みなさん、こんにちは。ゴスペラーズの北山陽一です。
前回は、AWSの女川プロジェクトと気仙沼プロジェクトを続けていく上でどんなリスクがあるのか、それにはどういうふうに対処するのか、といったことを点検し直していることを紹介したわけですが、そうしたプロジェクト全体の話とは別に、そこに参加した学生たちのなかには様々な、そして具体的な展開が生まれています。
例えば今年の夏、1ヶ月間インターンとして気仙沼に行った人がいたり、10月1日から女川の街づくりのNPOに半年間のインターン生活に入った人がいたり、あるいは希望を出して来年女川に教育実習しにいく!という人もいます。震災がなければ、あるいはAWSがなければ、気仙沼や女川には一生行くことはなかったかもしれない人が、その街を第二の故郷として、もっと深く関わりたいと考え、行動に移していっています。
正直に言って、そこまでする人たちがこんなに早く現れることを僕は予想していませんでした。現場との関わり方ということについて言えば、僕自身も彼らにあっさり追い越されてしまっているわけですが、そういうふうに人生の舵を大きくきった彼らの決心に対して、僕はAWSの代表として責任の重さを感じていると同時に、一人の人間としてはすごくうれしいというか、胸が熱くなる思いを感じています。そこに住むということは、実際問題として、月に1回のペースで通ってるときには予想できないようなトラブルに巻き込まれたり、それでなくても人間関係がどんどん複雑になったり、直面する大変さは何倍にもなると思うんですが、本人たちはもちろんそういうことを重々承知の上で敢えて飛び込んでいるわけです。それだけでも、彼らを讃えたいと思うし、誇りに思います。ただ、ここでひとつ確認しておきたいのは、AWSに関わった人間のすべてがそういうふうにすればいいというものでもないということです。これも何度かこの連載でも書きましたが、このプロジェクトは30年くらい続けてこそ意味があるものだと僕は考えていて、たとえ今は就職先の関係でずっと西のほうの地域にいて、まったく女川や気仙沼に行けないという人でも、いろんな状況が整ったタイミングでいまやってる人と入れ替わってくれればいいと思うんです。
実際、そういう人もいるんですよ。就職して仕事をやっていくのにいっぱいいっぱいでSNSでもほとんどやりとりがなかった子が「そろそろまた戻りたいと思います」と言ってきてくれたり、名古屋や福岡から東京にやって来た人がたまたまプロジェクトを知って参加するようになったり、そういうふうに確実に広がりが出てきてるんです。それこそが本当に望むところで、次にどこかで何かが起きたときにも、すでにその土地にはAWSに関わった人がいるというネットワークを作れたら、本当に強いと思うんですよね。
例えば同じコンクールに出場して自分の出番の前後だったとしても、他のグループと交流を持つようなことはほとんどないので、「あのときのコンクールで自分たちのひとつ前に歌った学校の人たちが洪水で大変な被害に遭った」というニュースを知っても、それを身近な出来事として実感を持つことはなかなか難しいと思います。それを、何かひと手間かけてお互いの名前や出身地を意識するような場面を作ると、「あのときいっしょに歌ったよね」とか「あそこでゲームにいっしょに参加したね」とか、そういう思い出を共有することがすごく大きいと思うし、女川や気仙沼にわずか1年か2年関わっただけで、そこに飛び込もうと決心した人が現れたというのはその素晴らしい証明にもなっていると思うんです。だから、ちょっとずつでもそういう思い出を積み重ねていけるようにしたいなという気持ちがますます強くなっています。工夫次第で、そんなにコストをかけなくてもできると思うんですよね。
「女川/気仙沼のプロジェクトを30年続けます」というのは随分大きな風呂敷を広げたと思ってますけど(笑)、でもその僕が直接には関与しないところで人生の決断がなされて、そういう人たちが少しずつ現れているということは、「歌が好きだから」とか「ハーモニーが好きだから」というところでつながり合うネットワーク作りが一歩ずつではあっても確実に進んでいる証拠なんじゃないかと思っています。
というわけで、妄想ばかりでなく、まっすぐな意欲もますます高まっている北山でした。