを避け、さらにギリシャまで逃れる。これを追う前に、カエサルは腹心のマルクス・アントニウスにローマを任せ、ポンペイウスが別の兵力を配備しているスペインに駒を進める。スペインのポンペイウス軍を鎮定して後顧の憂いをなくした後、カエサルはギリシャに入り、何度かの合戦を経て、紀元前48年、ファルサルスの戦いで決定的勝利を得る。ポンペイウスはカエサルの追撃をなんとかかわし、エジプトに逃れるが、そこで若年のファラオ、プトレマイオス13世の命を受けた刺客に殺された。

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凱旋

 ポンペイウスの死によって、内戦はほぼ終息した。カエサルはなおも抵抗を続けるごく小数の残党を手早く片づけ、投降する者たちにはゆるしを与えた。紀元前46年、ローマに帰還し、今度は凱旋将軍としてしかるべき祝福を受けた。その後はローマの独裁官(ディクタトル)となるが、その任期は10年と、従来は非常時に限って必要と考えられていた役職の任期としては、前例がないほど長かった。この新たな権力を使い、カエサルは首都ローマと帝国全土の行政に改革の大なたを振るう。そして紀元前44年の初頭、ついに終身独裁官となり、事実上の王となった。

暗殺

 1人の人間がそれほど強大な権力を持つことに反発する者たちは、当然ながら少なくなかった。カエサルの友人マルクス・ユニウス・ブルートゥスを含む60名の元老院議員から成るグループが、カエサル暗殺の謀議を巡らし始める。運命の3月15日、カエサルは元老院で、このはかりごとに加わった大勢の議員たちの手で刺し殺された。下手人のなかには、ブルートゥスの姿もあった。ちなみに、カエサルがいまわの際に何か言い残したとしても、当時の記録には残っていない。「ブルートゥス、お前もか」という有名なセリフは、シェイクスピアによる創作である。

 カエサルの遺産は、妹の孫で養子でもある18歳のオクタビアヌスが受け継いだ。この青年は、養父の死後に続発した内乱で、非情さと狡猾(こうかつ)さを見せつける。やがて、紀元前31年、宿敵マルクス・アントニウスをアクティウムの海戦で破ると、アウグストゥス・カエサルの名でローマ史上初めての皇帝になり、帝政が始まる。

 ルビコン川を渡ったとき、カエサルがローマの最高指導者になろうとしていたかどうかを知るすべはない。ポンペイウスを倒したことで強大な力を手にしたのは確かだが、その力をどうしたら最も有効に活用できるかという悩みは最後まで消えなかった。1つだけ確かなのは、ルビコン渡河によって、カエサルは帝政ローマの成立に至る一連の出来事の口火を切ったということだ。このとき生まれたローマ帝国は、さまざまに形を変えながらも、以後1500年もの長きにわたって命脈を保つことになる。

出典:書籍『逆境だらけの人類史 英雄たちのあっぱれな決断』

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