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第13回 環境倫理学 教授/鬼頭秀一さん
「プランB」の時代をリードする実践的環境倫理学者

  • 2008年2月1日
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環境倫理学 教授/鬼頭秀一さん
〜鬼頭先生の心の軌跡は、まさに20 世紀の科学に対する時代的変遷〜

Profile
東京大学大学院 新領域創成科学研究科 環境学研究系 社会文化環境学専攻 教授

 1951 年生まれの私にとって小学校時代は理工科ブームで、素朴に科学者なるものに憧れていました。化学への関心に始まり、最終的には生化学の研究を夢見ていました。しかし、その一方で、当時少しずつ注目を集めつつあった公害問題や環境問題に対しても強い関心を抱いていました。
 1970 年、大学に入った直後、所属していた大学の自然保護サークルでは、従来の自然保護のあり方に対して内部的な立場から強い批判が行われるようになり、私は、「加害者」として環境問題や公害問題にどう拘ってゆかねばならないのかを考えざるを得ませんでした。自分が夢見る科学者像と、公害問題や環境問題に「加害者」として対応する「科学者」の姿を重ね合わせつつ。
 その後、生化学の科学者になることを断念し、科学哲学の大学院に入り直して科学と社会の関係を扱う科学技術社会論の研究者になりましたが、公害問題の原点に戻って環境倫理学を研究の主題にするようになりました。
 1980 年代末に「地球環境問題」が叫ばれるようになると、地球環境問題を倫理的に捉える「環境倫理学」がアメリカから日本に導入されるようになりました。そして、私自身、グローバルスタンダードとしての役割を担いながらもその普遍性を疑われつつあったアメリカの環境倫理学を批判的に検討しつつ、日本をはじめとしてアジアやアフリカなどの非西洋社会にも有効な環境倫理学を構築することを目指すようになったのです。

 

持続可能なために『遊び仕事』を提唱する環境倫理学者、鬼頭秀一さんにお話を伺いました。
どんな自然を守るべきなのか - もう一度考えてみましょう!

今もとめられるのは、それぞれの地域や文化の視点に立った環境倫理

「環境倫理学」つてどんな学問なんでしょう?

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釧路湿原達古武地域の自然再生事業(自然林の再生)
 環境倫理学は、1970年代に北米を中心に進展してきました。当初の課題は、それまでの人間中心主義を反省することにあり、その主流は、人間から切り離され、対置された「自然」の価値や権利を措定していくものでありました。しかしながら、1990年代からは、自然を前にした人間社会の社会的、政治的問題に注目が集まり、環境正義概念の普遍化などの流れの中で、人間と自然との関係性を主題化した環境倫理学のあり方が求められるようになりました。

 今日、我が国では、自然再生事業とか、外来種駆除といった環境に配虜した政策と思われるものが、積極的に執り行われています。にもかかわらず、なぜか、「理念」の問題は、ほとんど議論されていません。担当者、関係者、声が大きい人たちの「思い(込み?)」が先行してしまっているのが現状です。とても危ないことだと思われます。

 「環境倫理学」はそうしたことをきちんと解きほぐし、多様で多元的な「思い」はそのままにしながら、納得できる論理を構築していくことに真髄がある・・と思っています。


私たちがどう生きるべきか、どのような社会を構築すべきなのかという根本の問題−それが「環境問題」なのです

今年開かれる洞爺湖サミットでは環境問題が主題にあり、ますます環境への注目が高まりそうですが…

 そもそも環境問題とは何なのでしょう。何が問題であり、どのような解決が考えられるのでしょう。「自然保護」「環境保護」といった時も、一体どのような「自然」、どのような「環境」が守られるべきなのでしょう。これらの問いに対しての「答」は、一見簡単なように思われますが、具体的な環境問題の現場をみてみますと、必ずしも一律の「答」、つまり普遍的な唯一解があるわけではないように思われます。

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白神山地赤石川流域でのフィールドワーク
 実際には、何が守られるべきなのかということでさえ、現場、現場で、或は、地域、地域で異なることが多いわけですし、その問題に何らかの形でかかわっている人たちの間でも、簡単に合意が得られるわけではありません。一見開発に賛成している人たちも自然に対して深い思いを持っている場合もありますし、「思い」のずれから自然保護団体の間でも深い溝ができてしまったこともよくあります。

 とはいえ、多くの人たちの多元性を保証しつつも、何らかの方向性を共有したり受け入れたりするという意味での「合意」を得るためには、より高いレベルでの何らかの理念や規準は必要でしょう。それこそいま求められている「環境倫理」なのです。環境危機が深刻化する今日、環境持続性を確保するためのそのような「環境倫理」が求められています。

 環境問題の構造をどのように捉え、それをどのように解決していくべきなのか、そもそも環境にかかわる意思決定はどのようであるべきなのかといった根底的な問題について考えてゆくことは、とても大切なのです。それは、私たちがこれからの未来の社会をどう構築していき、その中でどのように生きていくべきかという根本にかかわる問題なのです。


生き物のにぎわいともいうべき生物多様性が保たれてこそ「生態系サービス」という恵みが得られるのです

サミットでは「生物多様性集約」も大きなトピックスとなるようですが…

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諫早湾(干拓直前の乾燥化した干潟)
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白神山地のマタギ文化(赤石マタギの山の神の巻物)
 私たち人頬は、たくさんの生きものによって支えられている一方で、たくさんの生きものを絶滅させています。しかも、そのスピードは平均的な絶滅スピードをこの数百年でおよそ1000倍に加速させているといわれています。私たちのいのちは地球上のすべてのいのちとともにあることを謙虚に受けとめなくてはなりません。

 かつて私たち日本人は、農業や林業、沿岸域での漁業などと長い歴史を通じて、多くの生きものや豊かな自然と共生するそれぞれ地域固有の文化をつくりあげてきました。しかしながら、現代では、日本人と自然との関係は薄れ、それぞれの地域の自然と文化が結びついた固有の風土が失われつつあります。

 国連のミレニアム生態系評価のプロジェクトでは、生態系の評価を人類が受けてきたさまざまな自然の恵みを「生態系サービス」という形で捉え、開発と自然保護の二項対立を超える新しい考え方を打ち出しました。その中で、供給的サービスや基盤的サービスに加えて調整的サービスや文化的サービスも含めた全部で四つの生態系サービスを提起しました。人間の自然との豊かなかかわりに根ざした多様な地域の文化を育んできた生物多様性の保全にも新たな光が与えられました。精神的な価値や長期的スパンからの広い意味での安全性の確保も生物多様性保全の中に位置づけられたのです。昨年の末(2007年)、11月27日に閣議決定された第三次生物多様性国家戦略では、このことが説得力ある形で示されています。そこでは100年先を見越した生物多様性からみた国土のグランドデザインを「100年計画」として示しています。2007年6月に定めた「自然との共生を図る智慧と伝統」による「環境立国・日本」の創造という21世紀環境立国戦略宣言を引っさげて洞爺湖サミットに臨もうとする日本にとってこのことは大変意味があることだと思います。


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