「若年生認知症」をご存知ですか?65歳未満で発症する認知症を「若年性認知症」といい、全国で4万人近くいるそうです。
お母さんが48歳という若さで若年性認知症を発症した、長野県御代田町のケアマネジャー、美齊津康弘(みさいづやすひろ)さん。当時、美齊津さんは小学5年生でした。
まだ認知症に対する知識も理解も広まっていなかった時代。「大好きだったお母さん」が変わっていってしまうという苦悩の中、「僕がやらなきゃ」と必死に世話をし、周囲に状況を打ち明けられず、苦しみの中で毎日を送っていたそうです。
まだ小学生だった当時、若年生認知症になったお母さんと向き合う美齊津さんは、果たしてどんな気持ちを抱き、どのように過ごしていたのでしょうか…。そして今社会問題化する「ヤングケアラー」を取り巻く状況へ思うこととは? 美齊津さんに率直なお気持ちをうかがいました。
背筋がゾッとした…一緒に買い物にいったことを忘れ一人帰ってしまった母
──若年性認知症を発症する前のお母様はどんな方だったのでしょうか。
美齊津さん:母は誰にでも優しく、いつもニコニコしている明るい人でした。大きな声でよく笑い、その場の雰囲気をパッと明るくする人で、地区の婦人会長もやったりと活発な人でした。若い頃は100m走と走り幅跳びの国体選手。年を重ねても体は細身の筋肉質で、よく私に腕の力こぶを見せて「お母さんの力こぶ凄いでしょ」と言ってケラケラと笑っていました。母は末っ子の私を特にかわいがり、私が小学生になっても「やっちゃん、抱っこさせて」と母の方からせがんできて、何度も力一杯抱きしめてもらった記憶があります。
母はおおらかでとても穏やかな人でした。私は一度も母から怒られた記憶がありません。常に私の事を肯定してくれました。なので母は常に私の味方であり私の一部という感覚でした。
家族の中では、ワンマンな父にニコニコと従うタイプで、両親が喧嘩をしたところは見たことがありません。父と母は商売をしていたので、母は毎日帰りが19時半過ぎでした。それまで私と兄は2人で過ごしていたのですが、母が帰ってくると、家の中が日が差したように明るくなり、私も兄もとても嬉しい気持ちになりました。
──元気でハツラツとしたお母様だったのですね。お母様の様子に違和感を覚えたのはいつ頃のことなのでしょうか。
美齊津さん:小学4、5年の頃ですね。母が運転する車に乗って一緒に買い物に行く事が多かったのですが、子どもの目にも母の運転が危なっかしいと感じるようになりました。例えば、ウインカーをださずに曲がるようになったり。
ある時は、母が私を買い物に連れてきたことを忘れてしまい、1人で帰ってしまったことがありました。その時、公衆電話から家に電話をしたら母が出たのですが、母は先ほどまで私と一緒に買い物に来ていた事を全く覚えていない様子で、私は電話口で淡々と話をしている母の口調に背筋がゾッとしたことを覚えています。
「なんで、そんなことするの!」鏡に向かって興奮しながら話しかける母を見て泣いた
──著書『48歳で認知症になった母』では「母が鏡に向かって会話するようになった」という描写がありました。その時の状況を改めて詳しく教えていただけますでしょうか。
美齊津さん:母の独り言が始まったのは私が小学5、6年の頃だったと思います。
独り言というよりは、鏡に映る自分を相手に会話をしていた、が正しい表現かもしれません。
「○○せなアカンやろ」とか「そんなこと言ったって、仕方ないんよ」など、相手に何かを言い聞かせる様な口調で話をすることが多く、時々興奮してくると、怒りだして「なんで、そんなことするの!」などと大声をだすこともありました。
最初は鏡相手に会話を始める母を見るのが何だか怖くて、母に話しかけたり、母の手を引いて鏡の前から移動させて辞めさせていたのですが、すぐに母は鏡の前に戻って会話を再開してしまうんです。もう私にはどうすることもできないことが分かってきました。
そのうち私は母の独り言が始まると、母の後姿を見ながら部屋の隅でメソメソ泣いていました。
夢であって欲しい、いや夢に違いない
──認知症が進行していく中、偶然電話をとったお母様が以前と変わらぬ調子で受け答えをし、美齊津さんが「元に戻った!?」と思ったというエピソードも描かれていました。ものすごく切なくなりました…。
美齊津さん:心のどこかで、いつも「夢であって欲しい、いや夢にちがいない。」「お母さんは魔法の様なものをかけられていて、何かのきっかけでお母さんは元に戻るはずだ」と思っていました。だから電話で普通に受け答えしている母を見た時、「この電話が切っ掛けでお母さんが治るかもしれない!」と瞬間的に思って飛び上がるほど嬉しくなったことをよく覚えています。
──実際にはその一瞬だけ戻ったように見えただけで、若年性認知症は進行していくんですよね…。
つなぎ服を着せられた母は囚人のように見えた
──お母様自身がご自分の変化について気づいたり、不安を吐露することはあったのでしょうか。
美齊津さん:母は私に不安を吐露することはありませんでした。
思えば、母は分からないことだらけだったと思うのですが、そのことをを誰かに聞くと、誰もが「なに変な事いってる!」「アホか!」などと完全否定されて怒鳴られてばかりだったので、周りの人が怖くてたまらなかったと思います。
そういう私も母が変なことを言うと怒鳴ってばかりでした。だから私が中学生の頃、母はいつも眉間にしわを寄せて切羽詰まったような不安げな表情をしていました。
──お父様はかなりショックを受けられたのではないかと思うのですが、お父様の様子についてうかがえますでしょうか?
美齊津さん:母が病気になる前、父はよく母の事を「ちーこ」と大声で呼び寄せては、2人で色々と笑いながら仕事の話をしていました。母は父に呼ばれるといつもニコニコしながら、父の言うことを素直に聞いていました。仲の良い夫婦だったと思います。母が発症しても、父は私に母の病気の事を殆ど話しませんでした。
父は決して人前で弱音を吐かない古いタイプの男で、母の病気の事はとにかく自分で良い医者を見つけて何とかしようと思っていたのだと思います。
父の事だから子どもには心配かけたくないという思いで母の事を語らなかったのだと思いますが、子どもの様子までは気が回らなかったようです。
──お兄様はあまり関わらないようにしていたと著書にありました。弟さんの立場としてはどのように感じていたのでしょうか。
美齊津さん:兄の事情は著書では描き切れなかったのですが、兄は小さいころから両親に「大学なんか行かずに店を継げ」と言われ続けてきたので、それが嫌でたまらず、何とか勉強して大学進学を目指していました。
よく兄と二人でいる時に、兄は私のことを「おまえは自由でいいな」と羨ましがっていました。
兄も自分の人生を自分で決める為に必死だったのです。ちょうどそんな時に母が病気になってしまいました。兄が家にいた頃は母の症状は比較的軽度で、時間的に余裕がある私が手伝えば生活が回っていたため、兄が母の世話よりも受験勉強を優先することは無理もない事でした。
恐らく兄も、父からは母の病名や症状など何も聞かされていなかったため、本当は不安だらけだったと思います。
──しばらくしてお母様が治療のため入院されて。美齊津さんの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。
美齊津さん:母は入院してから、髪も短くなり、つなぎ服を着ていたので、まるで囚人みたいな様相に見えました。
私が面会に行っても、母からは「家族に出会えた喜び」や「家族から離れて暮らす悲しみ」などの感情は一切感じられず、私は寂しさや虚しさしか感じませんでした。
日常生活においては、母が居なくなったことで心が軽くなったのは事実です。
「やっとあの地獄の日々が終わった」「もう母の事を隠しながら生きていかなくていい。」そんな風に解放された気分でした。そして「もう母の事は忘れて暮らしたい」と思い、なるべく母の事は考えないようにして生活していました。同時に「どうせ人生なんて理不尽なんだ」「どうせ僕は神様から見放された運命なんだ」という投げやりな気持ちを感じていました。
今でも思い出す。「ドリフを見て大笑い」元気だった頃の母
──お母様が元気だった頃、忘れられない「家族の風景」はどのようなものでしょうか。
美齊津さん:私が小学校低学年の時に、家族全員でテレビの前でドリフを見て大笑いした時のことが印象に残っています。食事が終わり、皆でドリフを見ていたのですが、その時母だけは一人台所で洗い物をしていました。私は母と一緒にドリフを見たくて、洗い物をしている母を呼びに行き、母の手を引いて居間まで連れてきて父の横に座らせました。すると母はドリフのコントを見て、誰よりも大きな声で大笑いを始めたのでした。そんな父と母が声を出して笑っている姿が子供心にとても嬉しくて、母の膝の上に座って一緒に笑いながら幸せな気分になりました。
もうひとつは私が小学校低学年の頃の話です。
地区の公民館で新年会があり、母に連れられて一緒に参加したことがありました。
そこは、広いお座敷にお膳が並べられて宴会場のようになっていました。
そのうちカラオケ大会が始まると、母は嬉しそうに会場の前方に行きマイクを握ったのです。
歌った曲は「昭和枯れすすき」。子ども心に「暗い曲だなぁ」と思って聴いていたのですが、そんなことよりももっと気になったことがありました。それは母が音痴過ぎることでした。子どもの私もすぐ分かるくらい音程も滅茶苦茶なのですが、それよりももっと気になったのは伴奏から歌がどんどん遅れていった事でした。
それでもお構いなしに悦に入って歌っていた母。やがて曲が全て終わり伴奏も終わって静かになったのですが、なぜか歌詞はまだ残っていました。それでも母は伴奏もない中で、一人アカペラで歌い続けていたのですが、そこまできてやっと母は自分の歌がおかしいことに気が付き、はたと歌うのを止めると突然皆の前で大笑いを始めたのです。すると母の笑いにつられて会場も大爆笑になりました。私も笑いました。今思えば「昭和枯れすすき」であれだけ笑いを取れるのは母だけではなかったかと思います。
あと思い出すのは…母がよく綿棒で耳掃除をしてくれたことです。
母の膝枕で耳掃除をしてもらうのが気持ちよくて大好きでした。母が耳掃除をしながら「やっちゃんの耳垢がやらかいのは、お母さんと一緒やね」とよく言っていました。
小学1、2年の頃だと思いますが、夜寝る時は父と母の布団の間に私の布団を敷いて私は寝ていました。父は毎朝4時頃になると市場に出かけるので、その準備で父と母はバタバタと忙しく動き回るので、私も一緒に目が覚めてしまうのですが、父が出かけて静かになった後は、いつも母が自分の布団に私を招き入れて添い寝をしてくれていました。母が背中をさすってくれて安心して眠れたことを覚えています。
──現在課題となっている「ヤングケアラーへの支援」ですが、体験者としてどう考えられていますか。
美齊津さん:当時もしも1人でも話を聞いてくれる味方と感じられる人がいたとしたら、私もあれほど苦しむ事はなかったのではないかと思っています。
ヤングケアラーの中には、孤独の中で希望を持てなくなってしまう子が大勢いるのです。
でも、将来のためにも、再び自分の足で前進していける強さを持ってほしい。その為には、とにかく今この時を、諦めることなく乗り切ることが大切なのです。
じっと耐えている沢山のヤングケアラーが身近にいる事を知って頂き、もし自分の身の回りにそのような子どもがいたら、声をかけてあげて、彼らの「味方」になっていただければと思います。
「大好きなお母さん」が自分のこともまわりのこともわからなくなっていってしまう…。その様子を見つめ続け、介護しなければいけないという辛すぎる現実。私たちの想像を絶する壮絶な体験をなさった美齊津康弘さんにお話しをうかがいました。
改めて家族が元気でいることが「奇跡」であることを考えさせられます。
テキスト=mm
【美齊津康弘さんプロフィール】
1973年福井県出身。防衛大学卒業後、実業団のアメリカンフットボール選手として活躍し、日本一となる。幼少期ヤングケアラーとして過ごした経験をきっかけに、選手引退後は介護の道へ進む。現在はケアマネジャーとして働きながら、自ら開発したWEBシステム「えんじょるの」を使って、買い物弱者問題の解決に取り組んでいる。ヤングケアラーの応援歌CD「Resilience(レジリエンス)」を制作。