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解説:カタルーニャ独立運動の背景にある歴史

  • 2019年11月11日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 スペイン北東部のカタルーニャは独自の言語、文化を持つ自治州。人気の観光地であり、経済的にも豊かだ。しかし、近年続くスペインからの独立運動は、カタルーニャが歩んできた特有の歴史を反映している。

 現在のカタルーニャで人類が暮らし始めたのは先史時代、イベリア人と呼ばれる人々が社会が築いた。紀元前6世紀にギリシャの入植者が到来し、紀元前220年ごろ、ローマ帝国がこの地域を占領した。

 ローマの統治によって、農業やインフラが発達し、ラテン語が繁栄。ローマが建設したバルチーノはカタルーニャ最大の都市に発展し、その後、現在の州都バルセロナとなった。タラコ(現在のタラゴナ)は当時、ローマ帝国で最も豊かな都市の一つだった。

 西暦5世紀、ローマ帝国が衰退し、カタルーニャは不安定な状態に陥った。まず西ゴート王国、次にウマイヤ朝による支配ののち、801年、フランク王国がバルセロナを征服。カタルーニャはスペイン辺境領の一部となり、カール大帝のカロリング帝国やムーア人勢力に対する緩衝地帯の役割を果たした。

 カロリング帝国の国境地帯は徐々に力を増し、独自性を強めていった。12世紀までにはカタルーニャという名前で呼ばれるようになり、カタルーニャ語最古の文献もほぼ同時期に記されたものだ。中世になると、カタルーニャ・アラゴン連合王国の一部として、強大な海軍力を手にする。

 1469年、アラゴン王フェルナンド2世がカスティーリャ王女イサベル1世と結婚。スペインは統一され、カタルーニャはその一部となった。当初、カタルーニャは独立性を維持していたものの、最終的にスペインに完全に組み込まれた。この出来事が、19世紀に入って始まる激しい分離独立運動へとつながる。

 1931年、スペインが共和国になり、カタルーニャは自治政府の設置を認められた。しかし、スペイン内戦で敗者側についていたため、内戦の終結後、ファシストの軍人フランシスコ・フランコに再び自治権を奪われ、カタルーニャ語や独自の慣習を制限された。

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フランコ独裁政権以降

 1975年にフランコが死去すると、カタルーニャはおおむね自由を取り戻し、4年後には独自の議会、政府、旗、「国歌」を持つスペインの自治州となった。カタルーニャは間もなく、スペインで最も豊かな州へと成長したが、所得税と付加価値税の半分など、税収の一部を連邦政府に納めている。

 一部の人はこうした税収の移譲を快く思っていない。ロイターによれば、カタルーニャ州が連邦政府に支払っている金額は、連邦政府から還元される金額より120億ドル(約1兆3000億円)多いという。これは州の経済生産高の5%に相当する。

 2008年、スペインは債務危機に陥り、2010年、憲法裁判所がカタルーニャ州の自治能力を制限する判決を下した。これらをきっかけに、再び独立の機運が高まる。そして2014年、独立の是非を問う非公式の住民投票が実施され、約80%の人が賛成票を投じた。しかし、スペイン政府は投票の無効を主張。警察による暴力的な取り締まりを経て、住民投票は違憲であるという判決が下された。

 2017年10月、カタルーニャ州議会が独立を宣言。スペイン政府はこれを受け、カタルーニャ州の自治権を停止し、州政府の全閣僚を更迭した。その後、州議会選挙が行われ、独立賛成派の得票率は47.8%にとどまったものの、議席数で過半数をわずかに上回った。2018年6月、新政権が結成され、カタルーニャ州は自治権を取り戻した。その一方で、分離独立派のリーダー12人が逮捕され、スペイン政府に対するさまざまな罪に問われた。

 そして2019年10月、最高裁判所がうち9人を長期刑に処した。この判決に対し大規模なデモが発生し、バルセロナなどの都市は混乱に陥っている。連邦政府は今のところ、直接統治や力ずくでの取り締まりを求める声に応じていないが、国政選挙が控えており、再び住民投票が行われる可能性もあるため、今後、態度を一変させるかもしれない。

 カタルーニャの未来はかつてないほど不確かな状況だ。そして、かつてないほど激しい戦いが繰り広げられている。

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