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アライグマに潜む狂犬病、米国の壮大な根絶計画

  • 2019年10月1日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 米国ペンシルベニア州の都市ピッツバーグ。8月中旬の爽やかな朝、ティモシー・リンダー氏が冷凍車の扉を大きく開くと、冷気とともに強烈な魚のわた(内臓)のにおいが流れ出た。

「私はもはや臭いと感じなくなっています」と、米農務省野生動物局の生物学者であるリンダー氏は言う。

 リンダー氏は荷台に乗り込むと、段ボール箱からチョコバーのような茶色いブロックを取り出した。アライグマ向けの餌だ。

「魚粉入りのポリマーブロックです」とリンダー氏はにおいの理由を説明する。「中にケチャップの小袋のようなものが入っていて、アライグマがそれを噛むと、液状の狂犬病ワクチンが口の中に入るという仕組みです」

20年以上続く米国政府の取り組み

 ほとんどの人には知られていないが、米国政府は1997年以来、野生のアライグマ向けに経口の狂犬病ワクチンを散布している。全米狂犬病管理プログラムと呼ばれるこの取り組みは、米国内で人獣共通感染症をコントロールしようとする試みとしては史上最大の規模だ。

 プログラムには毎年2800万ドル(約30億円)の予算が充てられているが、公衆衛生調査、動物の狂犬病検査、暴露後ワクチン(狂犬病が疑われる動物に咬まれた場合に発症を予防するワクチン)接種等の必要性を減らせることを考えると、6000万ドル分の税金を節約できているという計算だ。狂犬病ウイルスを持っている野生動物が少なければ少ないほど、人間、ペット、そして家畜が感染する可能性は低くなるはずである。狂犬病ウイルスに感染してから治療しなければ、致死率は100%だ。

 狂犬病は、リッサウイルス属と呼ばれる、弾丸のような形状のウイルスによって引き起こされる。アライグマ、スカンク、コウモリといった宿主動物ごとに感染しやすい種類(変異体)はそれぞれ異なるが、どの変異体も、すべての哺乳動物に感染する可能性がある。

 もちろん人間は哺乳動物だ。そして世界の多くの地域では、イヌの狂犬病はいまだに人間にとって大きな脅威であり、毎年5万9000人近くの死者が出る。しかし、米国ではペットへのワクチン接種が普及したおかげで、イヌの狂犬病が根絶されている。だが米国疾病予防管理センターによると、それでも米国では10分に1人の頻度で、他の種類の狂犬病に感染した可能性のある人が治療を受けている。

 狂犬病ウイルスは今も、米国の野生動物の中に潜んでいるのである。

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2053年までにアライグマの狂犬病の根絶を

「調査によれば、アライグマは狂犬病が最も多く見られる動物の一つです」と、全米狂犬病管理プログラムのフィールドコーディネーター、ジョードナ・カービー氏は話す。

 1970年代に入るまで、アライグマの狂犬病はフロリダ州や最南部の州に限られていた。だが、ビル・ワシクとモニカ・マーフィーの著書『狂犬病:世界一凶悪なウイルスの文化史』によれば、「1977年以降、フロリダ州で合法的に捕獲された3500匹以上のアライグマが、バージニア州の会員制狩猟クラブに送られ、狩りの獲物として放たれた」

 そうして狂犬病は北部にももたらされたが、今のところは米国の東側にとどまっている。過去20数年間、米国政府が多大なリソースを投入して、拡大を抑えてきたからだ。

 2019年、米農務省と提携機関は、北東部のメイン州から南東部のアラバマ州にかけて、幅40キロメートルほどの帯状に約930万個のアライグマ用ワクチン入り餌を散布する予定だ。

 念のために書いておくと、ワクチン入りの餌は、すでに狂犬病に罹患している動物を治療してくれるわけではない。どんなワクチンもそうであるように、予防の効果があるだけだ。しかし、多くのアライグマがそれを食べれば、集団免疫ができ、ウイルスは行き場を失って、いずれ消えゆくだろう。

「最初の目標は、北部および西部への拡大を防ぐことでした。それは、すでに達成されています」と、ワクチン入りの餌が入った箱を車の後ろに積み込みながらリンダー氏が話す。「次は、東海岸まで狂犬病ウイルスを追いやって、最終的にはアライグマが宿主となる狂犬病を根絶します」

車を走らせ、餌を撒く

 散布チームは、リンダー氏からワクチンを受け取ると、アライグマが食べてくれそうな場所に餌を撒いていく。ピッツバーグ市内の公園や自転車道を移動しながら、あるいは同市があるアレゲニー郡の130の各市町村を一つ一つ車で回りながらの作業だ。

「工業地帯は餌を撒くのにぴったりです」と、アレゲニー郡保健所のジェフ・オブライエン氏が、ピッツバーグ市北部を運転しながら言う。「背の高い雑草がある場所や、草が茂った場所なら、どこでも撒くのにふさわしいんです」

 オブライエン氏が車を鉄道沿いにゆっくり走らせる間、2人のチームメンバーが順に窓から餌を撒く。木が生い茂る土地は撒いた。道路脇も済んだ。雨水管は?

 ちょっと待った。どうして雨水管に?

「雨水管は、アライグマにとっての高速道路のようなものです」と、この日のオブライエン氏のチームメンバーであり、ピッツバーグ大学で公衆衛生を研究する博士課程学生のヘンリー・マー氏が答える。「彼らは、道路を横切るよりも、地下に潜るほうが好きなんです」

次ページ:なぜピッツバーグが重要なのか

 アライグマの狂犬病を根絶できるか否かは、いろんな意味で、ここピッツバーグにかかっていると言える。米国を南北に縦断する「ワクチン接種済みのライン」を東へ進めるにあたって、ピッツバーグは一番初めに通らねばならない大都市だからだ。

「私たちは、他の都市のモデルになるつもりです」と、アレゲニー郡保健所で農務省との協力体制を監督しているローリー・ホロウィッツ氏は宣言する。

 とはいえ、そのモデルはまだ形成途中だ。

「個体群の60%から80%にワクチンを接種できれば、その地域の狂犬病は根絶できるという考えです」とリンダー氏は話す。「今のところ、(ピッツバーグでは)まだそこまで行っていません」

 なぜワクチン入りの餌が十分な数のアライグマに届いていないのかは不明だが、リンダー氏によれば、位置情報を記録することで効率が高まるはずだという。位置情報を記録する端末が導入されたのは去年のことだが、すでにアレゲニー郡での餌の散布方法を修正するのに役立っている。この郡ではおよそ17万個のワクチンを散布しており、手で餌を撒くエリアの中で断トツに数が多いのだ。

 また、ワクチンそのものの効果を高めるための開発も進んでいる。

空から散布する新型ワクチン餌

 ピッツバーグで今年の手撒き散布が終わった3週間後、双発プロペラ機ビーチクラフト・キングエアA90が、オハイオ州ノース・リマの飛行場に着陸した。

 エンジンが停止するや否や、6人が作業に取り掛かる。飛行機に給油し、1万5000個ものカーキ色をしたバニラ味の経口ワクチンを積み込むのである。

 これが期待の新ワクチン「ONRABウルトラライト」だ。魚粉のブロックと同じく、中にアライグマ用の狂犬病ワクチンが仕込まれており、甘味のついた誘引剤でコーティングされている。実地試験を重ねた結果、ONRABワクチンは、少なくとも都市部以外では、他のワクチンの2倍の効果があることがわかってきている。現在、農務省はこの新しいワクチンを、オハイオ州を含む5つの州でテストしているが、年内には使用範囲が拡大されるのでは、とカービー氏は期待している。

 乗務員を入れ替え、新たな荷を積み込んだ飛行機は再び空へと向かい、数百キロにわたって森林や平原に狂犬病ワクチンを撒いていく。機体に備わった小さなベルトコンベアーで、餌を均等に撒くことができるようになっている。住宅やプール、高速道路など、安全性や効率の観点から撒くべきでない場所では、手動で止めることができる。

「飛行機は、エリー湖南からウェストバージニア州まで飛びます」と、離陸時の機械音の中でカービー氏が話す。「夜明けから暗くなるまで飛び続けられます。かなり効率的です」

次ページ:87%は飛行機で散布

 今年散布される930万個の餌のうち、最大で87%が飛行機によって撒かれる予定だ。さらに、7%から10%ほどがヘリコプターで撒かれる。つまり、手で撒かれる分は、全体のほんの5%から7%ほどだ。

 南北縦断の散布作業が終了しても、任務は終わらない。続いてチームの生物学者たちが野外調査でアライグマを捕獲し、血液検査によって狂犬病への抗体ができているかを調べるのだ。その個体が抗体を持っていれば、ワクチンが効いているということであり、そうしたアライグマが多ければ多いほど、根絶に近づいているということになる。

「すべてのパズルのピースを組み合わせるには、確実に1年がかりのプロセスになります」とカービー氏は話す。

「植林のようなもの」

 2016年の調査では、もし全米狂犬病管理プログラムが廃止された場合、アライグマの狂犬病はたった20年でウィスコンシン州やテキサス州といった西の州へと広がるだろうと予測された。

 それでも、プロジェクトの関係者たち自身、このプログラムの成果や目的について人々に関心を持ってもらうのは難しいと認める。

「私たちの目標は、2053年までにアライグマの狂犬病を根絶することです」と、全米狂犬病管理プログラムのコーディネーターを務める野生生物学者、リチャード・チップマン氏は話す。「でも、その30年スパンの計画を話すと、みんな退屈してしまいます」

 そこで、チップマン氏は狂犬病根絶への道を「植林のようなもの」と考えることにしている。

「私はもうすぐ60歳です。今、オークの木を植えても、私がその恩恵に与ることはできません。しかし、木が育っているのを見ることはうれしいことなのです」

 狂犬病管理の仕事を始めて30年が経った今もチップマン氏は、特定の野生動物をターゲットとしたワクチンが開発・製造されてきたことや、空からばら撒かれたワクチンがアライグマの口に収まるようになったということについて驚嘆しているのだという。

「しかもそれを毎年繰り返していて、実際に根絶の方向に向かっているんです。これよりもいい話が、どこにあるでしょうか?」とチップマン氏は言う。「そのことを考えると、今でも本当に鳥肌が立つんです」

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