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理玖の体がごろりと動いた。手に指人形を握りしめたまま両手をMの字に持ち上げて、本格的に寝入り始めたその丸い額を指の腹でなでる。少し汗ばんだ額に、髪の毛が柔らかく張り付いている。
私はそっとベッドから降り、居間へと出ていく。
大きなワイングラスが五つ。干し葡萄やいちじく、チーズなどが盛られていたと見受けられる皿や小皿、残ったサラミを思わず口に運ぶ。俳句の季語集や、義母のものらしい俳句ノート。
グラス類は手洗いとの指示だ。エプロンをつけて、洗い物を始める。やがて戻ってきた義母は、きちんとセットした顎までの髪、織柄のあるセーターにフレアスカート、指には大きな石のついたリングを光らせている。
「あら、起きてたのね」
不機嫌な顔つきを向けられる。
「今日は、皆様、なかなか騒々しかったですから。理玖は、今、寝ついてくれましたけど」
私は、義母との約束は守るかたわら、自分も遠慮せずに話すと決めている。理玖が育っていった時に、自分の母親はいつも人の顔色ばかりうかがっていた人だと思われないためにも。
義母は、鼻をふんと鳴らし、
「今日は疲れちゃったわ。あの人たちったらいつも、長っ尻なんだもの」
「居心地がよいんでしょうね」
洗ったグラスを布で拭いながら、私は答える。
「あなたって、ほんと、無愛想よね」
そういう嫌味には、乗っていかないことにしている。
「自分のことは、よくわかりません」
「私、隆也の気持ちが少しわかるわ。あなたといると、なんだか気が滅入るもの。少しくらいおしゃれでもしたら?」
よほど疲れたのか、明らかに八つ当たりされているのはわかっていたが、怒る気になれないのは、自分でも未だにわからないからだ。夫は確かに憂鬱の気がひどかった。調子が悪い時は、私の顔を見て、表情が変わるたびに瞳をおどおどと揺らした。
自分たちは、大学の馬術部で出会った。二人でよく寝ずの馬番をした。若かったし、彼の前で化粧をする習慣もなかった。それでも、互いの心も体もわかり合っていたはずなのに、夫は教職について七年ほどした頃、ちょうど転勤もあったのが理由なのか、次第に心身をすり減らしていった。二人は待望の子どもを授かった。それが転機になるのを期待したが、理玖の障がいを知ると、将来を憂え始めた。将来とは、来年のことであり、明日のことであり、やがて目の前に流れる一分一秒先までになった。
「お義母さん、今日は珍しく酔っていますね?」
義母はラメをまぶしたアイラインの目でこちらを見つめ、
「そうね」と、ひと言口にして、「お風呂、入れてくれるかしら。このまま寝ちゃうかもしれないけど」
と、二階への階段を上がっていく。
根はカラッとしている。たぶん本人に悪気はないのだ。
「もし入ったら、お湯は溜めておいてください。明日の朝、理玖と入らせてもらうので」
義母からの返事はない。
パーカの袖をまくり、風呂の湯音を確かめたら、あとは自動で湯は張られていく。皿を食洗機に並べたら、居候の務めは終了だ。
皿に残っていた、乾きかけのチーズをかじった。
煌々とあかりをつけたままの部屋で理玖はよく眠っていた。私の天使。本当は夫婦の天使であるはずだった。
その右手に強く握られたままの指人形をそっと外す。
緑の毛糸の編みぐるみで、大人の人差し指の第一関節までがすっぽりと収まる大きさだ。人形には、目玉の動く目とピンク色の丸い鼻がついていて、頭には花が咲いたように白い編み飾りが載せられている。
今日はいつもより遠くの公園まで足を延ばしたら、自分たち母子には、一つの出会いがあった。
理玖はまだ公園で遊べるわけではない。ベビーカーに座って、陽に当たっているだけだ。当てられている、というべきかもしれない。
私はその横で、帽子を目深に被ってベンチに座っている。何かを求めているわけではないが、何もすることがない、そんな時間はいつも長く果てしなく感じられる。
ベンチの隣に座った女性がいた。長いきれいな髪が、風に揺れていた。
彼女はずっと黙っていたが、肩にかけてきたトートバッグから、毛糸とかぎ針を取り出すと、糸を針に巻きつけながら、くるくるとそれを編んでいった。覗くつもりはなかったけれど、見てはいけないようにも思えなかった。緑色の指サックのようなものができ、それを指につける。トートバッグから、白いポットを取り出し、蓋に注いで飲みはじめる。甘い紅茶のようだ。よい香りがした。
そうやって過ごす方法だってあったのだ。ただ公園にじっと座っているだけでなくて、一人でだって楽しむ方法があったのだ。一人じゃなくて、理玖と一緒だから、それで満ち足りているのだと必死に自分に言い聞かせていた、と気づく。本当は、誰かに話しかけられるのを待っていたようにもはじめて感じた。誰かに、理玖の名前を呼んで欲しかった。自分ではない、誰かに。
自分から、思いきって声をかけた。
「手袋ですか?」
はじめは、その指の部分を編んでいるのかと思った。
「これ?違うの」
彼女は指先に載せたその編み物を動かし、
「指人形、パペットなの」と、こちらを見て答えた。透明感のかたまりのような笑顔だった。
「早いですね、編むの」
「なんだかね、私、最近、こればっかり編んでいるから、早くなっちゃったみたい」
会話は止まってしまう。けれど、その時は訪れた。彼女はベビーカーの方を覗き込んだ。
「お子さん?」
「ええ、男の子です。理玖って言います。障がいがあります」
なぜかそこまでを一気に伝えていた。
「リクくん?そうか」
と彼女は理玖の表情を見ると、トートバッグから、すでに顔のついた指人形を一つ取り出した。今、編んでいたのと同じ、緑の毛糸、頭には白い花が咲いたようなシルエット、顔は真ん中より下にきゅうっと寄っていて、鼻先はピンクのごく小さなポンポンだ。
指の先につけて、
「リクくん、こんにちは」
と、彼女が指人形を動かすと、理玖は笑った。まるではじめて空を見た子のような遠くを見つめた笑顔だった。
「僕は、まだ名前がありません。名前、つけてくれるかな?」
と、彼女が言うと、理玖は不思議なことに手を伸ばした。
「もらってくれるかも」
と、こちらを見る。
「いいんですか?」
「ぜひ。作り過ぎちゃって、はじめはいろんな人がもらってくれたけど、だんだんいい迷惑な気がしてきて」
「迷惑だなんて、全然」
「よかった。他にもたくさんあるの。でね、編んでは写真を撮ってる」
と、コートのポケットからスマホを取り出して、次々と見せてくれた。
それはなんとも言えない可愛らしい顔ぶれだった。緑やピンク、縞々の子もいる。頭の飾りも、三角帽子や三つ編み、ドーナツを載せた子もいる。
「こんなのが作れちゃうなんて、すごい」
「簡単なの。でも心が落ち着くっていうか。大作じゃないからかな。一日一人生まれてくれるから」
「楽しそうだな。次々生まれてきてくれるんですね」
デニムの膝が濡れて、自分が泣いているのに気づいた。生まれてくることを、喜ぶ気持ちすら、自分は忘れかけていたようにも感じた。
「理玖、指人形いただいたよ。よかったね」
と、自分の指につけて動かすと、また手を伸ばしてきた。
「すっかり気に入ったみたいです」
「嬉しいな、リクくん、いい子」
と、その人は言った。
彼女のスマホのアラームが鳴った。
「もう、戻らなきゃ。よかったら、またここで会いましょう。毎週、月と金は、晴れていたらよくここに来ている。毛糸とかぎ針があったら、あなたもすぐに編めるよ。なんて、押しつけちゃいけないか」
「紅茶も、持ってきます」
「ごめん、自分のカップしかなくて」
私は首を横に振った。たぶん、笑っていたと思う。
緑色のパペットくん、彼の名前はなんとしようか。
いつか、もしかしたら来年か再来年には、理玖とそんな話だってできるのかもしれない。それが、成長を楽しみにすることなのだ。
理玖に並んで体を横たえる。指先につけたパペットの目玉が、くるくる動き続けている。
「こんにちは、理玖のママ」
どこからそんな声が出るのだろう。
「おやすみ、パペットくん」
灯りを消すと、薄いカーテン越しに月明かりが鈍く部屋を照らしていた。
理玖の額が輝いて見えた。
(つづく)
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