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マヤ文明の衰退、従来説を覆す研究成果

  • 2019年8月8日
  • ナショナル ジオグラフィック日本版

 古代マヤ文明において古典期と呼ばれる700年ほどの期間(紀元250年ごろから950年ごろまで)、戦争はある程度「儀式化」されていたというのがこれまでの定説だ。

 つまり、王族が連れ去られたり、象徴的な建造物が解体されたりすることはあっても、大規模な破壊行為が行われたり、一般人に大量の死傷者が出たりしたことはめったになかった。そして古典期の終わりになって干ばつが増え、食料が不足した結果、王国間の戦争が激化して文明が衰退に向かっていった、という説だ。

 しかし、8月5日付けの学術誌「Nature Human Behaviour」に掲載された論文で、気候の影響でマヤの農業が崩壊するより前に、兵士だけでなく一般人をも巻きこんだ激しい戦闘行為(「総力戦(total warfare)」と表現されることが多い)が起きていた証拠が示された。

 米地質調査所(USGS)の古気候学者デビッド・ウォール氏が初めて中米グアテマラ北部のラグナ・エクナーブという湖に向かったのは、2013年のことだった。古典期後期と呼ばれる時代(紀元800年〜950年)に起きた干ばつの証拠を探し、それが農業に与えた影響を突き止めるためだった。この湖は、古代マヤの都市遺跡ウィツナルがある崖の下に位置している。ウォール氏は、この湖の底にたまった堆積物を調べれば、かつてここで繁栄していた人々に何が起きたのかがわかると考えた。

湖に沈む火事の痕跡

「切り立った地形に囲まれているので、湖には毎年約1センチのペースで堆積物がたまります。そのため、堆積物はここで起きたことを細かく映し出す鏡になるのです」とウォール氏は説明する。堆積物が急速にたまっていることから、森が伐採されて土地が開かれたことがわかる。また、堆積物からトウモロコシの花粉が見つかっており、このあたりでは主としてトウモロコシが栽培されていたこともうかがえる。しかし、ウォール氏がラグナ・エクナーブの底から見つけたもののなかでもっとも特筆すべきは、大きな炭の塊を含む厚さ3センチほどの層だった。

「土地を開くために森を焼くことが多かったので、このあたりの湖の堆積物からは、よく炭が見つかります。しかし、湖の調査を20年間行ってきましたが、これほどの厚さの層を見たのは初めてでした」

次ページ:「バラム・ホルは焼かれた」

 最初、ウォール氏は、この炭の層が大規模な火災によってできたのではないかと考えた。この火災の後、数十年から数百年間の堆積物に含まれるトウモロコシの花粉は減っていた。この火災と花粉の減少は、ウォール氏が興味をもっていた古典期後期の干ばつによるものかもしれない。ただし、それ以前(放射性炭素年代測定によると、紀元690年から700年の間)に湖にたまった炭からは、干ばつの証拠は見つからなかった。

「バラム・ホルは焼かれた」

 ウォール氏がこの発見の意味を解明しようとしていたとき、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーで米テュレーン大学の考古学者フランシスコ・エストラーダ=ベリ氏のチームがウィツナルで初めての発掘を開始した。この遺跡は1960年代に発見されていたが、詳しい調査は行われていなかった。

 発掘が進むにつれて、意図的に壊された建造物が多く、火災の痕跡があちこちに残されていることもわかった。つまり、火は侵入者によって意図的に放たれた可能性がある。さらに、珍しいものも見つかった。古代マヤ人が名づけた「バラム・ホル」という都市の名前がはっきりと刻まれた碑だ(多くの都市のマヤ名はわかっていない)。

 この地域の他の遺跡からも石碑は見つかっている。それらに刻まれた言葉を集めたデータベースを検索したところ、そばにあるナランホという町で見つかった石碑から、近隣の王国に対する一連の軍事行動が成功したという記録があることがわかった。その中に、697年5月21日に当たる日に「バラム・ホルは焼かれた」という記述があった。

「これはまさに、炭が湖に堆積していた時期です。この記述と、火事が起きたという事実を、確かにつなげることができたのです」とウォール氏は言う。

 驚くべきことに、ナランホの石碑に誇らしげに「焼き払った」と刻まれた都市はバラム・ホルだけではない。それどころか、近隣の少なくとも3つの都市でも同じことが起きていた。その1つ、現在のブエナビスタ・デル・カヨからも、最近になって大規模な火事の痕跡が見つかっている。したがって、このころより1世紀も後の古典期後期になって初めて「総力戦」が始まった可能性はかなり低いと、今回の論文の著者らは考えている。

次ページ:マヤ文明古典期に何が起きたのか?

 ウォール氏は、「都市を焼くというのは、これまで考えられていたよりもかなり早くから一般的な戦術になっていたようです。そのため、激しい戦争が起きてマヤが衰退したという考え方は、再考が必要だと考えます」と言う。現在、ウォール氏は、マヤ文明崩壊の原因が本当に気候だったのかという観点でも調べている。大規模な火災の後、トウモロコシの生産量は大きく減少したようだが、完全に栽培されなくなるのは紀元1000年ごろのことだ。そのころ、干ばつがこの地方全体を襲った可能性が高いことが別の研究から明らかになっている。

マヤ文明古典期に何が起きたのか?

 そこから考えられるのは、たとえ激しい戦争を切り抜けていたとしても、気候の変化によって穀物の栽培が難しくなり、それによってマヤが衰退した可能性があることだ。古典期後期よりもかなり前から激しい戦争が起きていたことを示す証拠は最近になって徐々に増えており、ウォール氏の研究によってまた一つ増えたことになる。

 米アリゾナ大学の猪俣健氏は、「古典期を通して激しい戦争が起きていたという解釈が増えています。その結果、人口や経済活動が減少したのかもしれません」と言う。ただし、現在と同じように、戦争はある程度制限されていたようだ。「そのため、十把ひとからげに決めつけるのではなく、時期によってどのように戦争が変化していったかを細かく調べる必要があります」という。なお、猪俣氏は本研究には関与していない。

 同じく本研究とは無関係である米カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校の考古学者ジェームズ・ブレイディ氏は、今回の新発見を「おもしろく、刺激的」と形容する。

「古典期後期より前の戦争が儀礼的なものでしかなかったとは、どうしても信じられませんでした。戦争ははるか昔から行われてきた事実に違いなく、重大な事態を招くこともしばしばだったのです」

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